第三話 船出

 惑星タラベルソの宇宙港ドックのひとつに、無骨なフレームを基軸に据えた貨物宇宙船が停泊していた。先頭部分の船室ユニットの外壁には、『バスタード号』という鮮やかな船名塗装が施されている。経年劣化でほとんど剥がれ落ちていたその塗装が余りにもみっともないというので、昨年のオーバーホールの際にヴァネットが塗り直させたものだ。


 艦橋ブリッジと会議室を兼ねたそのユニットの中は、当然のことながら無重力状態にある。ブーツの底の磁力をオフにして、ファナは会議卓上の空間にたゆたっていた。


「うん、そう。ウールディとユタはまだ、多分クロージアにいると思う」


 耳朶の通信端末イヤーカフに右手を添えて、左手に掴んだ端末棒ステッキから引き出されたホログラム・スクリーンに向かって語りかける。


「ベルタだけじゃないって。あそこはほら、銀河ネットワークも届いてないから。誰も連絡取れないんだよ」


 スクリーンに映るのは亜麻色の髪を丁寧に束ねた、ガーク夫人ベルタの上半身であった。彼女はエルトランザ領デスタンザのガーク邸から、銀河ネットワークを通じてタラベルソにいるファナに連絡を寄越してきたのであった。


「そうだよね。銀河ネットワークのお陰でこうしてベルタともお喋り出来るのに、《オーグ》と《繋がった》後だとありがたみが薄れるっていうか」


 ファナの言葉に、ベルタはスクリーンの中で相槌代わりの笑声を上げた。

 彼女もまた《オーグ》に取り込まれて想像を振り切った体験を経た後だというのに、スクリーン越しに見る明け透けな笑顔に変わりはない。割り切った考えがモットーのベルタにとっては、理解不能な出来事で悩み続けるのはコストに見合わないのだろう。


 彼女自身は意識してはいないだろうが、その安定した振る舞いは周囲に少なからぬ安心感を与えている。

 ファナもまた、ベルタの笑顔に安心を感じているひとりであった。


「私とユタの《繋がり》も、いずれ機械で再現出来るようになるだろうし。そうしたらどこでも、もっと気軽に連絡つくようになるよ」


 船室の空間に浮かんだままゆっくりと回転しながら、ファナはホログラム・スクリーンに笑いかけた。


「でも、いいんじゃない? 食糧も水も十分積み込んであるみたいだし、しばらくはふたりで思う存分いちゃついてくれば。うん、うん……だね。帰ってきたら、思う存分冷やかしてやって」


 そう言ってファナが意地悪い笑みを浮かべると、スクリーンの中のベルタはさらに輪をかけた、人の悪い笑顔で応じた。


「私たちは今、諸々積み込み待ち。オルタネイトが不足してるから時間かかってるの。そう、N2B細胞がいかれたのは私も同じ。備蓄分だけじゃさすがに心許ないし、行った先で補給出来るかもわかんないからね」


 ファナは端末棒ステッキを手にしたまま空中で上体を捻り、操縦席脇の壁面のモニタで『バスタード号』の積載物の内容量をチェックした。資材や消耗品は概ね余裕があるが、オルタネイトだけは必要量に届いていない、赤字を示している。


 スタージア博物院長ジュアン・フォンの呼びかけによって、銀河連邦や連邦外諸国を問わず、オルタネイトは大規模な増産体制に入ったばかりだ。全員に行き渡るだけの分量が用意されるには相応の時間がかかるだろう。『バスタード号』がオルタネイトの補給を申請したのはかなり早い段階だが、果たしていつになったら届くものか見通しは立たない。


「わかった。ウールディたちと連絡が取れたら、ベルタにすぐ声かけるよう言っとくよ。すっごい心配してたって伝えとく」


 まあ、焦る必要はない。時間に追われているわけではないのだ。色々ありすぎたばかりだし、休養も兼ねてたっぷり時間を取って、余裕を蓄えてからで十分だろう。


「ああ、気がついちゃった? さすが察しがいいねえ。そう、私も、多分ユタもだけどね。N2B細胞の力が無くなっちゃったから」


 壁を軽く押した反動で、反対側の壁にある船外窓までふわりと漂う。強化ガラス窓の窓枠に手をついて動きを止めると、窓の外にはファナとユタが育った惑星タラベルソと、その向こうに永遠の広がりを見せる、星の輝きもまばらな宇宙空間の暗黒が目に入る。


 何度も見たはずの光景に思わず目を止めながら、ファナはスクリーンの向こうにいるベルタに告げた。


「今の私はウールディとおんなじ、読心者だよ」



 慟哭と、後悔と、怒りと、悲嘆。


 激しい負の感情が迸り、渦巻き、荒れ狂い、やがて落ち着くまでの間、ファナはひたすら待ち続けていた。


 船室でひとり、無重力の空間の中で漂いながら、彼女の思念に届くのは行き場のない咆哮であり、猛烈な自己嫌悪であった。それらの感情は発露の形こそ異なれども、彼女自身がひと足先に経験したものばかりであったから、ファナは時折り身震いしながらもその全てを受け止め続けた。


