9-2 未来をその手の中に


 言葉にされたそれを、リンドはすぐに理解することができなかった。

 イアルゥが昔話を読み聞かせるようなゆっくりとした口調で、言葉を繋ぐ。


「ずうっと昔のことです。人間フェルヴァー魔族ジェマの間で大きな戦争がありました。戦いは長く続き、たくさんの人が死に、それでも終わることはありませんでした。魔族ジェマの王様はただただ殺戮を求め、魔法の苦手な人間フェルヴァーたちは彼の魔法に太刀打ちできなかったからです。だけれど、強力すぎる魔法はやがて暴走し、精霊たちを狂わせ世界に大変災を引き起こして、彼の国を焼き尽くしました」


 黙って母の語りを聞いていた黒曜が、静かに続けた。


「リンド。……多くのいのちを無慈悲に喰らい、世界を滅ぼしかけた魔族ジェマの王。それが、かの白き賢者・カミル=シャドールですのよ」


 重く落ちる静寂の中、リンドは動けず立ち竦む。ほんの少し身じろぎしただけでも、この空気は壊れてしまいそうだと思った。

 黒曜は表情を変えず、息だけ小さく吸い込んで続ける。


「絶対的な保護なんてものが、この世にあるはずありませんわ。死のさだめを回避する方法なんて、あってはいけませんもの。それができるとしたら––––それは呪い、ですわね」

「のろい、ですか?」


 おうむ返したリンドに、黒曜は優しく微笑みを向けた。


「カミル様はとても頭の良い方ですのよ。魔法の理を読み解き、自己流の魔術式を完成させ、すべての精霊たちを使役するすべと永遠の命を得た方ですわ。けれどそのゆえに転生の理から疎外されてますのよ。彼は、世界の根源を形成する精霊たちからすれば忌まわしい、呪われた存在ですの」


 リンドは魔法についてさほど多くの知識はない。それでも、自分の生命活動や森羅万象、魔法などのすべてが精霊によって成り立っていることは知っている。

 その精霊たちに嫌われているというのは、世界から忌み嫌われていると同義だ。


 ––––人から嫌われるだけでも胸が痛むのに、世界全部から嫌われているという自覚はどれだけ辛いのだろう……?


 だがリンドが知っている限り、カミルは終始自信に満ちた笑みを崩すことはないし、ここを訪れるときはいつも楽しそうだ。悲壮感などどこにも感じられない。

 聞いたばかりの真相と見知っている事実の間に生じたあまりに大きな齟齬そごに、リンドが混乱しているのを見透かしているのだろう。

 黒曜はわずかに困ったような表情で微笑む。


「私も兄様もまだあなたには、こんなこと教えるつもりはなかったですのよ。でもリンド、あなたはとても素直でまっすぐで人を信じすぎるのですもの。いいこと、わたくしたちの守護者・カミル様も、ライヴァンのレジオーラ卿も、……信じてはいけませんわよ」

「……え? レジオーラ卿ってルベルの父さまですか?」


 彼女の台詞に登場した名はさらに意外で、リンドだけでなくオスヴァルトやアルトゥールも驚いたように黒曜を見返す。

 彼女は黙って頷くと、くすりと笑んでリンドを見た。


「ええ。互いとも国の中枢に深く関わる者同士、向こうが知っていることをあなたが知らない……ではいろいろと弊害がありますわ。灰竜様もあれで引き下がるとは思えませんし、お二方あるいは片方にでも、あなたが利用されては困りますもの」


