21 課外授業は魔術の時間

 ウォーラム領主の館の庭からは海が見える。

 海岸側は切り立った崖であるため灯台のあるあたりは高い塀もなく、転落防止の低い柵越しに沖までずっと見渡せる景色の良い場所。そこにある一本の樹は、ティガーのお気に入りの場所にもなっていた。

 せっかくの美しい海に背を向けて並ぶのは昨日の討伐船に乗船した学生三人と、彼らの胸に届くかどうか、というほどの背丈の少女。明らかに緊張の面持ちの学生らに比べて、このぽっちゃりした少女一人の表情だけが明るい。

 そんな彼らの前には、抜けるような青空に不似合いな漆黒のローブを纏い、何一つ見過ごさないだろう怜悧な眼差しの偉大なる元筆頭魔術師のディオン卿。柔らかい芝の上なのにカツカツという講堂での靴音が聞こえる気がして、学生三人は反射的に背筋を正す。

「今日はこれを使う」

 授業中だとてエイミの傍にいたいティガーの尻尾が揺れる樹の枝から摘み取った葉を、ディオン卿は生徒の手に一枚ずつ乗せる。形の良い緑色の葉は、それ自体の重さなどほとんど感じない。

「手を触れずに、視線の高さで維持」

 始め、という号令で四人の前にふわりと葉が浮かぶ。魔術が得意なニコラスの表情には余裕があるが、もともと苦手なギルバートは眉間にシワを寄せながら、あっちこっち行きそうになる葉をどうにか保っている。普段は同じような反応をする双子の兄弟の表情が違っているのを、エイミは珍しく思った。

 双剣での空中戦が好みのエイミの兄、ハロルドは魔力を大きく出すのは得意だが、細かい制御はそうでもない。頭上高く上げ過ぎたり下すぎたりと、忙しく調節をしている。

 止むことのない海風に吹かれながら軽い木の葉を浮かせ続けるのは正確な魔力のコントロールが必要で、見かけの地味さによらず難易度が高い。しかも時折、別の方角からの突風も加わり、その度にギルバードとハロルドはどこかに飛んでいきそうになる葉を慌てて引き留めている。

 そんな状態で十分経ち、十五分経ち……しかしディオン卿から「そこまで」の声は一向にかかる気配がない。

 繊細なコントロールを必要とする状態で魔力を長く出し続けることは体力的にもきつい。とっくに額には汗が浮き次第に顔色も悪くなってくるが、誰もリタイアはしない。

 魔術で出した煙色の空気椅子に優雅に片脚を組んで腰掛けるディオン卿のアイスブルーの瞳がそれを許さないのは当然として、何と言っても自分達より六歳も年下の女の子が平気な顔で同じことを隣でこなしているのだ。

 両手を軽く前に出した状態でピタリと葉を浮かせているエイミは上機嫌で、今にも軽く鼻歌を口ずさみそうなほど。そんな妹にハロルドがひそひそと話しかける。

「エイミ、お前余裕だな」

「え? えーと、ね。いつも一人で教わっているから。お兄ちゃん達と一緒に練習できるの、すごく楽しい」

 まだ社交にも出る前の年齢で友人も多くない。父は仕事で不在がち、兄は学園の寮住まい、また母も人見知りの娘を無理に連れ歩くことをしないため、普段は屋敷で一人で過ごすことの多いエイミ。

 緊張すると表情が固まることもあって、以前はその整った容姿のせいで余計に愛想もなく見えていたが、顔周りがふっくらとしだしてからは雰囲気が和らいだ。

 さらにティガーが来てからは、格段に笑顔も増えた。

 年齢相応の、そして作り物でない笑顔はややもすれば幼く見え、保護欲を掻き立てる。そんな表情で少しはにかみながら言われたら、兄も双子も先に弱音など吐けるわけがない。

 そもそも、この手の魔力鍛錬は学園でも基礎訓練としてよく行われている。普段は準備体操の扱いで数分程度しかやらないのだが、多少長くなったところで問題はない……はずだ。

