第三話 急襲(3)

「本当にいいんだな」


 ラセンの低い声に、もはや何度目になるかわからない念押しを繰り返されて、ファナは面倒臭げに口元を歪めさせた。


「もう、いい加減にしてよ。いいって言ってるじゃん」


 豊かな自然に囲まれた風光明媚なリゾート地で、贅を尽くした美食を楽しみ、愛する男と共にただ何をするでもない気侭な日々を過ごす。誰もが羨むであろう生活に浸り続けていたファナの顔からは、喜怒哀楽の表情がすっかり抜け落ちて、その薄茶色の瞳には虚ろな光が宿るのみとなっていた。


 何もしなくても良い、ただ漫然と過ごすだけの生活というものが、いかに人間の精神を蝕むことか。


「そこに居て、健康的に過ごしてくれるだけで良い」


 そう言い渡されて歓喜のあまり跳び上がったとしても、ヒトは無為な日々を過ごすままではいずれ精神の平衡を失うものだということを、《オーグ》は十分に心得ていた。


 ましてやファナの場合、ラセン・カザールに認められることを人生の第一に掲げてきたのだ。彼女自身がなんの達成感もないというのに、認めてもらうべき人物が無条件に傍らに侍り続けるという状況は、端から耐えがたかったはずだ。


 長い歴史を経て数え切れないほど蓄積してきたヒトの精神を顧みれば、たとえ精神感応力が及ばないとしても、その程度の推察は容易い。やがてファナが根を上げるであろう、自ら《オーグ》に《繋がる》ことを望むであろう環境に彼女を幽閉していた成果は、予想よりも早く効果を現した。


「みんながあんたたち《オーグ》を蹴散らそうと躍起になってるけど、私にはもう何が正しいのか、よくわからない」


 ホテルのベッドの上で、壁に背を半分凭れかけながらだらりと横たわるファナは、唇以外に筋肉を動かそうとする意思すら感じられない。ファナが横たわるベッド脇の、籐椅子に深々と腰掛けるラセンは、足下に視線を落としながら答える。


「連中が《オーグ》と《繋がる》ことを拒否すること自体は、当たり前っちゃ当たり前だ。自分たちがよくわからん存在に支配されると思ったら、誰だってなんとか抵抗しようとする」

「その代わりに最後は《クロージアン》に支配されるかもしれないっていうなら、私は《オーグ》と《繋がる》方を選ぶよ」


 唇の端を力なく吊り上げて、ファナはどうやら笑っているつもりらしかった。


「ユタはなんて言ってるんだ。まさか諸手を挙げて賛成してるわけじゃねえだろう」

「思い直せ、引き返せばっかりだから、もうずっと“閉じっ”放し」


 ファナとユタの間でのみ通じる特殊な精神感応力は、言語化による意思の疎通を果たすにはお互いの思念が向き合わないといけないのだという。ファナは既に長いこと、弟の思念と向き合っていないようだった。


「ユタに理解してもらうのは、もう諦めた」


 それはかつて一心同体だったはずの弟に対して、ファナが初めて口にした言葉だろう。


「仕方ないよ。だって《繋がら》ないままこうして《オーグ》と話しているのって、私だけなんでしょう? 今の私の気持ちをわかってくれって、いくらユタでも無理だよ」


 虚ろな目つきのまま唇だけを動かして吐き出される言葉には、諦観を通り越して無常観すら溢れ出すかのように聞こえる。


「そうだな。《オーグ》とこうしてサシで話す人間は、お前が初めてだ」


 瞼を伏せたまま、ラセンは彼女の言葉を認めた。


「先天性N2B細胞欠損症なら、サカにも正統バララトにもエルトランザにもいた。N2B細胞を持たないヒトを見るのは随分と久しぶりだったから面食らったが、対処法はもう用意してある」

