第33話まるで口笛でも吹き始めそうだ

「あ、お疲れ様です」


白衣を着た五十代の医師に笑顔で会釈し、エリとレイイチは澄ました顔で緑色の廊下を進んでいく。すれ違った医師も頷き返しただけで、疑う様子はない。


「なんだかいけそうね」


「ま、こんなもんでしょ、病院なんて。でも研究棟は用心しないとね」


 レイイチは医師の白衣に、首からはIDカード、手にはファイルに入った書類の束を持っている。エリも長い髪を後ろで一つにまとめ、ピンク色の看護服を身に纏っている。

十分ほど前、病院内で拉致した医師と看護師から失敬したものだ。不幸な二人は縛り上げられ、清掃用具室のロッカーに入れられている。


 深夜三時、廊下の窓からは街灯に照らされた大きな駐車場と幹線道路、住宅や小規模なビルが見える。その向こうには高層ビル群のネオンが小さく光っている。


「さて、ハルキ君は本当にここにいるのかね」


 レイイチは飄々としていて、まるで口笛でも吹き始めそうだ。


「確率が一番高いのがここなのよ。内通者でも確認できないってことは、政府内でも極秘扱いなのね」


 二人は目立たないように、決して急いだりせず、少し疲れた雰囲気を作りながら、採血室と薬品倉庫を通り過ぎた。そこから先は研究棟に繋がるセキュリティドアと、外に出る非常階段があるだけだ。


白衣を奪った医師から聞き出した暗証番号を、レイイチが素早くテンキーに打ち込む。すぐに電子音が鳴り、重厚なドアが開いた。

研究棟は病棟と違い、まだ新しく、白い床が光りを反射して輝いていた。見える範囲に人はいない。二人は臆せず奥へと進んでいく。


レイイチの脇に挟んであるファイルの隅に、小さな紙がクリップで留めてある。そこには事前に用意したこの建物の見取り図が描かれていた。レイイチはそれをさりげなく見ながら歩いていた。


研究棟内は広く、複雑に入り組んでいて、窓が一つもなかった。天井や壁は真っ白なパネルで覆われていて、傷一つない。


三つ目の角を曲がった時、「ちょっと、君たちどこの部署?」と後ろから声がかかった。振り向くと白衣を着た研究員が近づいてくる。白髪頭に目元は鋭い。管理職のようだった。二人の前に立ち、怪訝な表情で首を傾げた。


「間違えて入ってきたのか? この時間は――――」


 続く言葉はバチチッというスタンガンの音に遮られた。首筋からスタンガンを離したエリは「おやすみなさい」と言って舌を出した。


「そういえばさ、アオイちゃんの方はどうなの?」


 気絶させた研究員を近くの部屋へ引きずりながらも、レイイチの口調はまるで世間話をしているかのようだった。


「彼女、すごい集中力よ……いえ、根性って言った方がいいかも。ここ数日、ご飯食べるとき以外はずっと〈第二夢層〉にいるわ」


「ずっとリュウが見てるんでしょ? 上手くやってるのかな」


「うーん、どうだろ。ぼちぼちってとこじゃない? 出来るだけ私も手伝うようにしてるんだけどさ、あいつ不器用で雑だし。あと、やたら命令口調で、お前呼ばわりしてた」


 誰もいない機材倉庫に研究員を隠し、二人は相変わらずのペースで通路を進む。エリの言葉にレイイチは「ほほう」と笑みを浮かべた。


「リュウがお前って呼ぶときは気に入ってる証拠だよ。漫画に出てくるような照れ屋さんだからね、あいつ」


「えーそうなのっ! わたしもお前って呼ばれてるー」


 エリは頬に手を当て、身体をくねくねと揺らした。


「君の場合は違うと思うけどね。というか、ああいうのがタイプなの?」


「なわけないでしょーよ。外身はギリギリオッケーだけど、中身が気難しすぎる」


 急に真顔になったエリが肩をすくめる。


「だよね」


 二人は世間話を続けながら階段を下ってゆく。途中で『三班、所定の位置に到着』と仲間からの無線が届いた。


「石頭頑固じじいのくせして、子供みたいなところあるからね。彼と付き合う女性は心が広くないと無理だ」


 目的の階の入り口はまたもやセキュリティがあり、しかも二人の歩哨が立っていた。


「ありゃ自衛隊の秘匿部隊だね。この場所で当たりかも」


「あんたの知り合いだったりして」


 真っ黒な戦闘服姿の隊員二人は、冷静な顔をしつつ、静かな殺気を放っていた。胸の前には小型自動小銃を構えている。


「でも以外にアオイちゃん、いいかも。リュウと」


「ええ、十も年離れてんじゃん。ちょっとそれきつくない?」


二人ともエリとレイイチが近づいても、眉ひとつ動かさない能面ぶりだった。


「許可証をお見せ下さい」


 レイイチが「はいはい」と言いながら書類をまさぐり、その様子を四つの目が隙なく見つめる。

これは手強い、と思ったエリはそこで声を上げた。

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