5 音楽への情熱
レコーディングの日はあっという間にやってきてしまった。
あたしは月曜日以来、ベースのアレンジをろくにつけることができないでいた。
エリと二人でレイカさんに相談したときには「ドラムもベースもフィーリングでなんとかなる部分もあるけど、ナナカはフィーリングで作るための蓄積がない。だからスケールを覚えるしかないかもね」と言われた。
家に帰ってすぐにネットで『スケール』を検索してみると、どのサイトにも簡単そうに書いてあった。いけるかもしれないと思った。でも、すぐにそれは誤りだったと気が付いた。
ネットで調べてみる限り『スケール』というもの自体は、たしかにそれほど難しくはない。ただ、スケールにはたくさん種類があって、アレンジするためには曲にどのスケールが当てはまるのかを知る必要があった。
さらにスケールを当てはめるためにはトニックというものを知る必要があり、音感のないあたしにそれは至難の業に思えた。
そして仮にその二つをクリアできたとしても、結局は自分の感性でスケールに当てはまる音を並べなければならない。
とてもじゃないが短時間でマスターし、曲に落としこむことなどできそうになかった。
あたしには決定的に音楽の引き出しが少ない。
音楽の引き出しとは、今まで聴いてきた音楽の絶対量やジャンル・種類、音楽への情熱のようなものの集合体だ。
その点、エリは小さいころから色々な音楽を聴いている。それに情熱もなんとなくで始めたあたしよりもずっとあるだろう。だ
からかどうかは分からないが、ドラムのアレンジはなんとか形になってきているようにあたしには思えた。
あたしやケイがいくら褒めてもエリ本人がそのアレンジに納得がいっていないようだったが、その感覚の差が、エリ自身のレベルや意識があたしよりもずっと高いことを証明している。
ただ一つ、あたしを安心させたのは、ケイの作詞が思うようにいっていないことだった。
本当は作詞が遅れていることとあたしのアレンジがうまくいかないことは無関係だ。それでもあたし一人でオリジナル曲の完成を遅らせているわけではない、という事実に少し安心する。
自宅にいるときはスマホに録音したみんなの演奏を聴きながらベースのアレンジを考えていた。けれどいくら聴いても、いくらベースに触れても、一向に進まない。
あたしはベースを弾くようになってから初めて、ベースを弾くことが苦痛になっていた。
「それじゃあ、レコーディング始めようか。アカネ、準備いい?」
レイカさんの声で我に返る。
オリジナル曲が未完のままレコーディングに臨まなければならず、あたしたちの間には険悪な雰囲気が流れていた。
レイカさんはその空気をきっと察しているだろう。それでもいつもどおりの態度を変えずにあたしたちに接してくれていた。
「うん……。叩く準備はできてるけど、アレンジがあれでいいのかどうか……」
いつも以上に小さな声なのに今日ははっきりと聞きとれた。スタジオが静かだからだ。
「何言ってるの。もう今日レコーディングしないと間に合わないんでしょ? それなら今できる全力を出しなさい。オリジナルはね、まぁオリジナルに限らずカバー曲もだけど、後でいくらアレンジ加えたっていいんだよ。音楽は自由で楽しいものでしょうが。今できるのがあんたたちの今の時点でのオリジナル。それでいいじゃない」
レイカさんはエリに向かって言っている。
でもきっとエリだけじゃなく、あたしたち全員に対して言っているのだ。一番古い付き合いのエリが一番言いやすい相手なのだろう。
「そうだね……。もちろん、やれるだけはやってみるけど……」
言葉とは裏腹にやはり元気がない。
レイカさんはそんなエリを鼓舞するように背中をバシンと一度だけ叩き、一緒にレコーディングスペースへと消えていった。
二人がスタジオからいなくなるとレイカさんという緩衝材を失って、より一層気まずい沈黙が流れる。残された緩衝材はユリハ会長だけだ。
「エリはなんだかんだ言ってちゃんと完成させる。大丈夫。みんなもう少し気楽に考えよう。曲の素材がいいのは私が保証する」
会長という責任感からなのか、ユリハ会長は珍しくあたしたちを元気づけようとしてくれている。
ユリハ会長やレイカさんが言っていることは頭では理解できている。でも、心が追い付かない。
うまくアレンジができないあたしを誰よりもあたしが許せないのだ。
