第36話国王様の命令でね

アサンズの脳は得体の知れないドロドロとしたものに呑みこまれ、完全に意識を失った。


「……先ほどの話ですが、私がアサンズ王子の立場なら、自分の意思を押し通します。言い訳など後でいくらでも出来る」


 エイルは邪悪な笑みを浮かべていた。


「そうだ、今探している、敵の内通者のせいにしてしまいなさい」


 アサンズは息こそしているが、もう自ら動くことはなく、目を見開いた人形と化していた。


「国境壁を抜けて進軍するのです。〈変革の子〉を連れて。さもなければミュンヘル王国は滅ぶでしょう」



 巨大な王宮の一階、東側に位置する給仕室から、白い湯気と美味しそうな夕飯の香りが漂っている。千人を超す食事を一気に作るので、厨房は戦場のような有様だ。食器や調理器具の鳴る音がひっきりなしに響き合い、その合間に威勢のいい大声が飛び交う。何十人もの料理人が駆け回り、次々と皿が出来上がる。


「エイル様? どうしたんですか、こんなところへ?」


 声をかけてきたのは焼き場の責任者、ヴォルだった。大きなお腹を揺らしながら丸い顔をきょとんとさせている。


「ああ、ヴォル。忙しい時間帯に悪いね」


「いやあ、あっしは大丈夫ですよ。後は若いもんにやらせるんで。なにか事件でも?」


「君が毒を盛らないか見に来たんだ」


 そう言うとヴォルは豪快に笑った。


「御冗談を」


 勝手口で話す二人に、数人が挨拶する。エイルは他の〈王の弓〉より話しやすいと城内で評判だ。それゆえに知り合いも多い。


「国王様の命令でね、王宮内のあらゆるところを確認して回っている。床や壁が傷んでないか、侵入の痕跡がないか、などをね」


「じゃあ、敵の内通者が城内にいるという噂は本当なんで?」


 興奮して声が大きくなったヴォルを宥め、エイルは小さく頷いた。


「そういうことだ」


 ヴォルは拳を手のひらに打ち付け「なんてふてえ野郎だ」と吐き捨てた。


「そういうことなら協力しますよ。もう後は盛り付けだけなんでね、どうぞ思う存分見ていってくだせえ」


 料理人たちのほとんどはただっ広い厨房の半分ほどに集まっており、長い作業台に一列に並んで盛り付けに入っていた。十以上ある水場は洗い物が溢れ、かまどではまだ小さな火が燻ぶっている。床は濡れていて、野菜の切れ端や動物の骨や羽が所々に落ちていた。


 エイルは人のいなくなった調理場の方へ入っていき、床や天井を見て回った。周りには誰もおらず、離れた盛り付け台からの喧騒を聴きながら、懐から瓶に入った黒い砂を取り出した。

エイルの足を止めた場所は調味料置き場だった。たくさんの壺や袋、箱に入った乾燥させた香草などが、棚に押し込まれている。

エイルは一番手前の壺に入った、茶色い液体に指を付け、一舐めした。


 (ふむ、このソイソースに似た味はたしか〈アジュ〉という名だったか……)


 傍らの壁に目をやると、数日先までの献立表が貼ってあった。ちょうどいい、と小声で呟いたエイルは明日の献立に目を止めた。

〈アジュ〉が明日使われることを確認したエイルは手に持っていた黒い砂を全て〈アジュ〉の壺の中に入れた。


 その少し前から羽兎族型の精霊が一体、厨房の天井を逆さに走ってエイルを追っていたことに、エイル含め誰一人として気付いた者はいなかった。

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