 だが汲めども尽きぬ激情を延々と叩きつけられて、ファナの精神も徐々に疲弊する。


 精神の限界は身体の疲労に直結し、いつしか身体からだ中が汗でびっしょりになったまま宙に浮くファナの前に、ようやくラセンの長身がのそりと現れた。


「……気が済んだ?」


 肩で息をしながら、それでもファナは無理矢理に微笑んで尋ねかける。ラセンはただ低い声で一言「ああ」と答えた。


「待たせたな。もう大丈夫だ」


 初めて目元に手を当てたのだろう。右手で顔一面を拭う際に、前髪の陰から覗いた大きな目の周りは真っ赤に腫れ上がっている。


《オーグ》の《繋がり》から解放されて、一個人へと戻ったラセンを最初に捉えたのは、ヴァネットという長年のパートナーを失った悲しみと、その事実を心底悲しむことの出来なかった己を責め立てる思いであった。


 ふたりがクロージア生態系との邂逅と、そして《オーグ》からの解放を体験したのは、タラベルソ宇宙港に停泊中の『バスタード号』の中でのことである。


《繋がり》を解かれた直後、ラセンはしばらく呆然とした表情のまま微動だにしなかった。ようやく動き出したかと思えば、ファナとも一言も口をきかないまま、一直線にヴァネットの私室へと閉じこもってしまう。そしてファナがベルタとの通信を交わし終えてもなお、ラセンはヴァネットの部屋から出てこようとはしなかった。


 ようやく姿を現したラセンが、彼なりに精神の安定を取り戻していることを読み取って、ファナは心底安堵する。


 ラセンの気持ちが痛いほどわかる――ことにN2B細胞が機能を失った今、純然たる天然の精神感応力者となったファナには、彼の激しい心の動きはそのまま我が身に突き刺さるばかりだった。ユタと《繋がって》いたときの共感とはまた異なる、一方的に降り注ぐ感情の動きに晒されながら、ファナはひたすら待ち続けたのだ。


「《オーグ》ってのは本当にクソッタレだな」


 磁石靴を効かせて船室を歩きながら、ラセンは忌々しげにそう吐き出した。


「何から何まで、ろくでもねえことしかしやしねえ」


 ファナの横を通り過ぎて操縦席まで歩を進めたラセンは、そこが定位置とばかりにシートにどっかと巨躯を沈める。


「それで、どうする?」


 船外窓から押し退けるように離れて、ファナは操縦席の背後まで身体からだを漂わせた。そして背凭れを両手で掴みながら、ラセンの右肩の上に顔を突き出す。


「オルタネイトの補充にはまだ時間がかかりそうだけど、それさえ済めば宇宙船ふねはいつでも出港出来るよ」


 極力平気な素振りを見せながら、その実ファナの心身はおそらくラセン以上に疲労困憊していた。


 異なるヒトの想いを感知することは、《繋がり》とは全く別次元の行為なのだ。


 こちらの想いなど関係のない、他人の思念を受け止めるがままであることには、常にある種の緊張感がつきまとう。ラセンの激情に晒され続けて、ファナはそのことを痛感していた。


 ウールディはこんな体験を、生まれたときからずっとしてきたということか。


「ユタとはまだ《繋がら》ないんだろう。いいのか、それで」


 すぐ隣りにあるラセンの顔が、操縦席の前面に目を向けたまま尋ね返す。ファナは彼と同じ方向に視線を投げかけながら「うん、いいの」と答えた。


 N2B細胞が失われて、ファナとユタの間の特別な《繋がり》もまた失われた。ファナもユタも今は、強力ではあるが特別ではない、天然の精神感応力者に過ぎない。その有効範囲も、恒星間距離を隔てるようことはもはやない。


 だがお互いに顔が見える距離まで近づけば、またユタとの《繋がり》は復活するだろう。ファナにとってはそれで十分であった。


「それに銀河ネットワークは《オーグ》の母星からこの世界まで、ずっと繋がってるんでしょう? だったらどこからでも連絡は取れるんだし」


 きっとユタと一心同体だった時期は、もう卒業を迎えるべきなのだ。思えば弟と離れて過ごすようになって、既に何年になるだろうか。もしかしたら姉弟の《繋がり》の際限のない距離は、お互いに納得して離れるまでの猶予だったのかもしれない。


