第47話〈鳥の王国〉

こちらの世界に来てからハルキはたいていの事では驚かなくなった。現世の常識と違うのが当たり前と早くに気付いたからなのか、そもそも驚いている暇がなかったからなのか、今となっては分からない。


しかし、目の前で起こっている現象を見て、冷静でいられる人間は少ないだろう。

海が、いくつも浮いている。

ひとつひとつの体積は小さな山ほどはあるだろうか、丸い球体の海は、その内部にたくさんの生命を抱えて、ゆっくりと空に昇ってゆく。かなり遠くの空まで水玉模様になっており、その数は百や二百ではきかない。


「海の産卵。……わたしも、見るのは二回目」


「……すごいね、この景色。どうなってるんだろ」


波の立つ荒々しい海面から、いくつもの海玉が離れていく。まるで水面に落ちる雨粒の映像を、逆再生しているかのようだった。ただスケールが桁違いで、見ているとあまりの迫力に胸が高まる。


「三つの月の微妙な重力バランスで、この時期にだけ起こるんだって……生まれた小さな海たちは……上空まで上がると表面が凍るんだって。……それで、宇宙に飛び出して、他の星まで行く……と言われてるの。……そこに新たな海を創る……って聞いた……」


 隣に座るアイレンがたどたどしい口調で説明してくれた。冷たい海風をもろに受けて、頬と鼻の頭が真っ赤になっている。


三つの月を背景に見るその景色は、この世のものとは思えなかった。


「そろそろ行くよ」


オリビアが呼びに来た。

ミュンヘル王国東側にそびえるエゴラ山脈、その山肌に伸びる巡礼の道に、ハルキたちはいた。僧や巡礼者に混じり、〈王女の左手〉とハルキたち訓練兵が、純白のコートを冷たい風にたなびかせながら登ってゆく。

アイレンは母の権限で特別に帯同が許されていた。


ハルキはコートの上から、虹色の角を剣のように背負っていた。柄の部分は布を巻き、鞘はツェワンから献上した上等なものだ。立派な止め帯はオリビアが付けてくれた。


リーチェの一件で他の子供たちは怖がって近寄ってこない。トウゴだけはハルキに対して、常に妬ましい顔を向けてくる。ハルキはそれを極力見ないようにした。


金の刺繍糸で編んだ旗がたくさん風に泳いでいる。グルニエ教のシンボルだ。太古の昔よりこの山脈には、肌の赤い民族が住み着いていた。現在はミュンヘル王国に統合されているが、昔は〈鳥の王国〉と呼ばれた独立国だったらしい。


彼らは寡黙で信心深く、以前は他の者との交流を好まなかったが、統合した今では自分たちの教えを広めるために、こうして山道や各寺院を一般開放している。総本山の巨大な寺院は山頂にあり、それはミュンヘルの王城よりも荘厳だという。


そんなようなことをオリビアに聴かされながら、気付けば一行は霧の中に入っていた。霧はかなり濃く、一m先までしか見えない。

ハルキはオリビアの後ろにつき、アイレンと一緒に荷物の紐を握るように言われた。道の両脇に柵はなく、誤って落ちてしまうのを防ぐためだ。しかし、道は広いし通行人も多いので、ハルキの不安は少なかった。


霧の中を野生の岩ヤギが何頭か横切った。そのうちの一匹の全身には蔦が絡まり、青い花が咲いて、背中から小さな若木が生えていた。そいつは歩き方が不自然で、弱々しかった。


「伏せろ!」


 前の方から声が聞こえた。皆一斉に従い、身を低くする。ハルキもアイレンと並んでその場にしゃがんだ。下っていた巡礼者たちもその場で小さくなった。


ほどなくして、前方の霧の中から、イカのような形の巨大な精霊種が、道に沿って迫ってきた。ぼんやりと青白く光る数本の触手が、ゆっくりとうねりながらハルキたちの脇を通り過ぎた。


ふと横を見ると巡礼者の一人が倒れていることに気が付いた。けれど周りの人たちは慌てる素振りを見せるでもなく、倒れた人の手をお腹の上で組ませ、経を唱え始めた。


「精霊種に触れられたのね。彼らの教えでは、精霊種に召されることは至上の幸せらしいわ」


 オリビアにそう説明され、ハルキは眉をしかめた。


「……死ぬことが、幸せなの?」


「私もそこは疑問に思うわ。家族や大切な人のことを考えてないものね。……でも考えかたはたくさんあるから、自分の都合で判断してはだめよ。違いを認め合う心があれば、世界から争いは消えるはずだもの。現実にはそんなうまくいかないけれど……」


 話しているうちにいつの間にか霧が晴れていた。そして、緑も消えていた。どうやら植物が生存できない高さまで来たらしい。


道も徐々に険しく、狭くなってゆく。数日前の雪が至る所に残っていた。右手は断崖絶壁、左手は岩肌、足元は石と木材で作られた粗末な階段、幅は二人が並んでようやく通れる程度だ。ハルキは終始、お腹の下あたりがぞわぞわしっぱなしだった。


 二回の休憩を経て、一向は分かれ道に出た。一つはそのまま山頂へと続く道。もう一方は山肌に沿って続く平坦で広い道だ。そこには小さな寺院があり、周囲には宿や民家が五つほどあり、広場があった。


僧や教団の関係者が行き来している。皆一様にくちばし型のマスクや鳥を模した装飾品を身体中に着けていた。


ハルキたちは広い道の方へ進んだ。空気が薄いので休憩の頻度が多くなる。皆息が荒く、顔には疲労の色が伺えた。

しかし、ハルキは疲れも感じず、息も切れない。自分が皆とは違う存在だと改めて感じた。

トウゴとの決闘で負った肩の傷もあっという間に塞がり、傷痕もないくらいだ。少し離れた所で岩に腰掛けているトウゴをちらと見る。

トウゴの頬にはハルキの刀傷がまだはっきりと残っていた。

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