5 涙の痕
レイカさんのところでベースをやりたいと宣言してからの一週間は、ベースのことばかり考えて過ごした。
まずはネットでベースについて色々調べた。書いてあることは意味の分からないことだらけだったからすぐに画像検索に切り替えて、自分好みのカッコいい見た目のベースを探すのに夢中になった。
学校で会うエリは、今までと変わりなくすれ違えば挨拶をし、あたしの周りに誰もいないときには少し話す。いつも通りのエリだった。
レイカさんのところで見たエリはなんだったのだろう。夢だったのだろうか。
学校でのエリを見ていると、本当にベースを習いに行くんだったよね?そもそもレイカさんのスタジオって存在するよね?と不安になった。
だけど今朝、下駄箱でたまたま一緒になったエリのカバンにドラムのスティックが突き刺さっているのを見つけてあぁ、ちゃんと教室はあるんだ、今日またベースに触れるんだ、と思って安心した。
その時もエリとは軽く挨拶を交わすだけで、特に会話らしい会話はなかった。ドラムのこともベースのことも話さなかった。
完全に上の空で午前中を過ごしていると、あっという間にお昼になった。
給食を食べてしまうと少し眠くなった。
普段一緒に行動する友達から「音楽室早めに行かない?」と誘われたが「眠いから」とそれを断って、少し昼寝をすることにした。
次が移動教室なら教室はいつもより静かになるはずだ。
教室がほとんど空になって、午後の日差しの中まどろみ始めた頃、ヒソヒソと話す声が聞こえてきた。
「ねぇ~、あんたさ、調子乗って出るからには勝てるんだよねぇ~?」
聞こえたエリカの言葉には棘があった。誰かを責めているような強い口調。
あまり人に聞かれたくはないはずだが、こちらに気づいていないのか、寝ていると思って気にしていないのかは分からなかった。
「マジでそれ。急に立候補なんかしちゃってさ。負けたら絶対許さないよ」
取り巻きもいるようだ。エリカはいつも派手な取り巻きを数人引き連れて行動している。
なんとなく察した。責められているのはエリだろう。きっと、クラスリレーのことだ。
「えっと……その……昨日も言ったけど……頑張るよ」
エリカたちよりもかなり小さな声が答える。予想通りエリの声だった。
「うちら、やるからには絶対勝ちたいんだよね。クラスリレーがどれだけ獲得ポイント高いか知ってるよね?」
続いて聞こえたのは、足の速い陸上部の
対抗リレーの選手決めの時には「速い人が出るという決めつけは不公平だ」とかなんとか言っていたはずだ。それに対してエリカは「だるい。マジになるやつなんかいない」みたいなことを言っていた気がする。
この子たちは、なにかをキッカケにして体育祭に本気になるような連中じゃない。単にエリに因縁を付けているのだ。
「でさぁ、今週いっぱい考えてこいって言ったよねぇ? 考えてきたの?」
エリカがさっきよりも強い口調で言った。
「うん。考えたんだけどさ……。や、やっぱり練習するしかないかなって。いっぱい、いっぱい練習して、頑張るしかないんじゃないかな……」
エリカとは対照的にエリが弱々しく答える。
「月曜から考えて結局それだけかよ。それじゃあ、勝てなかったらどうすんのぉ? 一位以外ありえないよ?」
エリカがさらにエリを追い詰める。
この雰囲気は、昨日今日で始まったことではないなと直感的に思う。
「それは……」
ガタッ———
エリが言いかけたところで、あたしは我慢できずに立ち上がった。
「あれ? エリカ。どうしたの? 次、音楽だよね? ヤバくない? もう始まるじゃん。音楽室、行かないの?」
少しワザとらしかったかもしれない。
「え? ナナカ? あ、うん。だねぇー。じゃあ、行こうか」
そう言ってユキたちを引き連れて教室を出て行った。一瞬、エリを睨んだのをあたしは見逃さなかった。
