episode2《二重同時のダイアログ》

 午前6時。普段は鳴ることのない時間にスマートフォンが鳴った。電話だった。目覚ましのアラームより先に鳴って、私はその音で起こされた。覚めきらない目で画面を見ると、非通知の文字があった。

 出なくてもいいかなと思ったそのとき、脳裏に遼平の顔が浮かんだ。

 昨夜、私は彼の連絡先を連絡帳に登録しなかったのだ。それで非通知になっているのかもしれない。

 もう既に7回ほど鳴り、留守番電話サービスへと移行しようとしていた。


「も、もしもしっ……!」


 急いで私はスワイプした。寝起きの声で全く声量はなかった。しかし、相手にはしっかり届いたらしい。


「あ、もしもし。小野崎さん、ですか?」


 明瞭な遼平の声が聞こえた。周りで大勢の人が話している音が聞こえたが、彼の声は透き通っていて聞き取りやすかった。

 少し自信なさげに私に問うた。番号の確認がしたかったのだろう。不安げな彼を安心させるために落ち着いた声で言う。


「はい、小野崎です。小林さんですよね?」


 私は昨日の夜から遼平の声を忘れておらず、彼の『もしもし』の時点で誰だか分かっていたが一応確認をする。

 無駄な会話でも彼の声が聞きたいと思ったのだ。


「そうです、小林です」


 不安さが取り除かれた遼平の声が私の耳をくすぐった。大人の落ち着いた声だ。朝からこんなにいい声を聴けるなんて私はなんて幸せ者なのだろう。

 密かに自分の幸せに浸っていると、電話越しに女性の声が聞こえた。それにかぶせて遼平の声が聞こえた。


「小野崎さん、このあと会えますか? 話したいことがあるのですが」


 女性の声はコンシェルジュのようだった。ホテルの受付を済ませながら私に連絡をしたらしい。変な誤解をしなくて済んだ。

 早く電話を切った方が遼平が楽だろうと思い、私は快諾した。


「少し時間をいただければ大丈夫です」


 だんだんと寝起きの声が普段の声に戻っていった。彼にそれを悟られたくなかった。寝起きの声から普段の声に戻ったねなんて言われたら、私はもう彼に会えない。会う気が失せてしまう。

 少しずつ準備を始めながら遼平の返答を待った。


「分かりました。では、1時間後ではどうでしょう」


 わざとらしいクエスチョンマークは感じなかった。最低限の社会のマナーに感じられた。アポイントメントをするだけの言葉だった。

 私は冷めた言葉に胸を刺されたのかもしれない。1時間で準備は余裕でできる。しかし、大丈夫が私の口から出てこなかった。

 遼平が『もしもし?』と声をかけてくる。聞こえてはいるのだが、自分から音を発することができない。約束はちゃんと結びたい。だって、彼に会いたいから。


「もしかして、無理に予定を空けていませんか?」


 事実ではないのに、どきりとした。これは、急いで訂正しなくては。


「そ、そんなことありませんっ! 会えます! 1時間後ですよね、大丈夫です!」


 焦ったら案外すんなり言葉が出た。こんなにも簡単なことだったのかと思い知らされる。困っていた自分は馬鹿みたいだ。

 私が応答すると、遼平は再び安心しきった声を出した。


「それはよかったです。場所はどうしましょうか」


 次なる困難だと思った。時間は向こうが提案してくれたものの、今度は場所を私に相談してきたのだ。

 私は初めてのマウイ島で現地の地理にはうとい。一応地図を持っているが、一本道を間違えただけで現在地がどこか分からなくなってしまう。

 それを電話越しに察したのか、遼平は明るい声で言った。


「小野崎さんのいるところから近くがいいですよね。小野崎さん、初めてのマウイ島と言っていましたから」


 遼平は優しさと気遣いの塊だと思った。希望をまだ言っていないのに、遼平は私の戸惑いを察して再び提案してくれた。

 優しいと思ったと同時に申し訳なさがこみ上げた。こんな私に話など、きっと利益の少ないものだろうと勝手に想像してしまった。プライベートの付き合いなんて、月日を重ねていくうちにみるみるなくなっていくのだ。

 一人で思い込んで、一人鼻で笑いそうになる。彼に聞かれてはまずいと思い留まった。

 話がずれないように進めなくてはと思い、無駄な思考は遮断する。


「お気遣いありがとうございます」


 ただそれだけしか言えなかった。私から『ここはどうですか』なんて提案できなかった。現地の地理を知らないという理由の他に、それ以上を言ったら変なことまで口走ってしまいそうだったからだ。


 コンコン。


 急に私の部屋の扉がノックされた。

 突然のことで私は電話の向こうの遼平の断りもなく、扉へ向かってしまった。遼平と通話をしたままだと気づいたのは、既にドアノブへ手をかけたときだった。


「あっ……」


 私が小さく声を発したことに遼平は気づかなかった。

 しかし扉の先に予想もしなかった出来事があった。


「開けちゃいましたね、小野崎さん」


 扉を開けると、そこにはクスクスと笑いを堪えきれていない遼平がいた。

 私も彼も耳に電話を当てたままだった。先に彼が電話を離すと、私も呆然としたまま腕を下した。

 遼平は昨日とは違って帽子をかぶっておらず、ちゃんと優しい目が見えていた。この距離でも見えるコンタクトレンズをしていて、普段では眼鏡をかけているのがなんとなく想像できた。

 初めて見た彼の目に私はどんどん惹かれていった。


「小林さん、なんで……」


 本当に不思議だった。全ての言葉は音にならなかったが、遼平はそれだけで察したようだった。

 未だに笑っている遼平、呆然と立ち尽くす私。2人の間に今まで感じたことのない空気が流れていた。


「昨夜、ここに入っていく小野崎さんの姿を見かけたものですから。突然来て申し訳ないです」


 やっと治まった笑いを真剣さに代えて遼平は言った。私は彼の変化に心惹かれた。大事な場面で切り替えができる人は格好いいと思ったからだ。

 真摯に眼差しを向けてくる遼平に耐えきれず、私は顔を伏せた。


「いえ、全然大丈夫です……」


 私は言葉が続かなかった。いざ顔を合わせると、何も言えなくなってしまう。電話の方がまだ緊張が少なかったことに今更ながら気づいた。

 彼にもし私の顔が見えていたならば、紅潮していることがわかるだろうか。


「で、話の続きなんですが」


 遼平は自然に話を持ち込んだ。

 私も気持ちを整理してから本題のことを考えた。


「この近くに美味しいパンを売っているところがあるのですが、そこにしませんか?」


 彼からの提案を待っていなかった、と言ったら嘘になる。私は心のどこかで、彼からの提案を信じていたのだ。

 私はかろうじて整頓してあった部屋へと遼平を通した。

 入口にはオートロックがかかった。


「この近辺に疎いので、案内していただけますか?」


 私は事実を言ったまでだが、なぜだか自分の性格にはないことを言っている気がした。

 まるで、誰かの言葉を自分勝手に使っているような。

 しかし、そんなことを考えているのは私だけのようで、遼平はソファに腰かけ、微笑んだ。


「もちろんですよ。ついでに、そこまでの道でいろいろなお店を紹介しますね」


 優しく細くなった目に眼光が宿った。

 私がそこで何かに気づいて反応するということはなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます