第四話 クロージアン(1)【第二部最終話】

 セランネ湾を囲むように突き出たふたつの岬の内、南側の岬の付け根に当たる部分には、ささやかな平地が開けている。中心街区であるセランネ区から見て東方に位置することから、単純に東セランネ区と名づけられたこの一帯で暮らすのは、テネヴェの入植当初から水産業を生業とする住人のほかに、湾を望むことの出来る高台に構えられた屋敷を所有する人々がいる。屋敷の大半は別荘として利用されているが、定住する人々もいなくはない。特にセランネ湾の一画に連邦区が設けられてからは、通勤の便が良いこともあって東セランネ区に住宅を構える銀河連邦関係者が増えつつあった。

 ローザン・ピントンも、この東セランネ区の高台に散在する邸宅のひとつを住まいとした。彼の邸宅からは遠目ながらも連邦区にひしめく銀河連邦関係の建物群を望むことが可能で、「ピントン事務局長は自宅に居るときも連邦を監視している」というもっぱらの噂だ。


「あながち噂と言い切れないところが、この人の怖いところなんですよ」


 ティーカップを乗せた盆を手にしながら、ピントン夫人がそう言って顔をしかめた。ティーカップに注がれた紅茶は、夫人が現像機プリンターに頼らずに自ら淹れたお手製だ。


「帰宅してからもいつも窓越しにこう、連邦区を見下ろしていることが多くてですね。家に着いたら仕事のことは忘れなさい、と口酸っぱく言っているっていうのに、この人は本当に昔から変わらないんです」


 小柄で肉付きの良い夫に劣らず、ピントン夫人もまた小柄でふくよかな容貌の中年女性だった。ふたりで並ぶと夫婦というより兄妹のようだ。夫同様に人の好い笑顔が似合いそうな顔立ちで苦情を零されても、微笑ましく思えるのは人柄だろう。


「いい加減にしなさい。そんなことを言われても、ベンバ様が困るだろう」


 ピントンに窘められて、夫人が頬をぷうっと膨らませる。テーブルに並べられたティーカップのひとつを手にしながら、ロカは夫人の言葉に相槌を打った。


「いえ、奥様の仰ることはよくわかります。事務局長と言えば連邦でも精勤の権化として有名ですから。少しは手を緩めてくれないと、下の者も気が抜けないと、よく局員たちが嘆いていますよ」

「ベンバ様まで。これでは私の立つ瀬がありませんな」


 大きな額をぴしゃりと叩きながら、ピントンはそう言って肩を竦めた。


 ロカは今日、ピントン家の客人として邸宅に招かれているところであった。この屋敷をピントンに提供したのは彼の主人アントネエフだが、物件を用意したのはロカと聞いて、ピントン夫人が是非礼をしたいと招待してくれたのである。だがピントン自身が多忙なためになかなか日程を合わせることができず、ようやく夫人の招待に応じることが出来たのは、ピントン夫妻がこの屋敷で暮らして一年以上経ってからのことであった。


「テネヴェに移り住むと聞いて、最初はどうなることかと正直心配でしたが、住めば都ですわね。ここは新鮮な海産物も豊富だし、なんと言ってもテネヴェ産の小麦で現像プリントしたパンに慣れてしまうと、もうスレヴィアには戻れません」

「そこまで喜んで頂けると光栄ですな。テネヴェは農産物が豊かな星なので、ほかにも色々と美味しい料理がありますよ。今度、家庭用の現像機プリンターでも扱える、特製のレシピ集をお持ちしましょう」

「まあ、本当ですか? それは楽しみですわ」


 上機嫌になった夫人を見て、ピントンが小さく苦笑する。外見は夫にそっくりだが、中身は明らかに家庭的な夫人が、テネヴェに永住するには相当の決心が必要だったろう。そんな不安を努めて振り払おうと振る舞う彼女を見て、ロカは内心複雑な想いだった。


