第9話 ふたたびヴィシュへ

 麗佳の目の前で、ラヴィッカを含む土地を管理している領主であるゼンゲル伯爵がヴィシュ風の王族に対する礼をとっている。

 これから何度同じような礼を見るのだろうと考え、麗佳はため息をつきたくなった。


 魔王オイヴァに嫁いでから一年以上が経ったが、初対面の人に頭を下げられるのはいまだに慣れない。

 ただ、これでも慣れた方だと思う。魔王と婚約したての頃はいちいち世話を焼いてもらうだけでも恐縮していたし、朝、麗佳付きの女官、侍女がそろって挨拶に来る時は、ついつられて頭を下げ、ヨヴァンカに叱られるという事を繰り返していた。


「ようこそ、お越し下さいました、ヴェーアル王国王妃、レイカ殿下」

「お世話になりますわ、ゼンゲル伯爵」


 対してこちらは頭は下げない。


 麗佳はこの男にとって『隣国の王妃』なのだ。彼は麗佳に対して失礼な態度を取れない。


 ゼンゲル伯爵の後ろでは彼の使用人も頭をさげている。でも、どこか麗佳に対してぴりぴりしている者がいるのが分かる。そしてその者に対してこれまた麗佳に付いて来た側近達がぴりぴりしているのだ。


 ラヴィッカは割と親魔族派の領地だとオイヴァから聞いている。海を挟んだ隣の領地だからある程度の交流はあるのだそうだ。この伯爵とオイヴァもしっかり面識がある。おまけにオイヴァが泊まっていた宿の主人は伯爵の遠縁なのだそうだ。

 そうでなければあんなに堂々と滞在出来ないとオイヴァは笑っていた。それでも危険には変わりないとは思う。


 とにかく、ゼンゲル伯爵は魔族達にそれほど悪い印象は持っていないそうだ。それでも彼が少し緊張しているように見えるのは、この対応によってアーッレ王からの対応が決まるからだろうか。使用人達の緊張もそのためだろうか。


 それにしてもこの空気は気まず過ぎる。


 オイヴァとヴィシュのアーッレ王は書簡を何度か送り合い、結局使者を送る代わりに各領地でその使者をもてなすという話になった。おかげで一日で終わるはずの仕事が三、四日かかる事になってしまった。


 このアーッレ王の送った条件がものすごく分かりやすい。つまり道中で麗佳に嫌がらせをするか、暗殺をするかしたいのだろう。


 だが、麗佳はみすみす殺されてやるつもりはない。そのために表に出している側近以外に隠密も数人連れて来た。麗佳に危害を加える者が動けば彼らが知らせてくれるだろう。


 麗佳達を引き留めている間にマリエッタを移動させられても困るので、そこは別の隠密——もちろんベテランの者を厳選した——に見張るように命じてある。


 ジャンはしっかり目と髪の色を魔術で変えて、側近の中に紛れ込んでいる。とはいえ、ずっと持つわけではないので、道中にこっそりとウティレが重ねがけをする事になっている。


 ウティレを側近として連れて来たのは魔術の使い手のカムフラージュの為だ。

 オイヴァと何度も話し合って、麗佳の魔術の実力はぎりぎりまで隠しておく事に決めた。エミールからアーッレ王に報告がいっているかもしれないが、念のためだ。


 でもそうなると魔術を使う時に困る。

 なので、ウティレを連れて行って、簡単な魔術は任せる事にした。


 それから隠密としての素質もある程度あるので、軽い裏での調査も命じてある。


 最初はウティレも『何で俺が!?』と文句を言っていたが、オイヴァに『こちらには剣があるんだぞ』と脅されてしぶしぶ従う事になった。

 麗佳が心の中で『そうね。もう魔術を解かれてしまった剣がね』とつぶやいたのは無理もないだろう。


 こんな脅し方をして、もし本当の事が知れたらウティレはどうするのだろうかと心配になってしまう。道中で裏切られたら麗佳も困ってしまうので、この旅の間は必死に隠しておく事に決めている。


 それでもウティレを連れて行く理由はある。ウティレにとっても、この旅は大きいものになるだろう。それだけの者をアーッレは嫌がらせのために用意している。麗佳達はそれを隠密を通して知った。