「まぁ、他の楽器のことに俺が口出しできる義理はないし、エリとナナカがいいと思ったものをしっかり録ってくれたらいいと思うぜ。あぁ、歌詞もできてないんだな。ケイ、歌詞はどうするんだ? お前、この後のレコーディングで歌えるのか?」
「う~ん。昨日、寝ないで考えてたんだけど、どうしてもしっくりこなくてさ。ハミングとかスキャットみたいな感じで録るしかないかも……」
この期に及んで歌詞ができていないことに少しだけ安心する自分がいる。そんな自分がたまらなく嫌で腹が立つ。
「おい、マジかよ。歌詞ないって大丈夫か? 適当でもいいからなんかつけたほうがいいだろ」
ケイガの声のトーンに怒りの色が少し混じる。
「適当にはつけたくないんだ。だから今日は歌詞なしでいくよ。タイトルもまだできてないけど、実行委員会に提出するまでには考えておく」
ケイも譲るつもりはないようだ。気まずい空気が一気に険悪になる。
「そんなんで文化祭ライブに出られんのかよ。お前が作った曲を採用してんだから責任持てよな。だったら俺が作った曲やったほうが良かったじゃねぇか」
「
ユリハ会長が仲裁に入る。どちらか一方に肩入れするようなこともなく、中立な意見だと思う。
「そうですね。じゃあ──」
ケイはユリハ会長に向けていた顔をあたしとケイガの方に向ける。
「歌詞ができない理由は、とにかくこの曲の歌詞を適当にはしたくないってこと。俺たちが初めて作る曲だから。楽器のところはレイカさんの言う通り、後で変えてもいいのかもしれない。プロの曲でもライブヴァージョンとか何とかエディションとかあるし。でもさ、歌詞は一回付けたらそれで固定しなきゃいけないだろ? それで定着しちゃう」
なおもケイは続ける。
「後になってこうしておけばよかったって思いたくないんだよね。だから、適当な歌詞でごまかすことはしたくない。それなら未完ってハッキリ分かる形のほうがいい。確かに中途半端なオリジナル曲でエントリーするのはリスクがあるけど、元々は自由曲が急遽オリジナル限定になったのが原因だし。結成間もない俺たちがオリジナル曲を持ってるわけない。そんな中で一か月足らずでここまでできただけでも俺は十分だと思ってるよ。だからみんなには悪いけど、俺のわがままを聞き入れてほしい」
ケイはそう言うと、深々と頭を下げた。
さすがのケイガもこれ以上の追及はできないようだった。
あたしは、急遽自由曲がオリジナル曲に変わったということが今更ながら引っかかっていた。結成間もないあたしたちには大打撃だった。
けれど長くやっているバンドにとってはどうだったのだろう。
もちろん全部のバンドにオリジナル曲があるわけではないだろうし、仮にオリジナル曲を持っていたとしても、カバーやコピーよりも自信のある曲だとは限らない。それでもあたしたちを狙い撃ちにされたような妙な気味の悪さを感じる。
「二人とも植村の話に納得?」
ユリハ会長が黙っているだけのあたしたちに意見を求める。気味の悪さはひとまず忘れて目の前の課題に集中しなければならない。
「とりあえずは。要は曲を大事にしてぇってことだよな? 気持ちは分かる。それでも俺はやっぱりある程度不格好でも完成って形にしねぇと文化祭ライブには出らんねぇんじゃないかって気もする。出らんなかったら意味ねぇって思う。だけど、この曲はケイが作った曲だし、ケイに決定権がある。この曲に関してはケイの意思を尊重するよ。悪かったな」
余計なことを考えている間にケイガに先を越されてしまった。
あたしもケイガの意見に賛成だ。
そもそもあたしは自分のアレンジもろくにできていないので、偉そうに何かを言える立場にない。
「あたしもケイの考えを尊重する。ケイの気持ち、分かるよ。だから無理に今歌詞をつけなくてもいいと思う」
ケイガがケイを責めたとき、同時にあたしも責められているような気がしていた。
あたしの場合はケイみたいに高尚な理由なんかない。単純な力不足だ。
そのことを抜きにしてもケイの言ったことには同意できる。
ケイがあたしたちの最初のオリジナル曲をそれだけ大事に思ってくれていることが嬉しい。その反面自分の不甲斐なさに罪悪感を覚える。
気が付くとエリとレイカさんがレコーディングスペースから出てきていた。
あたしはベースを持って、エリと入れ替わりでレコーディングスペースへと向かう。レイカさんは優しくそっと背中に手を添えてくれた。
後ろではユリハ会長がエリを労い、エリ不在の間に起こったことを説明する声が聞こえていた。
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