幕間 その日

 その日、業務を終えた蔵人は、休憩室に入って手と顔を洗った。

 髪の毛や作業服には粉塵汚れが満遍なく付着しているが、落としたところで工房内にいればすぐに付くものなので、いまは放置しておく。


「ふぅ……」


 休憩室に設置された小さな流し台で念入りに手を洗い、顔を軽く水で流した蔵人は、首に掛けたタオルで顔を拭きながら、疲れたように息を吐いた。


「トビっちおつかれー」


 後輩が軽い調子で声をかけてきた。

 蔵人は姓を飛石とびいしという。

 変わった姓なので下の名前で呼ばれることは少なく、とはいえ4音なので略されることが多い。

 後輩のように『トビっち』と呼ぶものはそこそこおり、他にも『トビちゃん』『トビー』などと呼ばれることが多く、中には『トビッシー』という、それはもうそのまま『トビイシ』と呼んだほうが早いのではないかというものまであった。


「おう、おつかれ」


 ひと回り年下の若い後輩に愛称で呼ばれたことを気にする様子もなく、蔵人は、流し場に置かれた電子ケトルを持った。

 持ったときの重量から中身が入っていることを察した蔵人は、開閉ボタンを押してケトルの蓋を開けた。

 開いた上部からもうもうと蒸気が立ち上る。


「お、結構あるな」


 まだ充分に熱を持った湯がケトルに残っていることを確認した蔵人は、流し場に置かれたキャビネットからスティックタイプのインスタントコーヒーをひとつ手に取った。


「そういやトビっちって普段はブラックっすよね」

「仕事明けはちょっと甘いのが飲みたくなるんだよ」


 1杯分のスティックを開け、砂糖と粉末ミルクが混ざったインスタントコーヒーを自分専用のマグカップに入れながら、蔵人は後輩の質問に答えた。


「これいつ沸かした?」

「んー5分前くらいっすかねぇ」

「じゃあ、ちょうどいいか」


 コーヒーの湯温は90℃に限る! という強いこだわりがあるわけではないが、安物のインスタントであっても少しは美味いほうがいいに決まっていると、蔵人は少し温度の下がった湯をカップに注いだ。

 立ち上るそれなりに香ばしい匂いを心地よく感じながら、カップ片手に後輩の隣へと座り、コーヒーをひと口すする。


「ふぅー……あああ……」


 体内に残った疲労を吐き出すように、大きく息を吐き、意味のない声を漏らす。


「トビっちおっさんみたいっすよ」

「おっさんなんだよ」


 苦笑交じりの後輩の言葉に、蔵人は少しだけ不機嫌そうに答えながら、テーブルの上に置いた自分のバッグからスマートフォンを取り出した。

 社長含めて5名しかいない小さな工房なので、身内に対するセキュリティ意識は低い。

 ロックを外して着信メールやSNSの通知などをひと通り確認したあと、スマートフォンをズボンのポケットに入れた。


 R O A D S T O N E


 ふと、休憩室のテレビモニターの映像が目に入った。

 ほんの数秒映し出されたピアノに刻まれた『ロードストーン』社のロゴマークが、なぜか妙に印象的だった。


「しかしガイスラーどこいったんすかねぇ」


 テレビを見ながら後輩が呟く。


 久々に来日したガイスラーという有名なピアニストが失踪し、ここしばらく随分とニュースになっていた。


「もう1ヶ月になるんだっけ?」

「あー、そんくらいっすかねぇ」


 ピアノ業界に身を置く者として、ガイスラーの来日も失踪も気になる出来事ではあるが、コンサートのチケットが取れるわけもなく、ましてや彼の弾くピアノを調律できるわけもない。

