哲学問題(ちょろっと高校時代の文章も混ざります)
自分が認識するから世界があるか、世界があるから自分があるか
まずこの話における大前提を定義しなければいけない。
自分とはこの話においてのみ、エスと自分と思考と超自我をすべて一緒としたものとする。つまり個体である人間そのもの。
世界とは超自我と思考から離れているものすべてをさすとする。
認識とはそれがそのものであると理解すること。
ふたつの立場に立って考えてみたいと思う。
・自分が認識するから世界がある(知覚一元論?)
幼児にとって、犬は犬でしかなく、ゴールデンレトリバーとかダックスフンドとかいう区別はない。ゴールデンレトリバーであるとかダックスフンドであるとかという事実(ここでいう事実とは人間本位のものであり、真実とは全く異)を教わり、初めてゴールデンレトリバーとかダックスフンドとかいう存在があることになる。
☆
あくまで幼児に限った、つまり自分単位の話であると思う。
しかしこれは自分こそ神かという問題に通じてくる。もし自分こそ神であれば、この論理は成り立つし、自分は世界の一部であれば、この論理は成り立たない。
・世界があるから自分がある
自分が生まれる前から世界は存在した。人間はひとつの個体にすぎない。自身の意識にかかわらず世界は存在する。
☆
自身の意識がなければ自身にとって世界は存在しない。
自分が生まれる前のことはどうやってもわからない。
たとえば犬というものを自分が知らないとする。すると自分にとって犬は存在しない。それでも犬が存在すると主張するのが後者の論で、存在しないというのが前者の論か。
自分こそ神かという問題はここでも通じてくるのか。自分こそ神であればこの論理は成り立たない、というか全くの見当違いで、自分は世界の一部であれば、この論理は成り立つ。
どうやら自分は神か否かというのを論じるのが先決らしい。
*そもそも自分は神か否かとは
これは何も、自分は他の人間よりすぐれた全知全能の存在であれと思えというのではない。そういった誤解をされるのを一番おそれている。
たとえば自分が生まれる前、世界はどこにあった。どこにもなかったはずだ。つまり自分の認識により世界は存在している。
私はこの説を支持している。しかしあくまで自分単位での話だ。
「本当にそう思う」と「本当にそうである」というのは別のこと。私が本当にそう感じるからって、本当に世界はそうであるとはわからない。
よって私は人間である限りわからないという結論を出していた。超自我だけの存在になればあるいは可能かもしれない、それこそ神であると思うが。
しかし私はわからないとさじを投げる人間にはなりたくない。でもわからないものはわからないんだ。
やはり自我についても言及しておいたほうがいいかもしれない。
・超意識にとっては自分が存在するから世界が存在する? 存在単位にとっては世界が存在するから自分が存在する?
*自我について
注意。ここでいう自我とはフロイトの論の自我ではない。
・自我の定義
自我とは四つに分けられる。
1.エス
フロイトの提唱したイド(=エス)よりとった。
食欲とか睡眠欲とかの、快楽的であり動物的でありそして生存目的である欲求、であるところの自分自身をエスと呼ぶこととしている。
2.自分
自分とは個体であり一人の人間である、私で言えば一女子高生である自分のことをさす。社会的役割をもち、肉体である自分自身のこと。
ここまでを実在単位と呼ぶ。実在単位は消滅する。
3.思考
「勉強しなきゃな」とか「このゲーム面白いな」とか「あいつ嫌いだな」とかの、一個人として考える自分自身のこと。
超意識との区別が曖昧。
「もうひとりの自分が止める」とか言う場合は、大体の場合思考が自分を止めているのだと思う。
1,2,3とここまでを存在単位と呼ぶ。存在単位には個人差がある。ひとりの人間を形成するのはエス、自分、思考であり、超意識に気がつかない人もいると思う。しかしこの三つは誰もが有している。
4.超意識
エスと自分と思考をひとりの人間として客観的に見ることのできる存在である。哲学的な問題をあつかう。宇宙を認識できる。個体差がない。
3,4これを思考単位と呼ぶ。
2,3 これを個体自我と呼ぶ。
☆なかがき
つかれたてすとまえだよー
何私かいちゃってるんだろ? これまちがってたらなんかさ……なんか……おわる。
てかうまく説明できない……私はけいけんろんじゃだったのかな?かな?
