32 音楽発表会・裏
あの日、談話室のテラス席から半ば強引に連れ出されたロザリンドだったが、演者変更の手続きはごくスムーズに済んだ。
むしろ、器楽の教授からは「よくやった」とこっそり感謝されたくらいだ。なんでも、アレクサンダーの演奏は華やかで固定ファンがおり、サロンの目玉にもなる腕前だという。本人はあまり乗り気でないので滅多に表で弾かないし、まだ社交デビューを迎えていないロザリンドは知る由もなかったが。
早速合わせてみよう、と言われて学園の自習室に行くのかと思いきや、馬車に乗せられ向かった先は公爵家。
目を白黒させているうちに、まずは弾けと言われ、何が何だか分からないままロザリンドは予定の曲を披露した。
「んー……全体的には問題ない。あの会堂では、もっと強弱を派手目につけたほうがいいな。あと、やっぱりそれ」
「? 私のバイオリンがなにか」
「俺と同じ舞台に立つには、貧相」
こともなげに言われ、ロザリンドは内心でむっとした。ノールズ家は楽器に財をつぎ込めるほど裕福でもないし、音楽に対して当主の興味もそうない。
バイオリンは母の叔母からのお下がりで、確かに安物だ。とはいえ、そういう言い方はないと思う。
「腕は悪くないのだから、これくらいの音は欲しい。ほら」
「え、あ、」
持っていたバイオリンをひょい、と取り上げられる。代わりに無造作に取り出して、ぽん、と渡されたものにロザリンドは慄いた。
木目一筋にも何やら迫力のある、どう見ても名器に違いないバイオリン。弓までもやたら持ちやすい。再三促されて戸惑いながら弦に当ててみれば、吸い付くように音が滑り出していく。
「……!」
いつもと同じ曲を同じ自分が弾いているのに、全く別の曲のようだ。
深い響きに酔うように弓を運び始めたロザリンドの演奏に、いつしかアレクサンダーのピアノも重なる。
初めて合わせたと思えない音が広がり、曲調の美しさも相まってロザリンドは我知らず夢中になった。
そっと扉を開け放した執事のおかげで、公爵家の使用人達も足を止めて聴き惚れていたことに気付いたのは、演奏後。大喝采に現実へと戻され、身の置き所なく恐縮するロザリンドだった。
「坊ちゃまがこのように楽し気に演奏を……長生きはするものですな」
「なんだ、爺。俺はいつもこんなだろう」
「いえいえ、本日のは一味違います。お嬢様にも感謝申し上げねば」
「あの、いえ」
「もういいから。向こうで休憩するから用意を」
言われて使用人の皆が去り、残ったのはまた二人と執事だけ。
「……あの、色々とありがとうございます」
「うん、だいたいはいいんじゃないか。後は細かいところの調整だな」
「必要です?」
なんならもう練習もいらないのじゃないかと思っていたロザリンドは、アレクサンダーの言葉を意外に思った。全体的に物事に対して興味が薄く、無駄なことはやらなそうな人なのに、と。
「どうせ出るなら、度肝を抜いてやらないと」
「はあ」
「エイミやエドを驚かせたいじゃないか」
ぱちん、と綺羅きらしいウインク付きのドヤ顔で言われて……なぜか急に腑に落ちた。
――この人はきっと。
「じゃあ、一休みしたら再開な」
「どうぞこちらに」
促されるまま、執事の後について通されたのは馴染みの猫ルーム。豪奢な応接室などに連れていかれたら緊張して休むどころではないだろうから、この配慮はロザリンドにとって実にありがたかった。
アレクサンダーも慣れた様子で猫たちを適当にあしらいながら、湯気の立つカップを傾けている。ただ、公爵夫人と違ってそこまで猫好きというわけではなさそうだ。
集まってくる猫達を目を糸のように細くして構うロザリンドに、アレクサンダーが話しかける。
「やっぱり好きなんだな、猫」
「そうですね。可愛いですし……あ、それは駄目よ。返してちょうだい」