「そうか」


 短く頷くラセンの横顔に、ファナは真っ直ぐ前に顔を向けたまま、視界の端から視線だけを注ぐ。


「だから気にしないでいいよ。ラセンの好きなように……ううん、ラセンだけじゃない。私も一緒に行きたいの」

「そうか」


 ふたりの目の前には、特殊硬化ガラスの操縦窓越しに宇宙空間が広がっている。

 宇宙船の方角的に、惑星タラベルソの表面は視界に入らない。目の前に開けているのは、星明かりが控えめに散りばめられた暗黒の世界だけだ。

 人によっては不安に満ちた暗闇に見えるかもしれない。しかし数多の星を渡り歩いてきたラセンとファナにとっては、無限に広がる可能性が具現化された景色でもある。


 不意に右の頬にごつごつとした、だが暖かい感触を感じた。それがラセンの右手だと気がついたときには、ファナの頭はぐいと力強く引き寄せられていた。そのまま今度は左の頬が、ラセンの顔に触れる。


「お前がいてくれて良かった」


 ラセンはいつも、本音を口にするときは言葉少なだ。でも、だからこそ伝わる想いというものがある。それは彼の思念を読み取れたとしても、あまり意味はないのだ。思念という過程を経た結果としての彼の意思は、言動に出すことで初めて定まるのだから。


 だから彼の言葉を耳にして初めて、ファナはようやく彼女自身の緊張が解れていくのを感じた。


 もしかしたら瞳は潤んでいたかもしれない。


 そんな顔をラセンに見られることが無性に恥ずかしくて、代わりにファナは彼の背後から、その太い首にしがみついた。


「おい、こら、やめろ。首が絞まる」


 無重力空間で首に両腕を回されたまま、宙に舞うファナの身体からだに引っ張られそうになって、ラセンは彼女の頭を抑えつける。


「いちいち反応が大袈裟なんだよ、お前は」

「だってラセンから感謝の言葉が聞けるなんて、年に一度もないんだから。たまにはいいじゃない」


 幅の広い肩の上に顎先を乗せたまま、ファナが茶化すように言う。だがその顔はラセンの無精髭でざらつく頬にぴったりとくっつけて、離そうとはしない。


 そんなファナを、ラセンもそれ以上押し退けようとはしなかった。ファナの頬に添えた右手を外すことなく、しばらくそのままの姿勢でいた彼が、やがて口にしたのは別のことであった。


「あのごたごたの中、うやむやのままおさらばなんて、俺は納得してねえ」

「……うん」

「ヴァネットには、たとえ残像相手でも、もっと色々と言っておかなきゃいけないことが山ほどある」

「私だってまだ、ヴァネットとは全然話し足りないよ」


 それはファナにとって嘘偽りのない本心である。そしてラセンが彼自身の中でけじめをつけるためにも、必要なことだろう。


「ヴァネットの記憶は《オーグ》の機械に残ってる。ここから《オーグ》の母星に直接行くルートは塞がれちゃってるけど、第六の世界を経由すれば行けるはず」

「じゃあ決まりだな」


 操縦窓の向こうに広がる星空に視線を据えたまま、ラセンが低い声で言い切り、ファナがその横で小さく頷く。


 彼らが生まれ育った銀河系人類社会――《オーグ》が第七の世界と呼んだこの世界を飛び出して、《オーグ》の母星を目指すこと。


 それがラセンとファナが共に胸に抱く、これからの指標であった。


 果たして何年かかるか見当もつかない。よその世界で道中どんなトラブルに見舞われるかもわからない。もしかしたらたどり着けないかもしれない。

 だとしてもふたりには、そこを目指すべき理由がある。他人が聞けば些細なことと思うかもしれないが、ラセンとファナにとっては十分過ぎる目的であった。


「それによその世界がどんなもんか、この目で直に見てみたいしね」


《オーグ》が第七の世界まで旅してきたその軌跡には、それぞれの世界の間を結ぶ恒星間航路と、自律型通信施設レインドロップという通信手段とが残されている。それだけの財産を遺されて、互いの世界が無縁でいられるはずがない。《オーグ》の母星も含めれば八つの世界の間には、いずれ交流を求める輩が飛び交うことになるだろう。


「だったらいっそ、この世界の住人で《オーグ》の母星に乗り込む一番乗りを目指さない?」


 ファナは嬉々として焚きつけたが、ラセンの反応は今ひとつ鈍い。


「一番乗りったってな。別に競争するつもりはねえぞ」

「だってこの宇宙船ふねの名前とか、歴史に残っちゃうかもしれないよ」


 するとラセンはおもむろに四角い顎を撫で、少し考え込むような仕草を見せる。


「……なるほど、それは確かに面白そうだな」

「でしょう?」

「歴史の講義の度に『バスタードクソッタレ』が連呼されるのか」


 真面目くさった顔をした院生たちが、そろって罵声を口にする状況を想像して、ファナは思わず吹き出してしまった。もしそんなことになったら、ふざけた船名を名づけたラセンに対する、導師たちの恨み節が囁かれることだろう。


「それはなんだか申し訳ないなあ」

「何言ってんだ。いい目標が出来たぜ」


 そう言ってラセンが口元ににやりとした笑みを浮かべる。


「オルタネイトが足りないなら、親父かルスランにでも調達させりゃいい。早いとこ準備を済ませて、宇宙船ふねを出すぞ」


 それはラセンとファナの、新しい船出の宣言であった。

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