エリカたちが教室を出て、声と足音が聞こえなくなるのを待ってからエリに話しかけた。
「ねぇ、大丈夫? エリカとなんか揉めてるの?」
「ううん、揉めてなんかないよ。大丈夫。ただ、失敗したなぁ」
エリはさっきまでよりもいくらか明るい声で言った。
「ん? なにが?」
あたしが訊くとエリは力なく言った。
「うん。クラスリレー……。ドラムたくさん叩きたいからって、走るの嫌だけど出ることにしたのに、これじゃあ体育祭が終わるまでドラム叩けないかなぁ……」
あたしは、いまいちエリの言っていることが理解できなかった。
「え? なんで? レイカさんのところでいっぱい叩けるじゃん。今日は練習の日だよね。一緒に行こうって言おうと思ってたんだけど。エリも行くでしょ?」
あたしがそう訊くとエリは少し間を置いて言った。
「……う〜ん、もちろん、ドラム叩きたいし、行きたいよ。行きたいんだけど……走る練習もしなきゃ……。遠山さんたち、体育祭でどうしても負けたくないんだって。中学最後の体育祭だからって。だからさ、練習して少しでも速くならないと。わたしのせいでみんなが負けちゃったら悪いもん。だからごめんね。体育祭が終わるまでレイカさんのところには行けないかな」
エリのドラムへの情熱を思えば冗談で言ってるのかとも思った。けれどエリの顔は真剣だった。
エリカたちが体育祭で負けたくないなんて本気で思ってるわけがないといくら言っても、「でも、本当だったら悪いから」とか「遠山さんがそう思ってなくても他にそう思ってる人がいるかもしれないって気がついたから」と言って聞かなかった。
「ナナカ。音楽室、わたしと一緒に行かない方がいいよ。先行ってて。わたしは、少し遅れて行くから」
エリは寂しそうに言った。そんなに寂しそうに言われて「あ、そうですか」なんて言えるわけがない。寂しそうに言われなくたってエリと一緒にいない方がいいなんて思うわけがなかった。
「何言ってるの? 変なこと気にしなくていいよ。ほら、一緒に行こ」
あたしはなるべく普段通りの口調でエリの背中をポンッと押した。触れた背中は強張っていた。
音楽室に着くと、もうすでに音楽の先生が来ていて、クラス全員自分の席に着いていた。始業のチャイムはまだ鳴っていないから、セーフだと思ったけど、先生は少し不機嫌そうだった。
さっきのエリとのやり取りを思い返してみる。やっぱり走る練習なんかでレイカさんのところに行けないのは納得がいかなかった。
この授業が終われば、あとはホームルームで終わりだ。放課後、もう一度エリを説得してみよう。そんなことを考えながら、規則的な音階で鳴る始業のチャイムを聞いていた。
音楽の授業が終わった後のホームルームは先生からの簡単な連絡事項のみで終わった。
「じゃあ帰るやつは気を付けて帰れな。部活のやつはほどほどに頑張れよ」
先生の声を合図に教室が一気に騒がしくなる。
あたしは、エリの席まで早足で向かった。エリはカバンから運動着を取り出して、着替えようとしていた。
もしかしたらエリは月曜日から毎日こうやって放課後になると運動着に着替えて、走る練習をしていたのかもしれない。あたしは最後の授業が終わると、一、二を争う勢いで教室を後にしていたから気が付かなかった。
あたしは、「わっっ!!!」と先週の金曜日と同じように大きな声で脅かそうと思って声をかけた。しかし、エリはビクッとはなったものの、先週のように悲鳴をあげることはなかった。
「あ、ナナカ。どうしたの?」
エリはいつものように遠慮がちに上目遣いで言った。
「どうしたの? じゃないよ。エリ。やっぱりレイカさんのところ一緒に行こうよ。走る練習も大事かもしれないけど、エリにとってドラムはもっと大事でしょ? レイカさんに教えてもらえるのは一週間に一度っきりなんだから」
あたしが強い口調でそう言うとエリは無言のまま俯いてしまった。
「大丈夫だよ。走るの毎日練習してるんでしょ? 一日くらい身体休めないと本番で走れなくなっちゃうかもしれないじゃん」
エリは黙ったままだった。
「それに、これ!!」
エリのカバンからスティックを抜き取る。
「これ、持ってきてるってことは本当はレイカさんのところに行くつもりだったんじゃないの?」
エリは、ハッとしたように顔を上げた。その目は、もうやめてと訴えていた。
ドキリと心臓が一度大きく脈を打つ。あたしは自分が失敗したことに気がついた。
エリの大きな目はみるみる内に涙でいっぱいになり、しまいには大粒の涙をこぼして泣き出してしまった。大声を上げるわけではないけど、唸るような声が漏れていた。
教室にいた何人かがこちらを見る気配があった。
「ごめんね……。やっぱりわたし、今日は行けない。本当は行きたいよ。せっかくナナカと、もっともっと仲良くなれそうで……すごく楽しみだったけど。それはわたしの勝手だから。それで……みんなに迷惑はかけられない。ごめんね。ナナカ……一人で行ける? 道、ちゃんと覚えてる? 分からなそうだったらレイカさんに連絡して……駅で待ち合わせにしてもらうように頼むからね」
ところどころ詰まりながらしゃくり上げるようにしてエリはそう言った。あたしが一人でレイカさんのところに行けるように手配もしてくれると言う。
あたしは一気に申し訳なく、そして恥ずかしくなった。
あたしはどこかでエリのことを舐めていた。甘くみていた。内気でオドオドして人見知りなエリ。あたしが強く押したら折れるんじゃないか、エリだってドラムを叩きたいはずなんだから、しつこく誘い続ければ「そうだよね」って言うんじゃないかと思っていた。
実際のエリはあたしが思うよりもずっと意志が強くて、責任感があって、頑固で、そして凛としていた。
何がみんなはエリのことを知らないだ。あたしだって、みんなと何も変わらないじゃないか。自分の思い上がりに腹が立つ。そして悲しくなった。
「ごめん……」
今度は、あたしが俯いてしまう番だった。俯いていても背の小さなエリの顔は、視界の端に見えている。エリはあたしの顔を覗き込むようにして言った。
「なんでナナカが謝るの? ……顔、上げて」
あたしは何も応えることができなかった。顔を上げることもできなかった。
エリの意志と思いを汲み取って、その上で尊重できなかった自分がどうしようもなく恥ずかしかった。まだ、挽回はできるだろうか。エリのためにできることはないだろうか。そう思った時、自然と口をついて出ていた。
「エリ……走る練習、あたしも一緒にやるよ」
エリは「えっ!?」と驚いてから壊れたおもちゃみたいに首をブンブンと振った。
「いいよ。悪いよ。ナナカ、ベース弾きたいでしょ? レイカさんのところ行ってきな。わたしは体育祭までの我慢だから大丈夫。体育祭が終わったら一緒に行こうよ」
もう、エリは泣いていなかった。
「ううん、あたしこう見えても足、結構速いし。ちゃんと速くなるように教えられるかは分からないけど、コツくらいなら教えるよ。それに、エリと一緒じゃなきゃベースも絶対楽しくない」
ようやく顔を上げることができたあたしは、エリを真っ直ぐに見ながらそう言った。走りを教えるのは自信がなかったけど、最後の言葉には自信があった。エリと一緒じゃなきゃ楽しくない。
少しの間をおいてエリは恐る恐る言った。
「いいの……?」
あたしは大きく頷いた。それを見たエリは、さっきまでが嘘みたいに満面の笑みであたしに抱きついてきた。
学校では見たことのない、エリ本来の笑顔だった。
頬には涙の痕が残っていた。
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