うっかり開いていた鞄から猫達が引っ張り出した手紙を取り上げる。開封済みのそれは多少シワになっていたが、気にする様子もなくロザリンドはぎゅっと鞄の奥に押し込んだ。
「家からの手紙か?」
「ええ、婚約のお話とか、最近は多くて」
「したくないんだ」
「正直なところ、面倒です」
ロザリンドのため息混じりの返事に、ぷはっとアレクサンダーは吹き出した。
「ははっ、正直すぎる……ちなみに、相手を訊いても?」
「構いません。今のところ候補に上がっているのはビートン男爵、チャールトン子爵、カールトン準男爵、」
「え? ちょ、ちょっと待った」
「あら、似たような綴りばかりですわね」
「末尾はどうでもいい。あのさ、確認だけど彼らって、息子やせめて末弟のほうだよな?」
やや焦ったようなアレクサンダーの問いに、ロザリンドはしらっと答える。
「いえ、ご当主ですが」
「はぁ!? 歳上もいいとこじゃないか! カールトン準男爵なんて父親通り越して爺さんだろっ、ウチの爺といい勝負だ」
引き合いに出されて、すっと一歩前に進んだ公爵家執事が慇懃に礼をした。
「失礼ながら。彼のほうが私より二歳ほど年長でございます」
「本当かよ……」
アレクサンダーが行儀作法も忘れて驚くのも無理はない。いわゆる政略結婚に年齢差は多いが、それにしたって成人前の女の子相手にこれはない。
「そうですか? よくある話じゃないですか」
「王族でもないんだ。そこまでよくある話じゃないと思うぞ。いいのか、それで」
「そう言われましても……ノールズの後継者は私の弟です。まだ小さいあの子が継ぐ時に支障をきたさず、なおかつ我が領地の益になる相手となると限られまして」
将来、父から弟へと代替わりをする際に、長女の嫁ぎ先から横やりが入るような事態は避けたい。爵位や領地に貪欲な相手では困るのだ。それならば隠居の老人のほうが面倒がない。
さらに、どうせ縁を結ぶなら領地が少しでも栄えるほうがいい。ノールズの牛や乳製品は質がいいとロザリンドは自負していて、それが少しでも広まれば、と願っている。運輸や販路に伝手があるといいだろう。
「その上で、私個人にもデメリットが少ない方を、と考えましたらこのような人選に」
「というと?」
「私、本当は結婚などせずに司書になりたいのです。本が好きですから。でも、嫁ぎ遅れの長女がいては弟妹達の結婚にも不都合がでます」
「……なるほど。もともと結婚に興味も期待もないと」
「はい。ただ、派閥や持論によっては、奥方の読み物に制限を掛けるご主人も少なくないでしょう? それにやっぱり、お友達とも会いたいです」
夫同士の派閥が違うというだけの理由で、ロザリンドの従姉は長年の友人と話もできなくなった。新聞くらい好きに読みたいし、自家と相入れない主張が載っている雑誌だって面白い。他国の文献もそうだ。
司書になれないなら、どうせ誰かと結婚する必要があるのなら。年齢や容姿や財力、そして得られるかもしれない愛情より、ロザリンドが優先したのは行動の自由だった。
「むしろ、若さと健康だけが取り柄の可愛げのない私を貰う羽目になる先方が気の毒でしょうね」
「いや……なかなか斬新だな。それ、外では言わないほうがいいぞ」
「私も、さすがにここまでは打ち明けません。今までに話したのはエイミだけです」
もともと、自家に有利な相手との婚姻が貴族令嬢の至上命題である。とはいえ、ここまでの割り切った考えは一般的でなく、当然、同年代の令嬢達からも理解が得られるとは思っていない。家族以外の誰にも話したことはなかったけれど、エイミなら分かってくれそうな気がしたのだ。
やはり人選については困った顔を見せられたが、ロザリンドの話を否定することはせず、誰かいい人が現れるといいね、と言うにとどめたエイミに深く安堵したのだった。
膝に上がってきた猫を撫でながらのロザリンドの返事に、アレクサンダーはおや、という顔をする。