でも理解してほしいよーこっから自我の理想的なありかたまで考えてあるんだよー>< 理解してほしいなんて傲慢だな、私が理解してもらうんだ。
だからフロイトとデカルトすきだよ。いいせんまでいってたから。でもいけだあきこさんがすきだやっぱり。ていうかあのひとの影響うけまくりだな。
なかがきらくだ。っていうかブログのノリでたのしい。
てな、今書いているのは思考と自分なんだ。つまり個体自我だな。××菜月である「思考」を、同じく××である「自分」の指先でうっている。
超自我で考えていることは、あんまりない。気がついたらなってるけど。
こうして感覚で明確にわかるんだけどな……感覚論なのか?と思うとそれがいちばんこわい……
しかしな。こうやって色々分けているが、最終的にはこれらが一致することこそ理想状態だと思うんだ。
……いいや、あとでかく。
テストなにそれおいしいの?
*閑話休題
そもそもの議題「自分が認識するから世界があるか、世界があるから自分があるか」にはカントが考えを提示しているではないか。カントには脱帽した。私の思っていることを的確にわかりやすく、一般化し深く言及してくれた。
世界そのものを認識するには、自我ではなく理性が不要なのか。しかし感覚だけの存在というのは幼児だ。幼児は世界そのものを認識しているのか。肉体だけの存在ならば、世界そのものを認識できるのか。
誰が世界そのものを認識しているのか。だから私は、地球こそ神であると思っていたこともあった。今思うといささか極論にすぎるが。
*各哲学者たちの評価
とりあえず私が好きな人たち。
・デカルト
二元論において評価できる。すべてを疑ったその姿勢には脱帽。コギト・エルゴ・スムは名言。当たり前のことを気がつくのは難しい。
・フロイト
衝撃的なかなりの極論ではあるが(すべてがリビドーに基づいているとは私は思わない)、その心の構造に対する考えは評価できるだろう。エスという名前は彼が提唱したものからいただいた。一時期少しだけ傾倒していた。
・カント
感動してしばらく放心状態になった哲学者。
合理主義か経験論か、どっちかに偏ることについて啓蒙してくれた。
*またしも閑話休題
つまりこの「自分か、世界か」という問いは、「経験論に拠るか、合理主義に拠るか」というふうに言い換えられるのではないか。人間本位のほうは、合理主義。世界のほうは、経験論。……世界があるから自分があるって、経験論でしか説明つかない気がするのだが。
自分は神であるか否かという問いも「経験論に拠るか、合理主義に拠るか」といえるのではないか。自分は神だというのなら合理主義だし、そうではないというのなら経験論。
つまり私が真に問わなくてはいけないのは、「経験論と合理主義」ではないか。わかりやすく言い換えれば、感覚を信用するか、理性を信用するか。
*なかがき2
なんだかすごくおもしろいことになってきた。
こんな当たり前のことを理解するまでこんなにかかった。あー馬鹿だな。でもいいんだ。馬鹿は馬鹿なりに成長していく覚悟だ、っていつか言い切ったもんな。
経験論っていえばバークリだな。ばーくりばーくり。意見似ててさっぱりびっくりしたよ。
でもな、哲学者の名前とか、専門用語なんて、本当は何もいらないんだよな。でも、やっぱり書き残すってなると話は別なんだ。言葉はある程度の限界までにおいて共通認識だから。
意見は言わない。語弊があった。存在単位という個体としては言うけど、超意識としては言わない。私は誰にとっても正しいことだけ考えたい。
という、これももう意見だというね。矛盾だ。
で、やっぱり影響うけてるのすごくよくわかるね。でも宗教になんかしないよ。ただ深く尊敬するだけ。
深夜だからテンションおかしい。勉強してないし。こんな面白いこと考え始めたら寝れないし勉強できない。
この二重性、すごく楽しい。存在単位と超自我の二重性な。生存すると同時に思考する存在であるということを、めいっぱい享受できる。
……人はそれを現実逃避と呼ぶけどね!
*
……あれ?
なんか私、すごい重大な勘違いしてない?
整理してみよう。
・人間本位及びに「自分は神」肯定派について。
人間本位とは、個体にとって、だ。
根拠は自分しか確固たるものがないから。コギト・エルゴ・スム。
理性を信用するのがこちらだと思っていたのだが、バークリは感覚を信用している。知覚一元論。デカルトも自分だけが存在するといっている。
……?
*
ああそういうことか……
「人間本位=合理主義」「世界本位=経験論」とわけることがまず間違っていたらしい。
同じ人間本位説でも、その根拠は理性に拠ったり感覚に拠ったりとする。(カントとバークリがいい例?)
