閑話百景:臆病者とこわいもの③

 己の意見を表明することは、他者から脅かされるよりも恐ろしい。

 それはタマラが20年近い半生で培ってきた持論だ。ゆえにタマラは意見など持たないようにしてきた。何も決めず、何も選ばず。ただ一番恐ろしい想定を避けていくだけ。


 否。そもそも、意見や選択肢など持ちようがなかった。タマラがそんなものを抱くことを、世界は許してくれなかったから。


 タマラ・ヴィシンスキの父は、ポモルスカからの移民だ。


 母は軍国の人間。つまりタマラは軍国人とポモルスカ人のハーフということになる。

 父は戦前から軍国の工場へ出稼ぎに来ており、工場長のお嬢さんだった母と恋に落ちた。当然外国人労働者との結婚など許されないから、半ば駆け落ち同然で一緒になったのだという。だがそのタイミングで開戦し、父の故郷ポモルスカには戻れなくなった。


 頼れる者もなく慎ましやかに戦時下の軍国を生き抜き、しかしこの時はまだ良かったと二人は言う。タマラという娘が生まれたし、何より当時の軍国では、軍国民とポモルスカ人の関係はさほど悪くなかったのだ。

 ある程度の移民軽視はあった。だが「ポモルスカを敵国の軍事介入から守るため」が軍国側のポモルスカ内戦介入のお題目だったため、互いに一種の連帯感があったらしい。少なくとも致命的な亀裂ではなかったという。


 それが覆ったのは停戦という名の敗戦の後。

 ポモルスカ移民労働者の存在により多くの帰還兵が職にありつけず、またポモルスカからの難民流入が止まらなかったことによる。


 タマラが物心ついたころには軍国人とポモルスカ移民の対立は深刻化していた。そして≪雇用革命≫により、ポモルスカ移民は二級市民に位置づけられる。彼らが歩んだ苦難は察するに余りあるだろう。


 しかしタマラたち家族の苦しみは、それともまた様相を異にしていた。


 移民問題は軍国をふたつに分けた。すなわち軍国民は軍国民だけの、ポモルスカ移民はポモルスカ移民だけのコミュニティを築いてゆく。

 ならばその狭間に位置するタマラたちは。決まっている。どこにも受け入れられなかった。


 軍国民にもなれず、ポモルスカ移民にもなれず。

 母方の実家からは勘当を言い渡されていたし、ポモルスカに渡ることは論外だ。離婚でもすれば状況は変わったのかもしれないが、互いに支え合い生きてきた両親にその選択肢はなかった。


 一家はあちこちを渡り歩いた。軍国民からはポモルスカ人だと、ポモルスカ移民からは軍国人だと後ろ指を差されてきた。

 ハーフである娘のタマラは特にだ。軍国民の子供にもポモルスカ移民の子供にも、あらゆる言葉は嫌悪され、攻撃され、顧みられない。


 恐怖。怯え。理不尽。孤独。今のタマラを生み出した主な要素は、そんなものだ。


 やがてタマラは負の可能性を感知するようになった。日々の恐れが神経過敏を招き、それの結実した結果だった。


 やがてタマラは意見することをやめた。タマラが何かを言ったところで、怖いことしか起こり得ないのが分かってしまった。


 やがてタマラは絶えず謝るようになった。常に最悪の可能性に怯えていたし、謝罪だけ繰り返していれば皆タマラに興味をなくした。


 やがてタマラは軍人になった。国籍は軍国のものだったし、娼婦になるよりは怖くなさそうだった。


 他者を刺激することを避け、従順に、空気のように。ずっとそうやって生きてきた。それでいいと思っていた。だからタマラにとって彼女は不可解なのだ。


 グレーテル・アードラー。

 権威主義者で横暴で言葉の強い上官。


 なぜ彼女はタマラの答えを求め、タマラに構い続けるのだろう。


***


 グレーテルの農作業の見学と、近辺の散歩。ひとまずタマラが今日こなしたのはこのふたつだ。


 グレーテルたちも夕食時には仕事に一区切りつけていた。夏場は暗くなるのが遅いので、他の農家だと8時9時まで働くことも珍しくないというが、ここではあまり根を詰めてはいないらしい。