「俺には話していいのか?」
「ええ。アレク様とは仲良くならなくても構いませんので」
「なんだそれ、どういう意味」
「だって、同じ人を好いていますでしょう」
甘えてくる猫を顔の高さまで持ち上げて、どうだとばかりにロザリンドは言い切った。目を見張ったアレクサンダーにそのまま、猫を渡す。
――アレクサンダーが自分にも親し気に振る舞ってくれるのは、自分がエイミやレティシアの友人だからだ。学生同士とはいえ、一介の伯爵家令嬢に過ぎないロザリンドが、はるか格上の公爵家令息相手にとっていい言葉遣いでも態度でもないと分かっている。
でも、これだけは言っておかねばならない。
「私、エイミの『一番の友達』の地位は譲りませんから」
空いた両手を腰に当てて、そう宣言する。返事の代わりに猫がアレクサンダーの腕の中でにゃあ、と鳴いた。
「変な奴認定、大いに結構。こんな私でも、エイミは大好きだと言ってくれますの。アレク様とはライバルです」
ダメ押しのように言われて、首元に這い上がってきた猫にアレクサンダーは顔を埋める。何とも言えない沈黙が落ちる中、言うだけ言って満足したロザリンドはそ知らぬふりでお茶のカップを口元に運んだ。
「……面白い。実に面白いよ、レディ・ロザリンド」
肩を震わせて笑いだしたアレクサンダーは、何か吹っ切れたような顔をして、そっと猫を下ろし立ち上がる。
「よし、練習再開だ」
すっとロザリンドの手を引いて立たせ、ついでに鞄から件の手紙を取り出し、ぽいと投げるように執事に渡した。
「爺、これ捨てておけ」
「え? 困ります勝手にっ」
「なんだ、爺さんと結婚したいのか?」
「したくないですけど!」
「なら問題ないだろ」
手紙へと伸ばしたロザリンドの手を絡め取り、アレクサンダーはにやりとした。至近距離で微笑まれて、ロザリンドは細い目を最大限まで開いてぱちくりとする――と、遅れて顔を赤くした。
そういう気持ちはなくても、さすがにこの美形っぷりは心臓に悪い。アレクサンダーが自分でも分かってやっているのが、また癪にも触る。
「ほら」
「っ、も、もう、分かりました!」
何匹かの猫が後を付いていくのにも気付かずに、騒がしく音楽室へと戻っていく二人の後を、執事の爺はにこやかについていくのだった。
* * *
歌声の余韻が空に消え、観客席からは大きな拍手が響く。いよいよ出番だ。
ふう、と最後にもう一度大きく息を吐く――大丈夫、ものすごく練習したのだ。
授業の合間のちょっとした休みも放課後も、突然現れるアレクサンダーに強引に付き合わされて練習漬けの毎日だった。
エイミやレティシアとも落ち着いて話す時間も取れぬほどに練習し、疲れ切って帰宅する毎日。エイミから届く甘い差し入れと、ポーシャという癒しがなければ早々にリタイヤしていたに違いない。綺麗な顔をして、結構な鬼教師だアレクサンダーは。サー・ディオンのことを言えない。
どうぞ、と係員に促されて進もうとしたロザリンドの背中に温かい手が置かれる。見上げると、隣でアレクサンダーが口の端を上げた。
「大丈夫。大好きなポーシャと同じ色のドレスだろ?」
選んだのはそう言う本人だ。突然届いたドレスに下宿先の奥様がどれだけ驚いたか、今度じっくりと教える必要があるとロザリンドはつくづく思う。
「ほら、ローザ」
「その呼び方はどうかと思います」
「じゃあロス、それともロザリー?」
「……仕方ないですね」
この点も要相談なわけだが、まあ、それもすべては演奏が終わってから。
ようやく肩の力が抜けたロザリンドに、満足そうに微笑むアレクサンダー。触れられた手の温度に安心を感じながら、オレンジ色のドレスに身を包んだロザリンドは魔法灯に照らされたステージへと進んだのだった。
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