 本人にはまだ何も言っていない。だまし討ちみたいだが、いまだに完全に魔族側ではないウティレにはさっさと自分の身の振り方を決めてもらわなければならない。


「もう部屋は整えてございます。ヴェーアル王宮と比べれば狭いところですが、お許しくださいませ」

「ありがとうございます。伯爵のお心遣いに感謝いたしますわ」


 領主との面会はあっさりと終わった。麗佳は内心でほっとした。

 それでも王妃の威厳は保たなければならないので用意された部屋に戻るまで澄まし顔は直さなかった。



***


 女官のイリーネに髪をとかしてもらう。


 普通はこういう身の回りの世話は侍女がするのだが、今回の旅は表向きには最低限の人数——女官が一人、侍女が二人、変装したジャンを含む侍僕が二人、宮廷魔法使いが一人、魔術師が一人、護衛の騎士が三人——しか連れて来れなかったので、女官である彼女も侍女と交代でこうやって麗佳の就寝の支度を手伝ってくれる事になっている。


 ただ、バックにはたくさんいる。麗佳が連れて来た者の同僚や上司が通信魔法や魔道具を使ってサポートをしているのだ。イリーネや侍女達は女官長のパウリナと繋がっているし、魔術師として来たウティレはラヒカイネン男爵家の親子三人がサポートをする事になっている。


 そしてもちろん麗佳の後ろにはオイヴァがいる。何か困った事があったらすぐに伝えろと携帯テレビ電話風魔道具まで渡されたのだ。それを見てヨヴァンカとウティレが目を見開いていたので、かなり珍しい物なのだ。


 こんな大事な物を持っていっていいのだろうかと心配になるが、自分はヴェーアル王国の女性の中で一番身分が高いんだし、と考え納得する事にした。


「妃殿下、お食事にはくれぐれもお気をつけ下さい」


 そんな事を回想していると後ろから小言が飛んできた。麗佳はそっと肩をすくめる。


「分かっているわ」

「分かっておりませんよ。先ほどの晩餐会のメインディッシュを見て目を輝かせていたではないですか!」


 厳しく言われるが納得はいかない。麗佳はきちんと全ての料理に毒解析の魔術をかけて安全を確認してから食べた。別にメインとして出された蟹グラタンに喜ぶくらいいいだろう。

 そう言ったが、イリーネは厳しい顔を戻さない。


「相手に妃殿下の好物が魚介だと知れたのが問題なんですよ」


 その相手は親魔族のゼンゲル伯爵だ、と言い返そうと思ったがやめておいた。イリーネが心配しているのは、むしろ麗佳の滞在中に、ここに入り込んでいるであろうアーッレの手の者だろう。だったら麗佳が先ほど言おうとしていた事はかなり的外れになる。

 海辺でない領地で毒入りの蟹料理を出されたらたまったものではない。


「そうね。これから気をつけるわ」


 それにしてもこんな事まで気をつけなければいけないのだ。つくづく王族というのは大変だと思う。


 親魔族のゼンゲル伯爵領でもそうなのだ。これから泊まる予定の領地では何があるか分からない。


「これから泊まる場所の料理人や給仕あたりを探ってもらうべきね。アーッレ陛下から何が指示が来ているかもしれないから」

「かしこまりました、妃殿下」


 どこからか馴染みの隠密の声が聞こえる。長とまではいかないが、かなりベテランの域にいる者だ。


 味方だけは声が聞こえるように防音魔術をかけているので当然隠密達にも麗佳の言葉は届いている。そうでなければ連携がとれない。


 それにしても軽い調子で言っただけですぐに『命令』すると分かったのはベテランゆえだろう。ありがたい。


「罠の魔術対策にウティレも使って頂戴」

「はっ!」


 それだけの会話をして声がとぎれる。それと同時に麗佳の支度も整った。あとはテレビ電話の魔道具でオイヴァに定例報告をしてから眠るだけだ。


「城に帰ったら厨房の者に言って魚介料理を増やしていただきましょうね」


 イリーネが先ほどの事を蒸し返して来る。麗佳はもう一度肩をすくめた。


 麗佳が喜んだのは蟹というよりは、むしろグラタンの方だったというのを指摘した方がいいのだろうかと考えながら。

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