 老夫婦の体力の問題がひとつ。そしてグレーテルからの仕送りで生活にも余裕ができたというのがひとつ。この話になると、グレーテルは照れくさいような誇らしいような、珍しい笑みを見せていた。


 軽い夕食を囲み、グレーテルの部屋でじっと時を過ごし、夜闇が訪れたころ就寝の準備をする。

 グレーテルが声を発したのは、そうやって寝巻きに着替えてからだ。


「あんた、今日は何してたの?」


 腕を組んでベッドに座り、着替えている最中のタマラを睥睨する。

 思わず身を縮め、タマラはいつもの言葉とともにうつむいた。彼女にこれが通用するはずもないのに。


「ごっ、ごめんなさ……」

「謝ることあんの? 違うなら返事」


 ほら、こんな風に。 

 グレーテルは謝罪だけで放っておいてはくれない。その先を求めてくる。五感よりも経験則で予見できたこととはいえ、避けられるものなら避けたかった。


 正直に答えるべきだろうか。だが農作業についてはほぼ覗き見になっていた。それが発覚するのも怖くて、結果、当たり障りなさそうな答えをなんとか紡ぐ。


「……さ」

「さ?」

「さんぽ……を、すこし……」

「楽しかった?」

「ぇ……あ、う」


 楽しい。そんな観点では考えていなかった気がする。ただグレーテルはこれで満足してくれるのかということと、あとはそう、人の気配が少ないから街より気が楽だということくらい。

 鳥の鳴き声、木々の囁き、風の涼しさを浴びながら未舗装の道を歩くのは、少なからず心安らぐ時間ではあった。


 それを楽しいというのならそうなのだろうし、「楽しくなかった」と答えるのも不興を買う気がする。グレーテルにとってここは故郷だ。

 だからおそるおそる、顔色を伺いながら、彼女の問いに小さく頷く。


「そ。よかった」


 反応は極めて淡白だった。正解だったのか間違いだったのかも分からない。そのまま「じゃ、おやすみ」と背を向けて布団に入ってしまったから、もう表情も探れなくなる。


 タマラもなるべく邪魔にならないよう横たわって目を閉じた。グレーテルが寝静まったのが分かると緊張も切れ、心は眠りへ落ちていく。

 しかしタマラの眠りはいつも浅い。だからふいの違和感で、ふと意識が浮上する。


「……?」


 胸のざわつきに、視界を開いた。


 ぞわぞわと肌が粟立つ。気配。複数。ひっそりと周囲を徘徊している。

 芽を出した不安はやがて明確な危機感へと変わっていった。呼吸が震え、寝巻きも冷や汗でじっとりと濡れる。


 それでも恐慌に陥りそうな胸を制御できているのは、こちらに敵意や悪意が向いていないのも分かるからだ。不規則かつ軽い足音。かすかな唸りが聞こえたことで確信に変わる。


 獣、だろうか。

 少なくとも数匹はいた。人間に統率されている可能性もあったが、おそらくただの群れだろう。気配に不純物がない。


 窓は熟睡しているグレーテルのそばだ。だからタマラは外を伺うのを諦め、潰れそうな心臓を無視し、布団に身を丸めた。


 すべてを遮断する。獣たちが土を掘り出したのが分かっても、そこから近くの牧場の方へ向かったのを察しても、目と耳を閉じてやり過ごす。何も知りたくない。知っても選べるものなどない。

