Track7:非国民的ヒーロー-3

気がついた時、おれはライブハウスの舞台の上にいた。


社長のコネで何とか取り付けてもらった先輩バンド主催の対バンイベント。但しその先輩バンドだってやっとインディーズデビューしたばかりの若手だから、集客はたかが知れていた。下北沢の路地裏のビルの地下、なかなか歴史と由緒のあるそのハコの狭いフロアには二十人ぐらいのお客さんがいて、多分おそらくキヨスミか九野ちゃんの取り巻きである数名の固定ファン女子が下手の柵にかじりついている以外は皆後ろの方に溜まって酒だかコーラだかジンジャーエールだかをめんどくさそうに煽っている。鼻腔に絡みつく、うっすらとした煙草のにおい。


ガラガラのハコを見渡した今のおれにとっては、その客のいなさ加減も見ず知らずの青臭い学生バンドの演奏を無理矢理見させられた可哀想なオーディエンスの皆さんがどのようなドリンクを喫しているのかも割と問題ではなく、ただただ自分が舞台の下手に佇んでいる、と言う事実への違和感に首を捻るばかりだった。


ふと視線を左に向ける。


薄暗い舞台の中央、刺すような照明の光に照らされて眩しく光っているそこには、あろうことかテレキャスを担いでドヤ顔のおれがいた。


驚いて視線を落とす。無数の傷がついた年季の凄い板の上に置かれた両足は黒光りするドクターマーチンのスリーホールとタイトな黒スキニーに包まれ、エクレアのような太ももを半ば隠しているのは鼈甲べっこう色の大きなプレベ。ダボダボのノルディックセーターの膨らんだ袖から覗いている手の先はやたら小さい。


どうやらおれは、らしい。


これは一体どう言う事だ。助けを求めるようにまたフロントに視線を投げる。おれの視線を感じたらしい「おれ」は、振り向いて口角をぐっと上げた。相変わらず目付きは悪い。多分、今より悪い。


背後から九野ちゃんのカウントが聞こえた。演奏が始まる。


映画のダイジェストでも見ているように、気がついたらライブが終わっていた。

おれ達は最低限の機材を担いで、先輩達との打ち上げの前にとりあえず一旦事務所に荷物を置きに戻る。ハコの裏口にはさっき最前ドセンでキヨスミ――言わずもがな、おれである――に釘付けになっていた女の子三人が出待ちしていて送り出してくれた。


雨が降っていた。


各々ビニール傘をさす九野ちゃんとフッちゃん、そしておれ、源壱将。未だ混乱したままのおれ(キヨスミ)も、まるで何かに――それこそ、身体に組み込まれたプログラムのようなものに――導かれるように傘をさそうとして気がついた。傘がない。


傘がなくて許されるのは井上陽水だけだと昔じいちゃんが言っていた。困った。重たいベースケースを背負ったまま霧雨に打たれて立ち往生していると、濡れ鼠のおれ(キヨスミ)に気づいたおれ(組長)(ややこしいので不本意だが渾名を用いる事にした)が、す、と開いた傘を差し出してきた。


「しゃあないな、入れや」


我ながら辟易する愛想の無さである。しかし相手がキヨスミなら仕方ない。おれ(キヨスミ)も鼻を鳴らしてそれに応じようとした時、さっき握手してあげたら喜んでスタッフ出入口のひさしの下に避難した女の子達の話し声が雨音越しに微か耳に届いた。