 この半月ほどは同じ内容の繰り返しとなったニュースに興味を失ったのか、後輩はリモコンを手に取りチャンネルを変えた。


『大型ショッピングモール火災! 消えた100人の謎!!』


 新たに映し出された別の情報バラエティ番組では、1年近く前に発生した大型ショッピングモール火災の特集を行っているようだった。

 千人を超える死傷者を出した大惨事であり、いまだ行方不明者が100人以上いるらしい。

 瓦礫がれきの撤去がすべて終わっても見つからない行方不明者の数が多すぎると、随分話題になったのを蔵人は覚えていた。


「おれの知り合いもこの火災で行方不明だったんすよねぇ」


 深刻な内容のわりに軽い口調の後輩を訝しむように、蔵人は少し険のある視線を送る。


「まぁ、実際は全然別の場所にいて無事だったんすけどねー」


 蔵人の視線に気付いたかどうか定かではないが、後輩はテレビ画面を見ながらおどけたように肩をすくめてそう言った。


「事前にここへ行くって周りには言ってましたからねぇ。行方不明者リストにそいつの名前があったのはびっくりしたんすよ? しばらく連絡もつかなかったし、こりゃヤバいなと思ってたんすけど」

「結局無事だったんだよな?」

「ええ。なんかモールでナンパした女の子とホテルにこもってたらしいっすわ。邪魔が入るといやだからってスマホの電源切ってて、そのあともしばらく電源入れ忘れてたから連絡取れなかったっていうしょーもないオチなんすけどねぇ……」

「なんとまぁ」


 なんともコメントのしづらい話を聞き流しながら、蔵人はポケットからスマートフォンを取り出した。


「消えたっつっても、別に身分証見せてモールに入るわけじゃないっすからねぇ。実際その場にいなかったから、まさか自分が載ってるなんて思わずに行方不明者リスト確認してないとか、そんなオチじゃないっすか?」

「かもなぁ」


 曖昧に返事をしながら、蔵人はこの火災事件の行方不明者リストを検索し、開いていた。

 別に興味があるわけではないが、スマートフォンを手にして以降、少し気になることがあればたいして、必要もないのに調べてしまう癖がついてしまっている。


(あー、充電しときゃよかったな)


 モニターに羅列された人名にはさして感じるところもなく、残り30パーセントになったバッテリーを気にしながら、蔵人はほどなく画面をロックし、そのままポケットに端末を入れ直した。


「さて、そろそろ帰るわ」

「おつかれでーす。明日は外現場でしたっけ?」

「おう。修理と調律が1件ずつな」

「そっすか。あ、コップ一緒に洗っときますんでー」

「悪いな。じゃあ」

「っすー」


 後輩と短い挨拶を交わし、バッグを肩に引っかけて休憩室を出る。

 工房に戻った蔵人はコンプレッサーにスイッチを入れてエアブローガンを持つと、業務をほぼ終えて半分閉じられたシャッターをくぐって外に出た。

 バッグを地面に置いたあと、全身にまとわりついた粉塵汚れをエアーコンプレッサーが生みだす強力な風で吹き飛ばした。

 ある程度汚れが落ちたところで一旦工房に戻り、プラスチックコンテナに明日の作業に必要な工具を詰め込んでいく。

 ひと通り必用な物を入れ終えたコンテナを、ずるずると引きずってシャッターを再びくぐって外へ。

 エアーコンプレッサーでコンテナ内の道具類にも付いている粉塵汚れを落とし、最後に軽く身体に風を吹き付けた。


(えーっと、チューナーの電池は……)


 バッグには調律に必要なものが入っていた。

 そこからチューナーを取り出してスイッチを入れ、まだ作動することと、予備電池がちゃんと入っていることを確認した。

 チューナーをバッグに戻したあと、ポケットからスマートフォンを取り出し、ロック画面を表示する。

 バッテリー残量は29パーセントになっていた。


(帰って充電するまで切っといてもいいか)


 電源キーを長押してシャットダウンし、スマートフォンを再びポケットにしまった蔵人は、バッグをコンテナの上に載せ、取っ手に手をかけた。


「よっこらしょ……っと」

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