 セランネ湾を眺め下ろすピントン家の居間で、三人はしばらく談笑に興じていた。お喋りの主役は夫人が務めることが多く、時折りピントンが窘めて、ロカがささやかに混ぜっ返す。ロカは久方ぶりに心から会話を楽しんでいたが、それも夫人の顔に苦悶の表情が浮かぶまでのことであった。

 ピントンは慌てずに夫人の身体からだを抱えて、寄り添うように寝室まで連れていく。やがて彼がひとりで戻ってくるまでの間、しばしの時間を要した。


「お見苦しいところをお見せしました。妻は少々、身体からだが弱くてですね。ここ数日は体調が良かったものですから、安心していたのですが」


 昨日今日の事態ではないのだろう。そう語るピントンの表情は落ち着いたものだった。


「それはいけない。私などがお邪魔などして、お身体からだに障ったのでなければ良いですが」

「どうぞお気になさらないで下さい。ベンバ様をお招きしたいと申したのは妻ですから。ようやくお会い出来て、少々はしゃぎ過ぎただけです。一晩休めば明日には体調も戻るでしょう」


 思わず腰を上げかけたロカに対して、ピントンは両手を上げて再び腰掛けるように促す。


「スレヴィアに居た頃は、アントネエフ家の主治医も側にいて診てもらえていたのですが、こちらではかかりつけの医者がいても、すぐに来てもらうというわけにもいきません」

「医療ロボットは手配されていないのですか?」

「いえ、もちろんございます。ただ妻自身がロボット治療に慣れておりませんで。そこだけが難儀しております」


 そう言うとピントンは、テーブルの上のティーカップに手を伸ばした。つられるようにしてロカもティーカップに口をつける。夫人が手ずから淹れてくれた二杯目の紅茶は、既にすっかり冷め切っていたが、草の香りを思わせる風味はまだ残っていた。


「この紅茶の茶葉は、妻がわざわざスレヴィアから取り寄せたのですよ」


 カップから口を離したロカに告げるピントンの口調は、どこか誇らしげだった。


「テネヴェの食べ物はどれも美味しそうに食べてくれるのですが、茶葉だけはやはり昔から馴染んだものが一番らしくてですね。嗜好品ということで、なかなか関税撤廃対象に含めてもらえないのが残念ですが」

「事務局長なら通商局にねじ込むことなど、造作もないでしょうに」


 ロカの思ってもいない軽口に、ピントンが声を立てずに笑う。ロカとしてはそれ以上のことは言えなかった。夫人の体調を慮るなら、馴染みの茶葉が手放せないのなら、スレヴィアに戻れば良いに決まっている。だが彼にはそれが出来ないのだということを、ロカは既に察していた。囚われの身になぞらえることも出来るかもしれない、ピントンの胸中によぎるのは果たしてどのような想いなのだろう。


「いけませんな。相手の考えが全てわかってしまうというのも、善し悪しです」


 そう言ってピントンが小さくため息をつく。ロカはテーブルに戻しかけていたティーカップを、思わず取り落としそうになるところだった。そして目の前の福々しい顔立ちの男の顔を見ると、そこにあったのは心底申し訳なさそうな表情であった。


「ベンバ様には余計なお気遣いばかりさせてしまいましたこと、お詫び申し上げます。これまでのいきさつもあって、なかなかあなたとふたりでお話しするという機会がなかったので、今までお伝えすることが出来ませんでした」