 ――タマラは、何にも関わりたくない。


***


 代償は、翌朝には訪れた。


「やられたなあ……」


 悔しげに歯噛みするのは、グレーテルの家の遠いお隣だという牧場の主だ。厩舎に眩しい朝日が射しこみ、食い荒らされた羊の死骸が照らしあげられていた。

 生臭い血肉の臭いが充満する。生き残りの羊たちが怯えた鳴き声をあげている。


 凄惨な光景にも臆せず、グレーテルは現場の状況を検分していた。死骸と怪我を負った羊の傷を調べ終えると振り向く。


「これ、一匹二匹とちゃうな。この辺にオオカミか野犬の群れでもおるん?」

「最近は聞かんかったんやけどなあ……五年くらい前に出たのは撃ち殺したって聞いたし」

「じゃあどっかから追い立てられて居ついたんかな。迷惑な話やで……」


 ふう、と黒いボブカットを揺らして嘆息。そこには明確な怒りが含まれていた。入り口から舎内を覗きこんでいたタマラはここで首を引っこめ、不安と罪悪感を押し殺す。


 こうなった経緯は単純だ。タマラがまんじりともしないうちに夜が明け、しばらくすると外がざわついてきた。

 ここでグレーテルも目を覚ます。手早く着替えながら「行くわよ」と促す目つきは、不穏なものを感じたのか、軍人のそれになっていた。

 そして外に出てみれば、ちょうど事態を知らせにきた隣家の夫人と鉢合わせ。そのまま現場に向かったという次第だった。


 騒ぎが広まってきたのだろう、だんだん厩舎の前に人が集まってきた。グレーテルの祖母はその端で事態をハラハラと見守っている。そして自らの夫もやってきたのを見ると、恰幅の良い体を揺らして駆け寄った。


