1) わたしは正邪も善悪も決めたことはない
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わたしは正邪も善悪も決めたことはない。そんなことをしたら、あなたがたへの最高の贈り物がだいなしになる。したいことをして、その結果を体験するという機会をあなたがたから奪うことになる。
《神との対話1-P59》
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わたしはただ、事実を観察している。あなたがたが善悪のシステムをつくり出し、賛成したり反対したりするのを眺めているだけだ。
《神との対話3-P252》(一部略)
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『神との対話』では、「善悪」について語られています。
「善悪」は、物事の価値判断を表す言葉で、その基準は、個人、社会、民族、国家によって異なっています。
人間は、長い歴史の中で体得した経験をもとに、価値基準を構築してきました。中でも宗教は、その基準の構築に深くかかわっています。
キリスト教教義における「善悪」は、神とサタン(悪魔)、すなわち「善なる神」と「悪なるサタン」が対峙するという、二元論的な考え方からなっています。
人間始祖アダムとエバの堕落により原罪が発生し、現実世界に善と悪が生まれたとするのです。それが長い歴史の中で社会に浸透し、社会的倫理として定着していったのです。
これに対して『神との対話』では、アダムとエバの神話は、人間始祖の堕落を意味しているのではなく、人間が自らの自由意思で、物事の「善悪」を判断する人生を歩み始めたという、最初の祝福を意味しているといっています。
すなわち「善悪」は対峙するもの(二元論)ではなく、物事の有益性を相対的に表したもので、物事の目的にかなった有益な考えや行為は「善」となり、その反対は「悪」となるのです。
そしてその基準は、人間自身が築き上げていくものであり、時間とともに絶えず変化しているといっています。
神が「善悪」の基準を押し付けるものではありません。神は、ただ、人間が「何を善とし、何を悪とするか」を観察しているだけなのです。といっても、神は、人間を通して「自らの神性」を体験しているのですから、傍観者という意味合いとは異なります。
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