 じわじわと効くボディブローのように魔力が削り取られていくのはあまりいい気分ではないが、やはり年長者としていいところを見せたくなるというもの。

「よっし、ギルお兄ちゃんも頑張っちゃおうかな」

「それにしてもエイミちゃん上手だね。これ、いつもやっているの?」

 浮かせている葉からちょっとだけ視線を移して、エイミはにこりと双子に答える。

「ええと、普段の練習では三十分くらいかな」

「うん?」

「高さを変えて三枚くらい浮かせるときもあるんだけど、先生が別方向に風を吹かせるから、それはちょっと難しくって」

 どうしても動いちゃうんだ、と困ったように眉を寄せるエイミだが、学園の魔術特化クラスの学生でも実際にできる者はなかなかいないだろう。

「高度変えて複数って、どんだけ高レベル……」

 昨日のディオン卿の様子からしてエイミのことは気に入っているようだったが、教授している内容は自分達よりハードで容赦ないと知って思わず笑顔も引きつる三人だった。

「余裕があるようだな」

 いつの間にか至近距離に来ていたディオン卿は無表情のまま、四人の頭の上にそれぞれ一抱えもある大きさの水球を浮かべる。

「誰か一人でも葉を落としたら、その頭の上のは全員割れる」

「うおっ、ギル、下がってる!」

「え、わっ」

「ああ、これも加えておこう」

 す、と向けられた杖先から出たのは、くるくると回る竜巻のような風。新たな試練の追加に、さすがのニコラスも旗色が悪い。

「わあ、きれい……」

 魔力で出したその風は雲母のような輝きを含んでいた。同じようにきらめくエイミの金色の瞳を視界に入れて、ディオン卿の氷青の目元が細くなる。

 無慈悲に離れる後姿に、学生三人の悲鳴のような声と少女の高いはしゃぐ声が重なった。

「っと、マジかよ、なにこれ難しっ」

「だからギル、もっと上げてって!」

「だってニック、なんか僕の上の水だけ湯気立ってるんだよおおぉ!?」

「やだ、楽しい! ゲームみたい!」

 海を見下ろせるその庭に、風船が割れるような破裂音と滝のような水音が響いたのはそれから間もなくだった。




「楽しそうねえ、向こうにお茶を用意したから休憩をいかが?」

 魔術で起こした風で濡れた体を乾かしていると、庭の一角にある東屋に軽食の準備をさせた、とイサベルが皆を呼びに来た。

「サー・ディオン、ウォーラムまでお越しいただきありがとうございます。コットの実のケーキもありますのよ」

 クルミに似たコットの実は、魔力を含む木の実のひとつ。それを食べることで自分の持つ魔力量の総値が上がるということはないが、体内から減った分を補充する役には立つ。他の似たような効果のある木の実と一緒に日持ちがするように焼きしめた菓子は、魔術師の携行食としても一般的だ。

 魔力を使った分、確実に空腹を感じているエイミはそれを聞くと、パァッと明るい顔でディオン卿を見上げる。

「先生、お腹すきました……」

「魔力を無駄に使うからだ」

 兄達と一緒の魔術訓練にテンションが上がり、普段よりも制御が甘かった自覚はある。はい、と素直に師の忠告に頷くエイミの髪の上に満足そうにディオン卿の手が乗った。

 授業が中断されたことを察したティガーは樹から降りると、尻尾をぴんと立ててエイミのそばに近寄ってくる。体の側面をこすり付けて、ミア、と高い声で甘えられれば、自然と頬を緩ませて撫でるしかない。

 そんなわけで場所を移してのお茶タイムとなった次第だが、自然とテーブルは大人と子どもに分かれてやや離れた着座になった。話題は、たった今の授業内容のことから昨日のことへ。

 そういえば、とハロルドがエイミに向かって話を切り出した。

「ここの屋敷のさ、表通り沿いの塀の内側に水路が通っているだろ。あそこ、ティガーが落ちないように気を付けろよ」

 防犯と火災時の緊急用を兼ねて、この領主の館はところどころに海水を引き込んだ堀が造られていた。細いわりに深さがあり、小さな頃から近づいてはいけないと言い聞かされている場所だ。今更な忠告にエイミは首を傾げる。

「うん。分かったけど、どうして?」

「漁船に絡まってた深海クラゲな、あれを放したんだって」

「えっ」

 毒針を持ち、水中では色を無くす深海クラゲ。その名の通り深海が生息域だが、強い生命力で浅瀬でも生き続けることは知られている。

 海に戻すより、せっかくだから防犯の役に立ってもらおうという祖父の大胆な思いつきだった。

「そ、そう。分かった、気を付ける」

「深海クラゲといえば、あれが絡まってた漁船のあの子さあ、ハロルド?」

「ああ、そうそう。祝勝会でお前だけ随分長く話しかけられてただろ」

 昨夕、隣の軍宿舎で行われたクラーケン討伐の祝勝会には、十歳のエイミはさすがに参加しなかった。助けられた漁船の祖父と孫娘は、討伐メンバーに直接お礼を言いたいと、少しだけ顔を出したらしい。

 どうやらそこで兄はあの可愛らしい娘さんから何か言われたようで、ギルバードとニコラスからニヤニヤとからかわれている。

「ああ、双剣が得意なんですね、ってさ。あの状態でよくこっち見ていたとは思うけど、俺の剣は目立つからな」

 確かに兄の双剣は目を引くが、ドヤ顔で言われると肯定したくないのは妹ゆえか。膝の上で満足そうに喉を鳴らすティガーを撫でながら額をこつんとして、聞こえないふりをした――あの、ヒロイン(仮)の子が、兄に話しかけていたということもエイミには少し引っかかる。

「でも、昨日は水中だったし。それにコイツ、活躍……してたか?」

「さあ? 僕は見張りで忙しかったからハルのことは特に見ていないし」

「何気に酷いな!? せっかくマリアちゃんに褒められたんだから、少しはいい気分でいさせてくれよっ」

 初めて聞く名前に顔を上げると、おでこが離れて不満そうなティガーが前足で下腹部をフミフミしてくる。その絶妙な体重の掛け具合が愛おしくて、思わずまた抱きしめてしまった。

 それにしても――マリアですか。聖女ですか、やっぱりヒロインですかっ?

 思わず、口に入れたケーキのコットの実を大きな音を立てて噛み砕いてしまった。

「あの可愛い子、マリアちゃんっていうんだ。で、幾つ?」

「あー、もう少し上かと思ったけれど、聞いたらエイミと同じ歳だってさ」

「おまっ、それ手ぇ出したらヤバいぞー」

「するか。あれだよ、なんつーか、俺のファン? みたいな? いやあ、人気者は参るね」

 きゃいきゃいと男子高校生のノリで騒ぐ三人に気を取り直して、ケーキに入ったコットの実を取り出してティガーのおやつにする。カリンコリンと歯応えのいい木の実は猫の好物でもあった。

 おいしそうにエイミの手からコットの実を食べるティガーにくふふ、と微笑んでいると、す、と兄達の背後に黒い影が立つ。

「……休憩は十分そうだな。では戻るぞ」

「サー・ディオン! も、もうですかっ?」

「再開が遅くなると、授業の密度が濃くなるだけだが」

「「行きますっ」」

 膝の上のティガーと、その後のたっぷりと行われた魔術訓練のおかげで、ヒロイン(仮)に感じた困惑も部屋に戻る頃には少しも思い出さないエイミだった。






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