第65話・忘れたくない存在

 拓海さんの家へと様子を見に行った日の晩御飯も、いつもの様に会話一つ無い食事タイムになっていた。

 俺は間を持たせる為だけにつけていたテレビに視線を向け、そこから流れる内容に耳を傾けたりもしていたけど、結局は明日香の事が気になってその内容もまともに頭の中に入ってはいなかった。そしてそんな不毛な事をしている内に、明日香はまた夕食を少しだけ残して自分の部屋へと戻って行った。


「……やっぱりちゃんと話さなきゃいけないよな」


 俺は拓海さんの家を出てからずっと考えていた。明日香に今回の事を話すべきかどうかを。

 個人的にはちゃんと話をした方がいいとは思うけど、その事で明日香を余計に落ち込ませてしまうかもしれない。それは俺にとってもよろしくない事だから悩みどころだ。

 それにただ落ち込むだけじゃなくて、明日香が前世の事を思い出した時の様に、精神的にまいってしまう可能性だって考えられる。だからこの件については俺もかなり慎重になっているわけだ。もちろん、そんな事を考える根拠はある。

 それは、拓海さんが由梨ちゃんの事を覚えていなかった件に起因する。これは言い換えてみれば、俺と明日香がお別れをする時が来たら、俺も拓海さんと同じ様に明日香の事を忘れてしまうという事に他ならない。

 前世で家族から虐げられていた明日香にとって、それは何よりも恐ろしい事だと思う。明日香は誰よりも人との繋がりを大切にする。だからこそ、『忘れられる』という事に対して誰よりも恐怖を感じている節がある。それを考えると、今回の件は話すべきではないのかもしれない。

 だけどこのまま黙っていたとしても、いずれは拓海さんが由梨ちゃんの事を忘れてしまったというのは気付かれてしまう。だったら俺からその事をちゃんと話しておくべきなのかもしれない。


「……よし」


 俺はリモコンでテレビの電源を消してから台所へと向かい、冷蔵庫に入れていた野菜ジュースを取り出してコップに注ぎ、それをグイッと飲み干してから明日香の部屋へと向かった。


「明日香。ちょっといいか?」

「……うん」


 明日香の部屋の前に立ち、コンコンとドアをノックしたあとで恐る恐るそう尋ねると、中から相変わらずの弱々しい声で返事をするのが聞こえてきた。

 そんな落ち込んだままの明日香の返事を聞いて静かにドアを開けて中へ入ると、部屋の真ん中にある小さなテーブルの上にアルバムを置き、それに視線を落としている明日香の姿が目に映った。


「写真を見てたのか」

「うん……」


 アルバムを見ながら小さく返事をした時、横に居る明日香の表情が更に深く沈んだ様に見えた。俺はそんな明日香の隣に静かに座り、開いていたアルバムを見た。

 そのページに仕舞われていた写真は、今月の七夕に撮った写真だった。しかし俺のアルバムや拓海さんの家で見た時と同様に、そこには由梨ちゃんの姿は一切写っていない。分かっていた事とはいえ、やはり辛いものがある。


「……ねえ、お兄ちゃん。どうしてここに由梨ちゃんの姿が写ってないのかな? 確かに由梨ちゃんはここに居たはずなのに……私の隣に居たはずなのに……」


 明日香はそう言って由梨ちゃんと二人で写っていた写真を見ながら、旅立った親友が写っていた場所を優しく撫でる。


「……お兄ちゃんな、今日拓海さんに会って来たんだ」


 その言葉に明日香の身体がピクッと反応したのが分かった。


「…………拓海お兄ちゃん、どうしてた?」


 しばらく間を置いたあと、明日香は少しだけ躊躇ちゅうちょする様にしてそう聞いてきた。


「元気にしてたよ」

「そっか……由梨ちゃんの事は何か言ってた?」


 明日香からこんな感じの質問が出る事は予想できていた。けれどいざ本当にそんな質問が出ると、正直に答えるべきかどうかを迷ってしまった。

 しかし、ここまで来て嘘をついてもどうしようもない。伝えるべき事はちゃんと伝えるのが明日香の為にもなるはずだと自分に言い聞かせ、俺は覚悟を決めてから口を開いた。


「……拓海さんは由梨ちゃんの事を覚えてなかったよ」

「そんな!? それじゃあ由梨ちゃんが可哀相だよ……学校のみんなにも忘れられて、琴美お姉ちゃんにも忘れられて、写真にも写ってない。なのに拓海お兄ちゃんにまで忘れられたら、由梨ちゃんがこの世界に居た意味って何だったの? 沢山の思い出があったのに、それが全部無かった事になるなんて酷すぎるよっ!」