 その微笑はいつもの雰囲気に戻っていて、リンドはようやく身体から緊張が抜けていく気がした。黒曜に促され、素直に応じてソファに座り直す。

 アルトゥールが怪訝そうな表情で尋ねた。


「姫様、レジオーラ卿とはどういったご関係で?」

「実はわたくし、若かりし頃に卿と想いを通わせた仲ですの」


 がばりと、父と兄が同時に立ち上がる。

 反応の遅れたリンドの視界には、平静を保ったままお茶を飲んでいる姉の姿。


「冗談ですわよ、そんな怖い顔なさらないでくださいませね?」

「……姫様ッ」


 てのひらで眉間を押さえてがっくり座り込むアルトゥールに屈託ない微笑みを返し、黒曜は茫然と固まっている長兄へ視線を向けた。


「わたくし、実は、レジオーラ卿に一度会ったことがありますの」


 オスヴァルトは口を開きかけ、思い直して妹を見返し、嘘ではないと確信したのか––––再度口を開いた。


「……一体、いつの話だ?」

「もう、八年前になりますわ。少し込み入った話ですけれど、リンド、この話は彼らには言わないでくださいませね。もちろん、どこにも他言しないでくださいませ」


 リンドがこくりと頷き、アルトゥールも気を取り直すかのように姿勢を正す。

 ルベルもセロアも、ライヴァン帝国の王室と深い関わりを持つ者たちだ。友好関係があるとはいえ、元々人間フェルヴァー魔族ジェマの間には深い確執がある。

 彼らのことを信用していないわけではないにしろ、黒曜は万が一のことを考え、リンドに裏の事情を話して構えさせるつもりなのだろう。

 彼女の意図はともかく、その内容に強く興味を引かれたのは確かだ。

 口をつぐんで話を待つ家族を見渡し、黒曜はゆっくりと言葉を続けた。


「まだ炎帝が統治なさってた時代のライヴァンは非常に野心的な国家でしたわ。国境の隣接しているこの国にいつ侵攻して来るつもりだろうと、当時は常々話しておりましたもの。無論のこと関係は非友好––––むしろ敵対的なほどで、あと数年炎帝の統治が続いていたなら戦争が起きていただろうと思いますわ」


 白き賢者がティスティルの守護者である以上、いくら軍力に優れた人間フェルヴァーの帝国であったとしても、ライヴァンに勝ち目はない。

 それは明白であるとは言え、いざ戦争が起きれば過去の災禍が繰り返される可能性もあっただろう。


「一触即発の緊張状態の最中でしたわね、––––炎帝が、ご逝去されたと知ったのは」


 炎帝の急死によって息子である現国王フェトゥースが王位を継承したのが、八年前の出来事だ。

 彼は国内の統治に手一杯で外交関係を取り直す余裕がなく、攻め滅ぼすには絶好の機会だったが––––、ティスティルはその時期、静観をすることに決めた。

 向けられた牙を折ることに躊躇いはないが、黒曜もオスヴァルトも決して戦乱を望んでいるわけではない。かと言って、立て直しを積極的に支援する義理も利益もなかった。

 ゆえに王権交代から三年ほど両国間に国交はなく、会談すら行われなかった。


 今から五年ほど前、政敵として監獄島へ送られていた前王統の公爵を現国王フェトゥースが呼び戻し、彼は寛容にも自らかって出て現政権とティスティル王家との間を取り持ち、友好関係を回復させた。

 だからこそ今、両帝国は穏やかな友好関係を保っていられるのだ。


「ですけれど炎帝の死後に静観を決定したのには、理由がありましたの」


 紫水晶の双眸をうつむけ、女王は重大な告白をするような密やかな声で、その先を続ける。


「戴冠式の後日、レジオーラ卿が非公式に訪ねてらしゃいまして。フェトゥース国王の政権中は決して戦争を起こさぬから見逃してほしい、と頼まれましたの」

「……なぜ、独りで会ったりしたんだ。何かあったらどうするか」


 オスヴァルトが険しい目で黒曜を見た。彼女はふんわり笑って、長兄に向き直る。


「オルト兄様、わたくし……レジオーラ卿に会って、ディア兄様を思いましたのよ」


 黒曜は優しく切なげに、その名を囁いた。長兄は一瞬痛みによるかのように表情を歪め、黙って視線を落とす。

 それはオスヴァルトにとっては弟、黒曜つまりナイトスティンにとっては兄に当たる、もう一人の家族の名だった。


「この方はきっと、役目を果たしたらディア兄様のようにいなくなってしまうのだと、直感のように確信しましたわ。わたくしはカミル様と違って、深い事情など何も知りはしませんけれど––––、抱え込んだ闇の深さがとてもよく似ておりましたの。心の在処ありかが遠すぎて遠すぎて、きっと誰の手をもすり抜けていってしまうのだろうと、そう思いましたわ」


