5-6 セックスは自然な生命の営みだ

A:キリスト教では、失楽園の話しを根拠に、セックスは邪悪な行為とみなしている。


 よむ子さんはこれをどう思う?


よむ子:聖書にそう書いてあるなら、クリスチャンは信じるしかないよね。


A:そうだね。信仰とはそういうものだからね。


よむ子:『神との対話』ではどういっているの?


A:キリスト教(カトリック)と『神との対話』のセックス観の違いを比べてみると、実におもしろいよ。


 さっき話したキリスト教の教えにそって、『神との対話』のセックス観を見てみるよ。


 その1 キリスト教では、失楽園の話しは人間の堕落としているが、『神との対話』では、「神の最初の祝福だ」といっている。


よむ子:堕落と祝福では大違いね。


A:『神との対話』では、人生の目的は何だといってたかな?


よむ子:人生の中で神性を体験していく。


A:そう。人生の中で神性を体験していくのが、人生の目的だったね。


 すると、魂の宿った最初の人間は、相対的な現実世界で、ゼロから神性の体験を始めることになるよね。


 「善悪を知る木の実を食べた」ということは、相対的世界で様々な体験を人間が始めたという、祝福すべき船出を意味しているというんだよ。


よむ子:善悪も相対的なものだから……。


A:そのとおり。


 「善悪を知る」とは、自由意志で、自分のしたい行為を選択し、神性を体験していくことを意味してるんだ。アダムとエバは、それを可能にしてくれたというのだよ。


よむ子:じゃあ、堕落はないってこと。


A:そう。キリスト教でいう堕落も原罪もない。だからセックスによって、子孫に原罪が伝わるということもない。


 『神との対話』での「セックス観」は、セックスは決して邪悪なものではなく、人間の遺伝子に組み込まれた自然な生命の営みだというものなんだ。


よむ子:キリスト教とは正反対なのね。


A:セックスは邪悪どころか、他の体験と何ら変わりのない、人間の生活体験の大切なひとつなんだよ。


 本質論的にいえば、「セックスを通して神性のどの部分を体験するか」が、大事なところなんだね。


〈つづく〉


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