2) わたしにはあなたがたが理解できるかたちも姿もない

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 わたしには、あなたがたが理解できるかたちも姿もない。わたしは、どんなかたちや姿になることもできるが、(中略)わたしは偉大なる『見えざるもの』であって、ある瞬間のかたちや姿ではない。


 《神との対話1- P23》

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 著者ニールは、「なぜ神は誰も疑えない形で姿を現さないか」と、神に問います。神はそれに答えます。


 その対話が、次のように書かれています。


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ニール:どうしてあなたは姿を現さないのですか。あなたがほんとうに神なら、どうしてわたしたちみんなが理解できる方法で現れてくださらないのですか。


神:わたしは何度も、何度も現れている。いまもこうして現れている。


ニール:いや、そうじゃないんです。わたしが言いたいのは、疑いの余地のない現れ方、否定しようのない現れ方のことです。


-略-


神:それは不可能だ。わたしには、あなたがたが理解できるかたちも姿もない。わたしは、どんなかたちや姿になることもできるが、そうすれば誰もが、自分の見たかたちや姿が多くのなかのひとつにすぎないとは思わず、それこそが神の唯一の姿だと思いこむだろう。


人は「見えないもの」ではなく、見たものをわたしだと信じる。しかし、わたしは偉大なる「見えざるもの」であって、ある瞬間のかたちや姿ではない。


 《神との対話1- P22》

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 これは私たちがよく疑問に思うところで、それをニールも聞いています。


 神が雷鳴のとどろくような大声で、「私が神だ」と万人が分かるように姿を現してくれれば、だれでも納得するだろうと私自身も思います。


 しかし神が一定の形あるものならば、「存在の一部」すなわち有限であることになり、「存在のすべて」ではなくなります。


 「存在のすべて」である神は、存在の一部(どんなかたちや姿)になることはできますが、それをもって神の姿とはいえません。


 私たちが、形あるもの、五感に感ずるものを「存在する」と考えるのは、見方を変えれば、私たちが有限の被造物であることの証左ともいえるのです。

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