第7話
近所の居酒屋で、俺と岡永くんと蜂須くんと大谷くんと梶木先生は乾杯した。
内心気まずさでいっぱいの気分で飲んだ酒は、やはり不味かった。
蜂須くんは頻りに岡永くんを褒め、岡永くんがアシスタントしていたときの話をした。梶木先生もそれに楽しそうに乗っかった。大谷くんは始終無言だったし、褒められている岡永くんも無言だった。
かくいう俺も、何も喋ることを思いつかず、また喋ってもあの冷たい視線を一々送られるのではないかと、それを恐れて無言にならずにはいられらなかった。
飲みの席は蜂須くんと梶木先生だけが明るいムードで進行し、じきにお開きになった。
蜂須くんは「二次会をしよう!」と軽く酔ってはしゃいでいたが、「僕は家で連載用の漫画のネーム描かないとダメなんで」と今夜の主役であるはずの岡永くんはさっさと帰っていった。その方が俺には気楽で有り難かったから、内心ではホッと安堵していたら、帰り際の岡永くんからまた鋭く睨まれたような気がして、首を竦めた。いや、岡永くんは睨んでいなかったのかもしれない。それでも俺は睨んでいると思わずにはいられなかった。
それから梶木先生も、岡永くんと似たような理由で帰っていった。
結局、二次会は俺と蜂須くんと大谷くんの三人で行われることになった。
本当はもう帰って寝たかったのだが、気づいたら参加に同意していることにされていた。
それでも岡永くんが帰ったせいか、幾分か先程よりも酒の味が旨く感じられた。
だから先程よりも酒が進んで、酒が進み過ぎてしまった。
俺のあの悪癖が出てしまったのだ。我に返ったときには、口が勝手に動いていた。
「――可笑しいよなぁ、どう考えても」
「何が可笑しいんです?」
酔って頬の赤い蜂須くんが、不思議そうに私に問う。
「――岡永くんが、デビューすることがだよ」
「へ?」
「読み切り数回しただけで連載を持てるって――可笑しいだろうよ」
「はぁ。でもそういう漫画家さんは結構いますよ。才能さえあれば――」
「あいつに才能なんかない!」
俺はビールジョッキをどんと音を立てて机に下ろした。
蜂須君がびくっとし、「な、何言ってるんですか」と戸惑った声を出す。
「俺はあいつの漫画を読んだんだよ。それでわかった。あいつは才能なんかない」
「何を根拠に、そんな酷いこと――」
「俺の感性がそう言ってんだよ! あいつに漫画の才能はないって!」
違う。俺の完成はそんなこと言っていない。実際は、実際は――。
しかし、俺の口は私が思ってもいないような嘘八百を並べ立てる。
「展開は所々雑だし、キャラクターには感情移入できない。あんな荒削りの漫画が何で連載を持てるんだ? おい、蜂須。あいつの実家って、なんか金持ちなのか?」
「よ、呼び捨て? ――いえ、岡永くんの実家は、普通のサラリーマン家庭ですけど――」
「じゃあ親戚には? 交友関係は? 金持ちとか、出版界の繋がりがある人間はいないのか?」
「あの、もしかして岡永くんがコネで連載を持ったと――」
「そうだ、そうだとしか思えないだろうが!」
あぁ、何で――何で俺はこんな醜態を晒しているのだろう?
目を覆いたくても、もう取り返しがつかない。
脳の興奮している部分と、冷えた部分のギャップが気持ち悪く、吐き気まで込み上げてきた。
「――見苦しい嫉妬ですね」
そんな俺にトドメを刺しに来たのは、突如沈黙していた口を開いた大谷くんだった。
「嫉妬? 嫉妬なもんか! あんなのに嫉妬なんかしていない! れっきとした事実だ!」
「れっきとした事実とは聞いて呆れますよ」
大谷くんはとても冷たい目をしている。先程までの岡永くんの目よりも、遥かに。
なるほど、やはり先程岡永くんに睨まれていたような気がしていたのは気のせいだったか。
今大谷くんが俺に向けている目こそ、真に人を見下した目だ。
「真鍋さんは、岡永のやつが描いた漫画、全部読んだんですか?」
「全部は――」
全部は読んでいない。というか、一つしか読んでいない。あのときの一つしか――。
「その感じだと、どうせ読み切りで掲載された漫画も一つも読んでないんでしょう?」
図星だった。俺は、読み切りとして掲載された岡永くんの漫画をどれ一つも読んでいない。
読めなかった。読みたくなかった。面白くても面白くなくても、きっと俺は嫉妬していたから。どうしようもなく、嫉妬して、まともな評価もせずに、嫉妬して――。
「真鍋さんが岡永の漫画を読んだのは、あの日ですよね。二週間前ぐらい前の」
どきっとした。なぜあの日のことを大谷くんが知っているのだ。
俺が訊ねる前に、大谷くんは先を見越したように言った。
「岡永から、直接聞いたんですよ」
「え? で、でも大谷くんと岡永くんは仲が悪かったはずじゃ――」
「誰が仲悪いなんて言ったんですか」
俺は咄嗟に蜂須くんを見た。蜂須くんはさっと俺から目を逸らした。
「――まさか、蜂須くんも知ってるのか?」
「その、酷評されたとは言ってましたね、あいつ」
俺は煮え切らない蜂須くんと大谷くんを交互に見遣る。
まさか――もしかして――仲が悪いと思っていたのは俺だけか?
