Track5:バミューダアンドロメダ-1

オモテ出ちゃう?


そう言い放ったキヨスミの上ずった声と共に、おれの視界はぐにゃりと歪んだ。


丁度風呂場でのぼせて目眩を起こした時に近い。突然の眼前暗黒感に思わず目を閉じ、崩れ落ちそうな感覚をぐっと堪えながら両手を膝についてなんとかやり過ごす。コイツまた何かやらかしやがったな、と固くなった瞼を引き上げて顔を上げると、


おもてだ。


「ヒョウ」ではない。「オモテ」、である。


路地裏のスタジオにいたはずのおれの目の前に、夜露に湿った道路が黒ぐろと伸びていた。


流石に真夜中だ、夜遅くまで賑やかな下北沢の街もひっそりと眠りに落ちている。そんな人気の無い道路のど真ん中に、おれは立ち尽くしていた。

辺りを見回すと左手にはこの辺じゃあ割と大きいスーパーマーケット。「オオゼキ」と書かれた赤い看板がやたら目立つそいつの向かい側――右手の方には焼肉屋とよくわからんエスニック系だかハワイアンだかのアクセサリーの店。少し先の方にはこの辺じゃあ観光スポットと化しているマルシェ下北沢が見える。一階のヴィレヴァンの店先に置かれていつもほんのりとした光を放っているオ〇ホールの形をしたクレイジーな客寄せ看板も、案の定ライトが落とされていた。生暖かく粘着質な真夏の夜風が、頬をじっとりと湿った指で撫でてゆく。


真っ白になった思考回路をどうにか再起動しようとするおれの肩に何かが触れた。酔っぱらいに寄っかかられたような荒っぽい重量を感じて左肩を見やると、キヨスミがおれの肩に片手を添え、もたれかかるようにして頭を垂れて笑っていた。金髪の頭頂部がふるふると震えている。

その脳天にゲンコツでも振り下ろしてやろうかと思ったが、おれの動きよりも素早くヤツが顔を上げたのですんでのところで思い留まる。眉毛を下げておかしそうに舌を出すキヨスミは、もうちょっとやそっとじゃ驚かんぞと腹を括ったおれを嘲笑うかのように「ビックリした?」と小首を傾げた。


「瞬間移動してみた」


「見りゃわかるわド阿呆」


へえ、もうそんなリアクションなんだ。ベーシストはつまらなさそうに鼻を鳴らしたが、愛機のストラップの捻れを直すと夜風に髪をなびかせながら、じゃあこれはどう? と悪女じみた様子で笑いかけてくる。生理現象的に胸が高鳴ったおれだったが、ヤツが弦をひとたび鳴らした途端、うっかり開きかけた新しい扉はあっさりと閉じた。


どうやらスタジオから連れてきたらしいスタンド付きのSGとドラムが再び勝手に鳴り始める。さっきの曲のクライマックスを仕切り直すようだった。

上等じゃ、お手並み拝見といこか。もうあんな醜態は晒さへんぞ。下腹部に力を入れて足の裏から根が生えたように立ったおれはたとえ心臓をボイルにされても一矢報いる気持ちで覚悟を決めた。


しかし、始まったアンサンブルによって繰り出されたイリュージョンは、おれの想像を斜め上へ越えるものだった。


激しい四つ打ちとうねるベース、ありきたりかとも思われる軽快なリズムを土台に、やたらシブい歌メロがフッちゃんのSGによって奏でられる。まるで演歌のようなコード進行が逆にキャッチーなメロディをなぞるのはブーストの利いた力強いギターサウンド。その上に、キヨスミの声が乗る。冒頭と同じメロディだがオクターブ上、感動の大サビだ。


《サーチライト照らせ 深海層まで 腫れたまぶたに塩がしみる

早まってくれるな 恋心よ お前の痛みこそが詩だ》


やばい、と思った。


よくよく聴けばこの曲、歌詞の内容は基本的には失恋した男のやるせない心情を描いてはいるが、抽象的な単語の選び方がリスナーに想像の余地を与えておりそこに込められた物語を如何様にも受け取れるように計算し尽くされている。やたらドラマチックでメロディアスな展開も相まって、確かに宇宙的なスケールと言って差し支えない程の奥行きを感じざるを得ない。古き良きバブル黎明期のJPOPのトレンディな雰囲気さえ覚える。嗚呼バブル全盛期八十年代後半、生まれてこの方不景気な失われた二十年に生を受けたおれ達には夢のまた夢なユートピアである。お下品メンゴ、汁がメッシュ。こりゃあ悔しいが、おれには到底敵わない。正直、おれこの曲めちゃめちゃ歌いたい。


そんな時代への憧れが投影されているのかどうかは知らんが、息切れしたハイトーンを鈍色の夜空に轟かせたキヨスミは満足げに天を見上げる。イントロと同じく哀愁漂うギタメロが印象的なアウトロが誰もいない街に響き渡り、ちょっと近所迷惑を心配したがそれよりもおれの関心を誘ったのは、その歌声やバンドサウンドと共に少しずつ足元の影が――おれの影が、大きくなっていったような気がした事だった。


まるで背後から徐々に高くなる太陽にでも照らされているようだが、あいにく今は午前二時、太陽なんて昇っているはずもない。しかし街灯の淡い光を受けて足元から伸びる影は少しずつ長くなり、しまいには向かい合ってシブいベースラインを奏でるキヨスミをも呑み込んでしまった。


いや――――これは違う。

これはおれの影ではない。


首を左右に振りながら髪を乱して弦を叩くキヨスミから目を逸らし、おれは背後を振り返った。

そのままおそるおそる上を見る。

鼓膜を叩く重低音が耳鳴りのように遠くなった。


そこには、とろけたコンクリートのような星ひとつ無い空を覆って、ピンクの巨大な塊がそびえ立っていた。

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