理性に拠るのは、「確固としたものは自分だけだから」。
感覚に拠るのは、「自分が認識しないものは存在しないから」。
逆に世界本位説では。
理性に拠るのは……不可能ではないのか。
感覚に拠るのは、「私の外に物質は存在するから」。
わかりやすくなってきた。
三パターンあるということになる。
しかしこれだと人間本位説が明らかに有力だ。私も人間本位説を支持している。
あくまで「自分」にとっては。
自分にとっては人間本位説という結論でいいだろう。世界本位説には根拠がない。
しかし。
本当のところはどうなのか、私はそれを知りたい。
しかしカントはそれはわからないと言っている。私もそう思っていたんだ。いたんだが……
ああ話が戻ってきてしまった。
つまり問題点は、
・理性(もしくは自我である可能性もある)のない存在というものは何か。それは世界そのものを認識できるのか。
・認識できた場合、世界とはどうなっているのか。
ということか。繰り返しだけど。
自分にとって正しい答えを見つけることなんて簡単だ。
問題は、絶対に正しいことを見つけることだ。絶対的に。
*どうでもいいけどよくないこと
私個人単位の話。
世界そのものを認識した場合、この世界とはどうなっているのか。
とてもおぞましい世界なのではないか。
私以外に誰も存在しないのではないか。
こういった恐怖が拭い去れない。
他人の存在を存在することは不可能、私が存在するということを証明することも不可能。
こう考えるとおそろしくなる。
私は人形と喋ってるのかもしれない。
むこうは私を人形と思ってるのかもしれない。
だからサドの「相手にとってはつらいが、自分は気持ちいいのでよいことだ」となどという発言が生まれるのではないか。
*なかがき3
べんきょうしろよこうこうせい
なんだかたいへんなことになってきた
そうかそうかそういうことか……
かんかくせかいとりせいのせかいまで飛ばなきゃわからないかもしれないこれ
あー関係ないことなんかひとつもないね
しかし重大な勘違いをしていたね!何考えているんだ私……
本当にそうである、なんて知ることできないんだよってカントは言った
私もそう思っていた
でも不可知主義者で終わりたくない
本当に哲学って不毛だね、なにもうみださないね。将来なんのやくにたつってきかれたら答えられない。哲学wwwとかいわれてもあーとしかいえない。
でももうやめられない。
わからないということを知るというのがこんなに楽しいとは。ソクラテスやっぱ正しいよ。
とはいえさすがに勉強しないとなので私がさっき打ち出した考えを検討したらおわりにする。
*暫定的な結論まとめ
個体にとっては、人間本位である。
本当に存在するかどうかは理性(もしくは自我)が存在する限りわからない。
*やっと私の考え
簡潔に述べる。
実在単位にとっては、「世界があるから自分(=実在単位)がある」。(さっきから繰り返し述べている、「個体にとっては人間本位説」とまったく同義。)
思考単位にとっては、「自分(=思考単位)があるから世界がある」。
*なかがき4
にほんごって、むずかしい、と、おもいました。
じぶん、というものを、わけなければ、いけないのかな。
りそうぞうまで、たどりついてないよ。それぞれのたんいがね、いっちするのが、やっぱり、いいんだよ。じつざいたんいと、しこうたんいが、はなれていたら、それは、かいりだよ。かいり。ばかのはなしにも、かいたよね、あれは、ちょういしきないけれど。そんざいたんいと、しこうの、かいりだ。
乖離するとギャップが生じる。ここから劣等感も生まれる。
乖離すると自分の肉体が自分として感じられなくなるから、肉体的な痛みがなくなる。
乖離すると自分の感情が自分として感じられなくなるから、感情がなくなる。
乖離すると自分自身に責任をもてなくなる。
乖離すると自分を憎み始める。もしくは異常に愛し始める。
あまりにも一致しているのも困るかもしれないけど。その場合何も考えなくなるから。言い換えれば実在単位に負ける。ピラミッド型じゃなくて、同時にひとつの入れ物の中に存在しているのが理想。思考単位だけが風船のようにふわふわ浮いてたら乖離してしまうんだ。
乖離が悪いこととは言わないけれど。けれど。けれどね。損なうことではあると思う。
自分にとってか、すべてにとってか。
これでずいぶん話が違ってくる。
だから、自分はすべてか否かっていう問題が大事だ。
存在単位は消えるけどね
思考単位はわからないんだ
わからない
だから死はわからない
死が無であれば思考単位にとって死は存在しない。ってことは……
……これはまたかな。
こぶんとかかがくとかなんもやってなーい!!!!^^^^
えらそうにしてるまえにべんきょう^^^^
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