5 大切なもの

 俺はすべてをリサさんに話した。


 母さんの身体が元々弱かったこと。

 その母さんが、小学生の頃に一度倒れたこと。

 その時、俺が持っているものと引き換えに母さんを助けて欲しいと願ったこと。

 なんとか助かったものの、それ以来ずっと入院をしていること。

 最近また母さんが倒れたこと。

 そして、その容態があまり良くないこと。

 治療のためには外国へ行く必要があること。

 その費用が高額であるらしいこと。


 思いつく限りのすべてをリサさんにぶつけた。まとまらない話にもかかわらず、リサさんは時々相槌を打ちながら黙って聞いてくれた。


 一通り話し終えたところで、俺は自分が涙を流していることに気がついた。

 最高にカッコ悪い。それでも今まで誰にも言えなかった胸の内を洗いざらいぶちまけることができて、気分はすっきりしていた。リサさんにとってはいい迷惑だっただろう。


 恐る恐る顔を上げる。目の前のリサさんの瞳は涙で潤んでいた。必死に泣くのを我慢しているように見えた。


「ごめん。想像以上だった……」


 リサさんは振り絞るようにそう言った。その手は体の横できつく握られている。


「ごめん、アタシのほうから訊いておいて……。でも、思ってたよりもキミが抱えていたものが大きくて驚いたよ。キミは隠すのが上手だなぁ。今日、逢うまで半信半疑だったんだよ」


 リサさんの言いたいことが分からない。


「弟からね、だいぶ前からサユリさんのこと聞いてたんだ。聞いてたと言っても、弟と仲良くしてくれてるってことと名前。それに不動院に通ってる息子さんがいるってことくらいなんだけどね。名字がキミと同じ植村だったから、もしかしたらとは思ってたんだけどさ」


 俺は頷くことしかできなかった。

 リサさんに全部知ってもらえたと言う安心感と重荷を下ろしたような開放感から半分放心状態だった。だから、リサさんの弟さんが入院している事情にまで頭が回らない。


「アタシの弟もね、あんまり体の具合が良くないの。だから昔は暗くて殻に閉じこもっててさ。精神的なものも体調に影響するんじゃないかって心配してたんだよ。でも、あるときから少し明るくなったんだ。詳しく聞くと、病院で年上の友達ができたって。それがサユリさんだった。サユリさんは弟をいつも元気付けてくれてたの。アタシも何度か会ったことがあるんだけど、本当にいつも明るくて前向きな人だよね」


 そう言われて、俺はそれまでよりも大きく頷いた。

 リサさんが母さんに会ったことがある。信じられないが、リサさんがこんな嘘をつくとは思えない。嘘だとしたらかなりタチが悪い。


「それでキミがこの前ライブに来てくれた日のあとで、サユリさんに聞いたの。キミがサユリさんの息子さんなんじゃないかって。サユリさん驚いてたよ。すごい偶然ねって。もう大笑いしてた。そんなサユリさんがさ、ついこの間かな。泣いてるのを偶然見ちゃったんだ。キミのお父さんらしき人もいて、その人もやっぱり泣いてた。詳しい事情はもちろん分からなかったけど、そのときサユリさんも病人なんだって思い知らされたよ。普段話したりしてると忘れちゃうくらい明るいけど、病気なんだって」


 俺は父さんと母さんが、病院でどのような話をしているのか知らなかった。当然、二人で泣いていたことがあるなんて知らない。


「その様子から、きっとただ事じゃないっていうのだけは分かった。サユリさんのことも心配だったけど、キミのことも気になった。それでサユリさんから聞いてた、キミのお父さんが始めたっていう喫茶店にキミに会いに行ってみたの。あの時のキミは全く元気で、ライブに来てくれたときとほとんど変わらないように見えた。でも、今日はやっぱりおかしかったかな。だから、悪いとは思いつつこんな話を……お節介だってのは分かってるんだけどね」