「い、いつも喧嘩してたのに――」
「仲が良くても喧嘩くらいするでしょ。酒だってしょっちゅう一緒に飲むような仲ですよ、俺と岡永は。ついでに蜂須も。岡永とのルームシュア相手だからな」
「お、俺だけ、俺だけが――」
アシスタントの中で――仲間はずれだったということか?
俺ががたっと席を立った。そして蜂須くんの胸倉を掴んだ。
「何で俺だけ!」
蜂須くんは目を白黒させながら、宥めるような口調で答える。
「だって真鍋さんって、僕たちよりも歳が少し上じゃないですか。話合わないだろうなと思って――。それだけですよ! それだけ! 別に意図的な他意はないですよ!」
「子供じゃないんだから、いい歳こいて仲間はずれくらいで怒らないでくださいよ」
大谷くんに鼻で笑われ、俺は蜂須くんの胸倉から手を離す。
「俺は――俺はただ――」
「あんた、随分と器の小さい人間なんだな。人を進んで中傷するのはあんたみたいなやつだ」
「批判してるだけで、中傷ってわけじゃ――」
「事実を無視した持論だけの批判は批判とも呼べねぇよ。さしずめ、あんたは漫画家になりたいのになれない鬱憤から、他人の作品を読んだら最初に粗から探す捻くれた精神が培われちまってるんだろう。漫画雑誌に載るほどの作品には必ず何かそれほどの魅力があるはずなのに、それも一切探さずにただ嫉妬して、偉そうにここがダメだ、あそこがダメだ、と評論もどきを展開するだけ。あんたみたいなやつは一生漫画家にはなれないよ」
「な、ななな、お前に何がわかるんだっ!」
「わかるよ。なんせ俺の感性がそう言ってんだからな」
大谷くんは意地悪そうに、にやりと笑った。
「俺、岡永と同じであんたの下描きのノート、読んだんだよ」
「勝手に人のものを――」
「あんたの言葉、そっくりそのまま返させてもらうよ」
大谷くんは俺の方をぴんと真っ直ぐに見て、厭味ったらしい口調で言った。
「真鍋さん、あんた才能ないよ」
「――――」
俺は――何も言い返せなかった。ただ絶句して、大谷くんのにやけ面を見返していた。
助け舟を求めて蜂須くんにも視線を向けたが、蜂須くんは俺から目を逸らし続けていた。
「僕も――正直真鍋さんは才能ないと思いますよ」
耳には届くように調整された蜂須くんの小声が、俺の鼓膜に深々と刺さった。
「――うるせぇ」
俺は怒りとも悲しみともつかない感情で、がたがたと全身が震えた。
震えながら呟いた。「うるせぇ」今度は先程よりも大きな声で。
「うるせぇっ! 才能なかろうが諦めなけりゃ夢は叶うんだよっ!」
俺は机をばんと叩いて、その居酒屋を飛び出した。
勘定は済ませなかった。傍からは食い逃げにも見えたかもしれない。
とにかく俺は逃げた。大谷くんからも、蜂須くんからも――現実からも。
だが、大谷くんも蜂須くんも追いかけてこないのに、現実だけは俺を追いかけてきた。
いくら逃げても、どこまで逃げても、しつこく追いかけてきた。
そのうち逃げても仕方がないのに気づいて、立ち止まったら追いつかれたが、追いつかれても特に何もなかった。ただ一つ、強烈な吐き気に襲われて、その場で嘔吐した。
苔だらけの塀に手をついて、ふらふらした足取りで歩いた。目の前の景色がぐにゃりと歪んでいる。眩暈で何度も転びそうになった。実際に一度転んだ。痛かった。
また急に、胃酸が喉元まで競り上がってきて、吐いた。そして泣いた。年甲斐もなく、声を上げて泣いた。通行人が汚らしいものを見る目をして私の横を通り過ぎていった。
涙も胃液も枯れたら、また歩き出して自宅に帰った。
帰宅すると、玄関先すぐのところで、サインボールを飾ったガラスケースが目につく。
私は倒れ込むように、そのガラスケースにしがみついた。
ガラスケースの側面に額をつけ、その中のサインボールにただ念じる。ただただ念じる。
叶う叶う、絶対に叶う、諦めなきゃ叶う、叶う叶う、諦めなけりゃ、諦めなけりゃ――。
そうしていたら、悲しみの方に傾いていた感情の比率が、段々と怒りへと移行していった。
「あいつら――見返してやる」
見返してやる。再び蘇ってきた怒りの中で、俺は思った。
才能がないといったあの台詞を撤回させてやる。そして認めさせてやる。
和田敦彦賞を獲ったあの漫画よりも、岡永くんのあの漫画よりも、どの漫画よりも、面白い漫画を描いて、すごい漫画を描いて、わからせてやる。ぎゃふんと言わせてやる。
俺はゆらりとガラスケースから離れて、いつも漫画を描いている勉強机に飛びつく。
その上にはまだ三コマしか進んでいない、描きかけの原稿。
ペンを握り、その上に走らせる。不思議と物語やら構図やらが脳裏に次々と湧いてくる。
――描ける。いや、描いてやる。描いて出世して、あんな口を叩いたことを後悔させてやる。
しばらく私は無心で手を動かした。ペンが紙の上を滑る音だけが煩く聞こえていた。
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