 悲壮感漂う言葉は徐々に大きさを増し、最後には悲痛な叫びの様になっていた。

 でも、その気持ちは分かる。居なくなってしまった人が住める場所は、その人を知っている人の思い出の中だけ。なのにそれすらも許さない力が働いて、みんなの中から由梨ちゃんという存在を消し去ってしまっている。こんな無情な話があるだろうか。

 そんな明日香の悲しみの言葉を聞いたあと、俺は泣きじゃくる明日香の頭に手を乗せて優しく撫でた。


「なあ、明日香。確かに拓海さんは由梨ちゃんの事を覚えていなかったけど、それでも完全に忘れてはいなかったんだよ」

「……ホントに?」


 明日香はその言葉に顔を上げ、涙に濡れた瞳で俺を見た。


「ホントさ。拓海さんな、俺と会話してた時に由梨ちゃんの名前を出したら、必死に何かを思い出そうとしてたんだよ。それに拓海さん、昨日由梨ちゃんの夢を見たらしくてさ、俺が帰る時にこう言ったんだ。『僕が将来結婚して、もしも娘が生まれたら、ゆりって名前をつけてあげようと思うんだ』って。これってさ、拓海さんの中に由梨ちゃんが居るって事にならないか?」


 明日香は少し考える様に沈黙したあと、無言で小さくコクリと頷いてくれた。

 都合のいい事を言っていると思う。残された人の勝手な解釈だと言われても仕方がないと思う。でも、そうでも思わないと先に進めなくなるのが人間なんだ。

 人は誰でも自分が前へ進む為に都合のいい解釈をする。それは人類が長い年月をかけて繁栄できた理由でもあり、処世術しょせいじゅつとも言えるだろう。


「……ねえ。お兄ちゃんも私の事を忘れちゃうのかな?」

「えっ?」

「私が由梨ちゃんみたいにお兄ちゃんとお別れする日が来たら、お兄ちゃんも私の事を忘れちゃうのかな……」


 拓海さんと由梨ちゃんがそうだった様に、俺と明日香にも別れの時は必ずやって来る。どんな力が働いてそうなっているのかは分からないけど、今回の件を考えれば俺も明日香の事を忘れてしまう可能性が高いだろう。だったら明日香がこんな事を聞いてくるのは当然かもしれない。

 そして俺は、明日香のこの言葉に対して何と返事をしていいのか迷った。『絶対に忘れたりしない』、そう力強く言えたら良かったんだけど、俺は不確かな事を口にするのがあまり好きじゃない。だから思っている事を正直に話そうと思った。


「それは……正直言って分からない。もしかしたら俺も、拓海さんみたいに明日香が居た事も思い出せなくなるかもしれないから」

「そっか……」

「でもな、拓海さんがそうだったみたいに、例え頭の片隅でも心の片隅でも、俺は明日香の事を本当に忘れない様にしてると思う。ううん、きっとそうする。だから明日香、俺達は先に旅立った由梨ちゃんの分まで、いつもの日常を送ろう。な?」


 そう言って再び頭を優しく撫でると、明日香は瞳からぽろぽろと涙をこぼしながら俺にしがみ付き、頭を何度も何度も頷かせていた。

 明日香の事を覚えていられる保証はない。だけど俺は、こうして一緒に暮らしてきた明日香という妹の事を忘れたくない。だから色々と足掻あがいてみようと思っている。

 例えそれが俺の虚しい抵抗だったとしても、やれるだけの事はやっておこうと思った。愛しい明日香いもうとの事を忘れない為に。

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