「……それって、ルスランとかウールディみたいな?」

「N2B細胞とは関係なく、ヒトの身体からだには元から精神感応力を司る感覚器官がある。ただ使う必要がないから眠っているだけだ。そこに直接働きかければ、ルスランみたいな奴も《オーグ》に《繋がる》ことは出来る」


 先天性N2B細胞欠損症は、仮に外部からN2B細胞を注入しても一時的な対処にしかならない。彼らは体内でN2B細胞を維持増殖させることが、そもそも出来ない。だから外部から補充したN2B細胞は、やがて体内で死滅してしまう。ドリー・ジェスターが発明したAltN2Bオルタネイトが画期的だったのは、N2B細胞そのものを再現させるのではなく、既存の体細胞に働きかけてN2B細胞が持つ体調管理機能を代替させるという点であった。


 一方でヒトは生来、精神感応力を発揮する機能を潜在的に備えている。だが言語によるコミュニケーションを発達させていったヒトにとって、その能力は徐々に発揮される機会を失っていった。ただその機能の名残は依然としてヒトの体内に存在し続け、稀に目を覚まし、能力を発揮する場合もある。


 ウールディはその代表的な例だ。


「休眠状態の感覚器官なら、《オーグ》が与える初めての刺激に合わせた形で覚醒し、そのまま問題なく《繋がる》だろう。ルスランなんかは、まさにそうだ」


 しかしウールディの場合は既に感覚器官が覚醒済みであり、彼女独自の天然の精神感応力を成長させてしまっている。彼女のような天然の精神感応力者については未知数の要素が多すぎて、現時点では《オーグ》にも予測がつかない。


「なんでよ。ウールディだけ仲間はずれにすることないでしょう」

「《オーグ》を構成するヒトは、受精卵の段階で遺伝子をチェックされる。そこで先天性N2B細胞欠損とわかったら、その受精卵はすぐ廃棄されちまう。だから先天性N2B細胞欠損症のまま成人したヒトも、ましてや天然の精神感応力まで兼ねたヒトなんて、《オーグ》でも未知の領域なんだ」


 ラセンの滔々とした説明を聞いても、ファナは唇を動かすことすら気怠そうに、無表情のままだった。


「ウールディの精神感応力がどんな形で発達していったかは、あいつを直接診てみないことには何も言えん。《オーグ》の発する刺激があいつの精神に響くのか、それともお前たちみたいに干渉を受けつけないのか」


 そう言うとラセンはそれまで床のカーペットに注いでいた視線を、おもむろに持ち上げた。


「お前たちの場合はもっと特殊だ。天然の精神感応力とN2B細胞が並存して、それぞれが力を発揮しているだけじゃない。N2B細胞は精神感応力の強化と、外部からの干渉を防ぐ形に特化している。お陰でこうして《繋がる》ことも出来ず、未だに言葉でやり取りしなきゃならん」


 ラセン、いや《オーグ》にとっては極めて驚くべき事態なのだが、ファナは依然として反応に乏しい。ただ唇だけを機械的に動かして、返事らしきものを口にする。


「《スタージアン》も似たようなこと言ってたけど、そんなこと言われても私にはわかんないよ」

「おそらくお前とユタのようなケースは、銀河系中を探しても唯一だろう。ウールディもレアケースだが、あいつの場合はまだ確率的には十分可能性がある。お前たちほどの特殊な能力が産まれるには、外部の力が作用したと考える方が納得がいく」


 背凭れに預けていた上体を起こし両膝の間で手を組みながら、ラセンは前髪を透かした向こうの大きな黒い目で、ファナの生気の抜けた顔に視線を向けた。


「お前たちの出生には、なんらか人為的な作為が働いている」


 何を言っているのか、意味がわからない。瞳だけを彼の顔に向けて、ファナの視線は無言でそう問い返している。


 ラセンは彼女の顔を見据えたまま、低い、だがはっきりとした口調で、同じ内容を言い換えてみせた。


「お前とユタは、誰かが意図的に――おそらくは精神感応力の強化を図って産み出された、遺伝子操作された子供デザイナーベビーだ」

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