 ディア––––ラディアスというのが次男の名前だ。

 二人の兄がいながら黒曜が王位を継承したいきさつには、かの白き賢者との関係が深く関わっている。


 カミルがこの国を守護するという契約は、元々は建国王サイヴァとの間で交わされ、一代限りで終了するものだった。

 というのも、カミルはサイヴァの娘イアルゥを嫌い、長男が誕生してもしばらくは一切関わりを持とうとしなかったからだ。真面目で不器用な性格のオスヴァルトにとってはむしろ、幸運だったのかもしれないが。

 そんな状況が大きく変化したのは、次男が誕生してからだった。


 ラディアスは精霊との相性が良く、魔法を知識として学ぶ前からカミルの持つ異常性に気づいていた。

 成長するにつれ伝え聞く過去の歴史は彼の中に守護者への不信感と憤りを育てていったが、カミル自身はラディアスをひどく気に入っていたらしい。

 幾度かの衝突を経て。

 次期王位継承者を選出するに当たり、カミルは、長兄ではなくラディアスが王位を継ぐなら守護の契約を継続すると言った。

 それは守護者を激しく憎んでいた彼にとっては、悪意以外に受け取りようがなかっただろう。


 そんな折だった、末妹であるナイトスティンが王位を継ぐと申し出たのは。

 サイヴァもイアルゥも、オスヴァルトも反対したが、彼女の意志は固くカミル自身の了承を得られたこともあって、結局は今の状況に至ったのだった。


 ラディアスとナイトスティンは、年の近い兄妹だ。

 幼い頃から一番近くにおり優しかった兄を、黒曜はとても慕っていた。それだけに、彼が国を出奔し年に一度帰るか帰らないかの現状に、黒曜がひどく傷ついているのを皆知っている。

 かと言って、弱音を吐かない彼女にどうしてやることもできないのが、実情だ。

 そんな次兄を、彼女はルベルの父親に重ねたのだという。


「わたくしは自己本位ですわね。……あの子のためでなく、この国のためでもなく、ただ自分自身のために––––あの子がレジオーラ卿を連れ戻せるか、試したいと考えているのですもの」


 黒曜はそう言って小さく笑った。


「もしもあの子がレジオーラ卿を連れ戻すことができるのなら、わたくしは、兄のために何が出来るのかを……知れる気がしてなりませんの」

「姫さま……」


 リンドはその蒼い両眼に涙をいっぱいに湛えて、黒曜を見つめる。


「それなら私は姫さまのためにも、必ずやレジオーラ卿を連れ戻してみせますっ」


 大方の予想通りなリンドの反応に、黒曜はくすぐったそうにくすくす笑って、大きな双眸でまっすぐ彼女を見つめた。愛おしそうに、両眼を細める。


「気負うことはありませんわ、リンド。あなたがあなたらしく自由に生きてくれること、それが私にとっては何よりの幸いですもの」


 王家に生まれた者にとってそれが、いかに遠い望みなのかを。黒曜はよく知っていたし、彼女の家族もまた、知っている。

 叶わぬものをリンドに負わせたいのではない。

 だけれど、大切だから守りたいという想いが見えない鎖となり彼女の未来を縛るのなら、それではあの白き賢者と変わらない。


「自由とは、どのように生きるかを自分の意思で選べることですのよ。命はいつか失われてしまう……それは絶対的な世界の理ですわ。穏やかに眠れる場合もあれば、残酷な運命の果てだとしても、決して避けられぬもの。だからこそ許されるならば、生きる自由を大切にして欲しいと願ってますのよ」

「––––はい!」


 まっすぐな蒼い双眸は微塵も揺らがない決意を映して強くきらめいている。

 その翳りのなさは、まだらないゆえだと黒曜は知っている。


 行って来なさい、––––その言葉は、運命も未来も彼女自身の手に返すということだ。

 そうやって手を離してしまった後に家族ができることといえば、せいぜい、祈ることくらいだというこのせつなさを。


 いつか知る時が来るのだろうか。この、喪失感に似た胸の痛みを。

 それはリンドの選んだこの旅の行く先次第かもしれないと。根拠はなかったけれど黒曜は、思ったのだった。


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