1) 罪悪感をいだいても成長はしない

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 後悔とは、真の自分についての最高の考えを示すことができなかった、と言明することだ。罪悪感とは、そんなことをしてしまった自分にはもう価値がないと決めつけることだよ。


《神との友情上-P261》

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 罪悪感は畑を枯らす病気だ。罪悪感をいだいても成長はしない。ただ、しなびて死ぬだけだ。


 あなたが求めているのは、気づくことだ。気づくことと罪悪感はちがう。


《神との対話3-P19》

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 二度とくり返すまいと決意したら、過去は手放しなさい。


 すばらしい過去でさえ、しがみついていたのでは何にもならない。「昔の栄光に甘んじて」いたら、たちまち成長が止まるよ。


 栄光にも失敗にも、とどまらないことだ。再出発しなさい。「いま」という黄金の瞬間に、新たな自分になりなさい。


《神との友情上-P106》(一部略)

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 『神との対話』には、「後悔」と「罪悪感」について語られています。


 辞典『大辞林』によると、「後悔とは、後になって悔やむこと」、「罪悪感は悪いことをおかしたという気持ち」とあります。


 両者は一見すると、「悪いことをおかした」と思う点では、似ています。


 しかし「後悔」は、悔い改めてやり直そうという、自分の成長にプラスとなる気づきを与えてくれます。


 これに対して「罪悪感」は、悪いことをおかした自分はダメな人間だという、自分を否定するマイナス的な思いです。


 『神との対話』の中では、「後悔と罪悪感」について次のように書かれています。


 「後悔とは、真の自分についての最高の考えを示すことができなかった、と言明することだ。罪悪感とは、そんなことをしてしまった自分にはもう価値がないと決めつけることだ」


 「罪悪感は畑を枯らす病気だ。植物を殺してしまう毒だよ。罪悪感をいだいても成長はしない。ただ、しなびて死ぬだけだ。あなたが求めているのは、気づくことだ。気づくことと罪悪感はちがう」


 『神との対話』では、「罪悪感」を持つ必要は、全く無いといっています。自分はダメな人間だと卑下することは、自分の成長にとって全くプラスにならないことで、自分をダメにするだけだというのです。


 前話「善悪」でも書きましたように、「善悪」は人間が構築したもの(社会の倫理や法律も同じ)であって、「神が罰する」と既存の宗教が説くような、絶対的な「悪いこと」などはありません。


 神の目から見てあえて「悪いこと」といえば、自分の真実、ほんとうの自分を表現しない行いがあるだけなのです。


 さらに、人間は絶えず変化し成長しています。過去の自分は過去のものであって、今の自分ではありません。今の自分は、新たに成長しようとしている自分なのです。


 良いことでも悪いことでも、過去のことにしがみついていたら成長しません。


 忘れることはできないにしても、それにしがみつくことはせずに、手放しなさいというのです。そして、さらなる成長に向けて、新たな一歩を踏み出しなさいというのです。

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