「ああ、じいさん。どない、芋は……」

「……いくらか、やられとおな」


 言葉少なに首を振るグレーテルの祖父。彼らのジャガイモ畑にも少なからぬ被害が出たと、つまりそういうことだった。


「ったく、どえらいことやほんま……今年の収穫は安定する思たのに」

「とにかく近所一帯に注意喚起や。あとは猟友会が動けるよう軍に許可貰わんとやな」

「馬持っとる人にひとっ走り頼まんと……」

「それより獣医や。うちの家畜も怪我だけしとんのがいくらかおる。手当てせな被害が増えるで」

「うちの豚も噛まれとんのがおったわ。狂犬病でも伝染うつされとったらたまらんぞ」


 ざわざわと、集まった人々が雑多な言葉を交わす。見る間に情報共有と今後の方針が定まっていく。みなが利害を共有しているのだ、まとまりがあった。


 やがて集団は馬を持つ人間を中心に二つに分かれていく。軍の支部に行く側と、獣医を呼んでくる側だ。厩舎を出たグレーテルは前者に駆け寄り、気後れせず告げる。


「なあ。軍にはうちも行かせて」

「いや、グレーテルちゃんは家におりなや」

「危ないぞ、女は騒ぎ収まるまで待っとき」

「忘れたん? うちも軍人や、交渉のやり方は知っとる。火薬も銃弾も出し渋りさせへんわ」


 ここで見慣れた不敵な笑み。引き下がらない、ぴんと伸ばされた背筋がそう語る。男たちはしばし顔を合わせると、諦めたように嘆息した。


「……分かった。じゃじゃ馬っぷりは変わらんな、軍なんぞに行くだけあるわ」

「ありがと。ほんなら着替えてくるな、こんな血ぃついた服で直談判できんし」


 15分くらいしたら戻るから、と背を向けるグレーテル。それに随行しながらタマラは心中で首を傾げる。


 どうやらここの人々は、グレーテルが軍人となったことに一定の理解があるらしい。

 女が軍に入るなど都会でも眉を顰められることだ。こんな田舎でそれが認められるのは、グレーテルの培ってきた地縁ゆえだろうか。

 自分には縁遠いものだな。意識的に簡単に片付けてグレーテルの背中を追う。そして彼女の部屋に入りかけたところで、目的は着替えだったのだと思い出す。


 外に出ていた方がいいのだろうか――そう脚が迷ったところで、腕を乱暴に引かれた。

 部屋に踏み入る。背後で扉が閉まる。目前にはグレーテルの顔があって、片手でタマラの手首を、もう片手でドアを押さえていた。


 眼差しは、きつい。


「あんた、もしかして気付いてたの?」


 何を、など問うまでもなかった。

 野犬の群れによる襲撃。それにタマラが気づかなかったはずがないと、グレーテルは確信しているのだ。


 一度部屋に戻ったのもおそらくこれを問いただすため……詰め寄る瞳を直視できず、タマラは俯く。


「ひ、ぁ……ご、ごめんなさい……」

「聞いてるのよ。気付いてたのか、気付いてなかったのか。どっち」


 声には一切の遊びがない。それでも選択肢を突きつけてくるのがグレーテルで、決めつけてくれた方がいっそ楽だった。

 重圧に耐えきれず、わずかに首肯する。詰問は鋭く続いた。


「なんで私なりおばーちゃんたちなり起こさなかったの? ここの人たちにとって、作物や家畜が生きる糧なのは分かってるわよね?」

「ごめ、ごめんなさい……わ、わたしが、悪いんです……」

「違う。私は、理由を聞いてるの」


 ひとことひとことに帯電するような怒りを感じる。間近の激情に膝が笑う。ほとんど扉にもたれかかるようになりながら、けれど掴まれた手首が座り込むことを許さない。


 怖い。怖い。怖い。

 それだけの感情が脳髄をかき乱し、たったひとつの言葉しか浮かばせない。だからそのまま口にする。早くこの暴風が去るように、と願いながら。


「ご、ごめんなさい、ごめんなさい……申し訳、ありませ……」

「……あんた、謝ればいいと思ってるでしょ」


 ドアを突いていた手が、胸倉を掴んだ。


 引き寄せられる。反射的に正面へ視線を戻してしまって、後悔した。

 きつくきつくこちらを睨みすえる眼光。タマラの奥底を暴きたて、誤魔化しのひとつも許さない。容赦ない舌鋒がタマラの胸を刺す。


「謝って謝って謝って、許されても許されなくてもいいんでしょ。叱られるか呆れらるか殴られるかで終わらせたいんでしょ。相手に勝手に動いてもらって、自分じゃ何も決めたくないんでしょ。違う?」

「っ、」


 それは、タマラの在り方を極めて正しく言い当てていた。


 ――怖い。人が、すべてが。

 だから触れ合いたくないのだ。何も決めず、何も選ばず。他者を刺激することを避け、謝ることであらゆるコミュニケーションを拒む。


 タマラ・ヴィシンスキという存在を漂白したかった。空気のように、あるいはただの駒のように扱ってほしかった。タマラの意思など否定されるのは明白で、だったら一方的に見下し蔑まれる方がよほどマシだ。


 だってタマラは、最初からそういうものなのだから。もう諦めるしかないのだから。


「ええいいわよ。兵士だもの軍人だもの、お上の命令は絶対よ。そういう意味では木偶の坊でもいいかもね。

 でもね、忘れないでよ。私たちが戦うその時は、後ろに守るべき国や人がいるの。投げ出さない覚悟がいるの。そのために私たちは命だって賭けないといけないの。だから――」


 胸倉を掴む力が強まる。近すぎてグレーテルの輪郭が滲み、しかし表情だけは衰えない。

 意思を凝り固めたような瞳。八重歯で噛みしめられた唇。怒りのままに赤熱する頬。全身で自己を主張し、まっすぐに己を突きつける。


 タマラとは対極にあるものだ。タマラには示すべき自己などない。誰にも関わりたくなどない。

 それはきっと、言ってしまえば。


。そう思ってるみたいな顔、イライラするのよ。大っ嫌い」


 それだけ告げると、グレーテルはタマラを突き放した。

 あとはなんの言葉もない。衣服を替え、髪を整え、部屋を出ていくグレーテル。その足音が遠ざかるのを感じながら、タマラはうずくまった。


 怯えと、恐怖と、よく分からないもの。混ざりあってぐちゃぐちゃに心をかき乱す。涙となって溢れ出る。

 怖いが安堵すべきことだ。ようやくグレーテルがタマラを無視してくれた。もう興味など示さないかもしれない。ああやって意思を示せと詰め寄ることも、もしかするともう二度と。


 なのにどうして、こんなにも胸が苦しいのだろう。

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