 お節介だなどとは思わなかった。最初は、哀れみの目や過剰に同情されたら嫌だなと思っていた。

 だけど、リサさんの態度を見ていると本気で心配し、本気で母さんや俺のことを思ってくれているのが分かる。だから、少しも嫌な気持ちにならなかった。


「リサさん。俺はどうしたらいいんでしょう」


 すべて話して、すべて聞いた上で、リサさんが本気で俺の力になろうとしてくれているのが分かった。

 その上で俺はもう一度同じことを訊いた。答えなんてないのは分かっている。それでもリサさんなら……という期待があった。


「うん。きっとキミが直接できることなんて、ほとんどないと思う。それでもアタシがキミならどうするか。そんな中途半端で曖昧な答えでよければ答えるよ」


「それでも構いません。リサさんが、俺ならどうしますか?」


「アタシなら……。アタシならサユリさん以外のものすべてを捨てる。前にも言ったかもね。大切なことと引き換えに他の大切なものを捨てるの。アタシはある時からずっとそうしてきた」


 たしかにリサさんは喫茶店でも同じようなことを言っていた。

 片方を神に捧げて、もう片方を叶えてもらう。おまじないのようなもの。


 リサさんの言うとおり俺が直接できることなどない。ならば、そのおまじないや願掛けに俺のすべてをかけることしかできることはないような気がした。


「そうしてきた……ですか。リサさんは実際に何か大切なものと引き換えに、他の大切なものを捨てたことがあるってことですか?」


「あるよ」


 リサさんはあっさりと答えた。その表情からは達観したものを感じる。きっと捨てる時には、かなり苦しんで悩んだはずだ。だけど、今はそれを全く後悔していないということなのかもしれない。


「なんのために何を捨てたのか……。訊いてもいいですか?」


「弟のために。ギターを捨てた」


 リサさんは俺の顔を見ると続けて言った。


「本当は音楽そのものを捨てるつもりだったんだけど、弟に泣きつかれちゃってさ。アタシが音楽やってるのが生き甲斐だって言われちゃったら捨てられなくて……。それで、その時使ってた大事なギターを処分して、それ以降自分のギターを持たないって誓った。今、弟はゆっくりだけど快方に向かってるよ。完全に治ってないのは、アタシが音楽そのものを捨てなかったからかもね」


 リサさんは最後、自嘲気味に笑った。


 たかがおまじないだ。願掛けだ。神頼みだ。多くの人がそう言って笑うだろう。そう言って笑う人は、本当に藁にもすがる思いで、祈る人の気持ちを知らない。自分の力ではどうすることもできない困難に出会った時、その人はどうすればいいというのか。祈るしかない。神に願うしかない。古来から人間はそうしてきたじゃないか。


 リサさんの言っていることは、きっとそんな困難を抱えていない人からしたら馬鹿らしいことに映るのかもしれない。

 だけど、俺には深く強く響いた。一筋の光明のように思えた。それはリサさんが俺と似た境遇にいて、俺と似た成功体験を持っているからかもしれない。


 俺も小学生の時、同じように考えた。母さんのためならすべてを捧げてもいいと。

 当時大事にしていたおもちゃを捨てるつもりでいた。あの時は子供だったからその程度のものだったが、そういう覚悟をした。

 母さんの病気は、誰かが選んだ不幸じゃない。誰かが選んだ困難じゃない。誰もそんなもの選んではいない。

 大切なものを捨てる決断は、俺が選べるものだ。俺が自ら選んだものなら納得ができる。そうすることで心のバランスが保てる。


 俺は母さんにまた元気になってほしい。それはどんなことよりも強く願っていることだ。そのためならなんでもしよう。どんなものでも捨てよう。捨てるとすれば、それに釣り合うものでなければならないだろう。

 母さんに匹敵するくらい俺にとって大切なものを捨てる。神に捧げる。そうすることで母さんを助けてもらう。俺の精神も救われる。

 もうそれしか俺にできることはない。


 俺にとって大切なもの。


 母さんに匹敵するくらい大切なもの。


 それを考えた時、真っ先に浮かんだのが、ロックミュージック研究会だった。

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