episode1《風にも靡かない謎》

 気づけば2年が経ち、頭上には夏空が限りなく続いていた。目の前には広大な海が青々と満ち足りていた。潮風が体全体に染み渡る。膝上の白いワンピースが大げさに揺れる。2年前とは全く違う長さの髪まではしゃいでいた。

 髪を押さえながら私は実感した。


「私、本当にいるんだ。このマウイ島に」


 高校時代からの夢だったマウイ島への海外旅行。旅費を貯めて、語学の勉強もした。自由に旅ができることに胸がいっぱいになっていた。

 周りにはたくさんの観光客がいるにも関わらず、私には小波さざなみしか聞こえていなかった。


「……せん」


 波音にざって何かが聞こえた気がした。今は目を瞑って波を聞いているから誰が言ったのか判断がつかない。もしかしたら私に声をかけた訳ではないかもしれない。

 深く息を吸って吐いて、浜辺の匂いを堪能した。


「……すいません」


 耳元で男性の声が響いた。驚いて瞑っていた目を開いた。

 右を向くと、そこには深くハンチング帽を被った細い男性がいた。口元は見えたが、目元は帽子で隠れていた。

 私は彼に見覚えがあった。しかし、誰という名前までは思い出せなかった。


「私、ですか?」


 咄嗟に応えたので私の口から出たのは日本語だった。しまったと思ったときにはもう話が進んでいた。


「そうです。突然で申し訳ないのですが、被写体になっていただけませんか?」


 男性はとても丁寧な日本語を使っていた。帽子で隠れているところ以外を見ると、顔立ちは日系の雰囲気があった。手には一眼レフが乗っていた。写真家だろうか。

 被写体なんて頼まれたのは初めてだった。この私が選ばれるとは夢にも思わなかった。私よりきれいな女性などそこらじゅうにいるのに。


「被写体……」


 私は戸惑いながら呟いた。嫌な気はしないが、気恥ずかしい。ただそれだけが喉を詰まらせていた。

 男性は口を結んで私の答えを待っている。人の考えに口を出さないところから考えると、相当私に頼みたいらしい。

 私は彼の必死さに負けた。


「分かりました。自由に撮ってください」


 私は苦笑いのような笑顔で答えると、男性は嬉しそうに礼を言った。その様子は、どこかで見たことがあった。デジャブ……?

 頭の片隅にも思い出せず、そのまま私は彼の被写体となった。

 彼は日本から来た写真家だと言った。マウイ島には三度目の旅行らしい。他にも美しい島を見て写真を撮ってきたそうだ。写真の話をするとき、彼は口角を上げて楽しそうに話していた。本当に写真が好きなんだと、赤の他人の私でも分かった。


「僕、小林こばやし遼平りょうへいといいます。被写体になっていただき本当にありがとうございました」


 彼は地面から腰を上げて、小さなカードを差し出してきた。私も立ち上がって手を伸ばすと、それが名刺だと分かった。

 会社名や役職は一切書かれておらず、ただ名前と連絡先が印刷されているだけだった。

 『小林遼平』という名前に聞き覚えや見覚えはなかった。他人の空似だったのかもしれない。口元だけが似ている人間などあちこちにいる。それを私が知っているであろう誰かに結びつけるなど、簡単に考えすぎたのだ。


「私は小野崎おのさきまどかです。よかったら受け取ってください」


 カバンから私が取り出したのは乱雑で明確な連絡先だった。遼平と出会ったのは何かの縁だと思ったのだ。繋がっておいて損はないだろう。

 私が彼の名刺を受け取りながら差し出すと、遼平は嬉しそうに笑った。目元は出会ったときから見えていないが、きっと優しい目をしているはずだ。たった口元を見ただけでそんなことまで勝手に予想している自分がいた。


「いつか必ず連絡しますね」


 優しく微笑んだ彼に包まれたような気がした。やはり私はどこかで彼と会っている。記憶は全くないが、そう思えて仕方がない。

 遼平の言葉に遅れながらも返事をした。彼は「では」と言って私に背を向けた。少しだけ皺が残っているシャツに、私は何かを思い出していた。曖昧すぎて明確には分からなかった。

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