サーーーーーーーーーーーッ。


雨の音が耳鳴りのように飽和して、まるでその言葉を聞いてはいけないと、おれの耳を塞いでいるようだった。

しかし、聞こえてしまった。


「やっぱり組長どんどんカッコよくなってない? 歌上手いし。顔怖いけど」

「わかりみ。でもさ、キヨスミくんもまた歌えばいいのにね?」

「まあね〜聴きたいけどでも駄目じゃない? やっぱさあ、ハウネルちゃんはエモいじゃん? キヨスミくんの声じゃエモさが足りない」

「それな。ふわふわしててカワイイんだけどねえ、お人形みたいで」


――――お人形みたい。


依然としてかしましくミーハーなお喋りに興じる黒髪ぱっつん赤リップの女の子達の笑い声が響く中、おれは突如として襲い来る胸の痛みに耐えかねてその場にうずくまった。


極太の注射針をゆっくりと心臓に刺し込まれるような痛みがじわじわと上半身を襲う中、女の子達の声と一緒に遠くの方でおれ(組長)の呼びかける声が聞こえる。おい大丈夫かどないした!? しかし全ての音が耳の奥でディレイをかけすぎたみたいにモワモワと渦巻いて余計に胸の痛みは増し、それどころかライブ会場でスピーカーの傍に陣取ってしまった時のような音酔い状態に見舞われて吐き気すら覚える。矢も盾も堪らずおれは這いずるように立ち上がり、その場から逃げるように駆け出した。


雨が、降っていた。


肌にまとわりつくような霧雨はしかし幽霊のように手触りがなく、おれのセーターに何度も打ち付けてもそこから染みが広がる事もない。不気味な雨の幻に打たれながら周りも見ずに走り回り、気がつけばベースすら何処かへ置き忘れ、視界の端っこにアンゼリカが見えた。営業時間は終了していたっぽいが、まだ閉店はしていないようだった。


足がオイル切れの機械のような音を立てる。走るのをやめて歩く事にした。


濡れたアスファルトに反射する店々の看板がやたらカラフルで目に染みる。傷だらけの靴のつま先から目を逸らして空を見上げた。暗くはない。白く霧がかかり、下北沢コロッケフェスティバルの幟が街灯の下で揺れている。


――組長ってさ。


突然、キヨスミの声で呼びかけられた気がして思わず立ち止まった。振り返っても猫の子一匹いない。ゴーストタウンのように誰もいない深夜の南口商店街で、立ち尽くしたおれの耳元でベーシストの声だけが囁く。


――組長ってさ、ボーカルってポジションに甘えすぎなんじゃない? 元々歌上手いからさ、何歌ってもエモく聴かせられるからさ、何もしなくてもフロントに立てるから、甘んじてるんでしょ。今までどんな暗い青春時代送ってきたのか知らないけど、バンドをシェルターみたいに扱わないでくんないかな。


機械のように淡々と、反論の余地もなく並べられる勝手な言論におれは憤慨した。いつもの調子でインサートされる大げさな息継ぎの休符を見計らって急いで買い言葉を返す。


阿呆な事言いな何がシェルターや、おれは歌で天下取るために、誰かに必要とされるオトコになるためにバンドやっとんじゃ。自分みたいなサイボーグとは違う。


ここまで言って激しく後悔した。おれはなんて阿呆なのだろう。これぞいわゆる「一言多い」と言うやつだ。昔からよく母親に注意されているじゃないか。

案の定キヨスミの声は大きな溜め息を吐き(耳元がモゾモゾして気持ちが悪い)、裸の王様に言われたくないんだけど、と更に低いトーンで続けた。あかん、これ完全に怒っとる。


――誰のために歌ってるつもりなんだろーねほんと、バンドの中で裸の王様になりたいだけでしょどうせ。自分の歌声に失礼だと思わないの?


そんなん、おれの声が好きやて言ってくれる人達のために、まで言いかけたがキヨスミの声は聞き入れない。壊れたテープレコーダーのようにつらつらと続く舌っ足らずの恨み言。


――俺がその声持ってたら、そんななまっちょろい気持ちで使ったりしないよ。


霧雨は大粒の豪雨に変わった。


ひっくり返ってかすれた高い声はおれの鼓膜を引っ掻いて血清が漏れた。


そのじくじくと嫌らしく滲み出すような膿が残りそうな鈍い痛みはおれの鈍感な情緒に火を点けて、今までずっと目を逸らしてきた、気がつかないふりをし続けてきたとある感情をずるりと、引きずり出してきた。


あいつも――キヨスミもおれと同じように、嫉妬と報われなさを隠して音楽をやっているのだ。



檻のような硬質な雨の中、その獰猛な雨音の狭間に聞き覚えのあるドラムのイントロが聞こえた気がした。


続いてギターソロ、流れるようなベースとジャキジャキしたリズムギター。メロコア風のサウンドのバックでうっすらと流れるピアノの歌メロがどこか切ない。


あの曲だ。おれの大好きな、そして大嫌いな、あの曲。

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