 丸々とした指を突き出た腹の上で組みつつ、そしてピントンはさりげない口調で告げる。


「あなたのお考えの通りです。私はレンテンベリ議員とシュレス女史、それぞれと《繋がって》います」


 ロカは全身の筋肉を強張らせたまま、ただピントンの顔を見返すことしか出来ない。


「彼女たちの口からお伝えしても良かったのですが、私からこうして伝える方が確実に信じてもらえると思い、これまで引き延ばしになってしまいました」

「……いつから、彼女たちと《繋がった》のはいつ頃からのことですか?」


 そんなことを訊いても詮無いことだということはわかっていたが、ほかに口にする言葉がロカには思いつかなかった。


「そうですね。確かバジミール様の常任委員長就任の直後でしょうか」


 ピントンは丸い指をこねくり回しながら、淡々とした口調で答える。


「初めてお会いしたときからレンテンベリ議員は危険な存在と認めていたつもりなのですが、まさかこんな目に遭わされるとは、さすがに想像を超えていました」


 そう言ってピントンは、彼らしからぬやり切れない表情を浮かべた。


「バジミール様とはいずれお別れしなければならず、病弱な妻を無理矢理に呼び寄せる羽目となった。何より故郷の地を踏むことは、もはや叶わない。あんまりな仕打ちだとは思いませんか?」


 いささか芝居がかった口調で悲嘆してみせるピントンの恨み言はどこまでが本気なのか、ロカには推し量ることが出来なかった。仮に全て本気なのだとしても、それは全く不思議ではない。もしロカが同じ立場に立たされたとしたら、絶望のあまり身を投げたくもなるだろう。


「本当にベンバ様という人の性根は、優しく出来てらっしゃる」


 ロカの胸中を見透かしたのだろう、ピントンは穏やかな笑顔を浮かべてそう言った。


「残念ながら、私には自殺という手段も選べないのです。彼女たちがそれを許すはずがありませんから。《繋がった》者が自ら命を絶つということは、様々な意味で有り得ない。でもまあ、ご安心下さい。先ほどの泣き言が嘘だとは申しませんが、今は彼女たちと随分と混じってしまったのか、私もこの状況を受け入れております」

「……そんなことを告白されて、私にいったいどうしろというのですか」


 膝の上で拳を握り締めながら、ロカはピントンにそう尋ねるしかなかった。イェッタたちに囚われることとなったピントンへの同情は尽きないが、同時に彼は今や彼女たちと《繋がる》、一心同体の存在へと変質しているはずだ。彼のことをローザン・ピントンという個人として捉えるべきなのか、それともイェッタやタンドラと同一に見做すべきなのか、ロカは混乱に陥っていた。


「何も。今まで通りにあなたがあなたらしく振る舞うことを、“我々”は望んでいます」


 そう語るピントンがロカを見返す目には、何かを無念がるような、諦めに似た表情が浮かんでいた。


「本当は我々も、真実を明かすつもりはありませんでした。ですがあなたの心に、ローザン・ピントンもまた《繋がった》のではないかという疑念が生まれてしまった。疑念を疑念のまま放置しておくことは、今後我々がベンバ様と付き合っていく上で大きなリスクになります」


 そこに合理的な理由が存在するということを聞かされて、ロカの胸中に一瞬怒りとも失望ともつかない感情が芽生えかける。だがそれも、ピントンが発した次の言葉によってすぐ掻き消されてしまった。


「何よりレンテンベリ議員は、これ以上真実を伏せておくことに耐えられなかった。今日の私の告白は、あなたに対して誠実でありたいという、彼女なりの意思の表れだと思って下さい」


 イェッタなりの誠実さ。その言葉をピントンの口から聞かされるという状況が未だ呑み込みきれず、ロカの内心は落ち着くというには程遠い。

 ディーゴを失って以来、イェッタとタンドラが新たに《繋がる》という手段を初めて選択して、ロカは激しく動揺していた。彼女たちはもうこれ以上は《繋がる》こともないだろうと、なぜか勝手に思い込んでいたのだ。だがそれはあくまで彼の思い込みに過ぎず、イェッタもタンドラもその手段を封じると口にしたことは、一度もなかった。


 それにしても、どうして今になってそんな手段を取ることを決めたのか。悩むまでもない。その理由はロカにも容易に想像がついた。


「その通りです。ここから先は、彼女の口から直に聞いてあげて下さい」


 またしてもロカの思考に答える形で、ピントンがわずかに身を乗り出しながら告げる。


「タンドラ・シュレスの寿命は、間もなく尽きようとしています」


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