閑話百景:臆病者とこわいもの①

――二年前――


 がたごとと、車輪の振動が背骨を揺らす。じりじりと、夏の陽射しが肌を焦らす。

 草木、家畜、時たま人家。ほとんど変わらない田園風景に少しばかり意識を麻痺させながら、タマラは黙して膝を抱いていた。


 馬車に揺られてはや1時間弱。馬車といっても農家御用達の簡単なもので、幌もなければ座席もない。木製の荷車にそのまま座っているだけだ。速度ものろのろとしており、時々馬が小川の水を飲みにいったりと休憩も多い。

 バスを使った方が確実に早いと思うのだが、この一帯には存在しないらしい。馬車に乗って後にしてきた、モルタル小屋のような駅舎とコンクリートのホームをぽつんと置いただけの駅が最寄りの公共交通機関だ。そのため一握りが農業用トラクター、基本的には自転車か馬車で移動するのが日常風景なのだという。


 要は、ものすごい田舎に来てしまった。


 あちこちを転々としてきたタマラでも居ついたことのない場所だ。そしてタマラを連れてきた張本人はといえば、荷車の向かい側で本を読んでいた。

 そよ風が濃い緑の匂いを運ぶ。それに本のページを捲られるから額の汗が眼に入るのか、彼女はやや不機嫌そうに眉を顰めた。


 思わず全身が竦む。こうした場面は苦手だ。反射的に謝りそうになってしまって、しかし見ていたことが知れたら怒られてしまいそうで、ここで彼女の逆鱗に触れたら見知らぬ場所に置いていかれるかもしれなくて。結局、ただ存在感を消して縮こまることを選ぶ。

 そうして神経を尖らせていたものだから、次聞こえてきた言葉に心臓が跳ね上がりそうになった。


「ああ、見えてきたで」


 穏やかな声は御者席からだ。向かいの彼女が本を閉じ、荷車から乗り出して進行方向を見やる。

 おそるおそる同じ方へ目を向ければ、踏み均されただけの道の果て、緑の地平線で隠れそうなところに灰色のシルエットがあった。

 そのまま伺っているとじりじりと距離が縮まっていき、人工物のかたちになっていく。いくつか並んだ石造りの家だ。


 御者の女性が手綱を操り、最後のひとっ走りというかのように馬の足運びが早くなる。激しくなった揺れに荷車の旅行カバンを押さえる。

 そうこうしているうちに速度も緩み、やがて完全停止した。鮮やかな緑に満ちた畑は四角く区切られ、青空と並行してどこまでも広がっている。


 ワンピースを翻して荷車から飛び降りる彼女。御者席の女性へ歩み寄り、にこやかに礼を伝えている。


「おおきになあ、おばちゃん。わざわざ駅まで迎えに来てくれて助かったわ」

「ええでええで。都会のお土産貰えたし、久々にグレちゃんの顔も見れたでなあ。ゆっくり休んでいきよ。

 いっそのこと軍なんか辞めてこのまま残りぃや。もうお嫁に行かなあかん時期やろ? どない、バウアーさんとこの息子さんでも……」

「あはは……まあ考えとくわ。ほんまありがとうな」


 最後は見慣れた愛想笑いだ。御者の女性はこの先に家があるらしく、タマラも降りたのを確認するとそのまま馬を進ませていく。

 その後ろ姿にしばらく手を振って、ここでようやくタマラの上官――グレーテル・アードラーは振り向いた。目元をきつく細め、むっと唇を結んでいる。


「……なによ。なんか文句ある?」

「ひっ!? あ、いえ、ごめんなさ……」

「はあ。別にいいわよ、想定内の反応だし。でも誰にも言うんじゃないわよ。駐屯地ではずっと標準語で通してんだから」


 ベアテのやつが知ったらロクなことにならないし……などと続ける姿にほんの少し安堵する。彼女は怒りっぽいが切り替えが早い。

 そしてなにより、怒りっぽい人種は怖いが楽なのだ。少なくともタマラにとっては。だから「ほら行くわよ」と促されるままにグレーテルの背を追い、いくつか並ぶ平家のひとつ――おそらく母屋というやつだ――へ向かう。


 シンプルな真鍮製のドアノッカーを握り、グレーテルは深呼吸。吐息は確かな喜色に震えていている。

 そしてノッカーを鳴らして来訪を告げるが早いか、待ちきれないように分厚い木の扉を押し開けた。


「おじーちゃん、おばーちゃん! ただいまー!」


***


 軍隊に入れたのは、タマラ・ヴィシンスキの人生における数少ない幸運のひとつだった。


 あらゆる危険の可能性を拾ってしまう。嫌な想像が連鎖して止まらない。だから他人に接触されると、まず謝罪を口にしてしまう……タマラの習い性のようなものだ。

 それで相手が戸惑うことは分かっているがやめられない。そして結婚もまともな就職も望めない身ともなれば、この気性で入隊が認められたのは幸運としか言いようがなかった。


 兵隊であることも思いのほか苦痛ではない。肉体的にきついことは多いし叱り飛ばされるのも怖いが、規律に従えばいいのは気が楽だ。

 しかし集団生活と人間関係が苦手なことには変わりない。殊にこのような時、タマラはどうすればいいのか分からなくなる。


「ねえタマラ。あんた、今度の休暇の予定は?」


 宿舎の廊下でグレーテル・アードラーがそう問いかけてきたのは、タマラが 1年間の訓練期間を終え、第四分隊に配属されて少し経ったころだった。


「ひっ!? ご、ごめんなさい、ごめんなさい!」

「は? ごめんじゃないのよ聞いてるの。休暇の予定が出てないけど。あんた外泊しないの?」


 煩わしげに目を眇め、こちらを見上げるグレーテル。彼女が言っているのは2週間後に迫った休暇のことだろう。外泊予定がある者は分隊長に連絡先を伝えておくようにと指示されていた。


 タマラは休暇中も宿舎に留まるつもりだったので無言を決め込んでいたのだが、なにかまずかっただろうか。もしかすると宿舎にいるならその旨伝えておく必要があったのかもしれないし、あるいは休暇中は外泊すべきという暗黙の了解があったのかもしれなかった。

 不安を誘う「もしかして」は止まらない。こういう時は謝っておくに限るが、彼女に対してはさほど効力を発揮しないのだ。


「あの、えと、も、申し訳ありません……」

「外泊しないのかって聞いてんだけど? 私の言ってることが分かんない? はいかいいえで答えなさいよ」

「ぇ……う……」


 威圧を隠さない目つきで詰め寄ってくる。その割に視線をまっすぐ合わせようとするこの上官の振る舞いが、タマラはあまり得意ではなかった。


 自分の癖が悪いものであるのは承知していた。相手を気遣わせたり不機嫌にさせてしまうことも。

 だがこの方がやりやすいのだ。何度も何度も続けていればみんな呆れるし諦める。こちらを哀れみ蔑み見下すだけで、タマラに怒らなくなるし何の期待もしない。


 だがグレーテルはといえばどうだ。何度タマラに接しても変わらず苛立つ。なのに答えを引き出すまでは逃してくれない。

 つまりはやたらとしつこいのだ。今もじっと瞳を据わらせ、うんざりしたように息をつく。それに背を押されて、怯える喉を震わせた。


「……い、いえ」

「はい了解。理由は? 駐屯地ここでなんかやることあんの?」

「ご、ごめんなさ……」

「はいかいいえ」


 強張った動作で首を振る。どんなに小さな意思表明も、一方的に殴られるより叱られるより怖かった。拒絶されるのはもちろん、受け入れられるならもっと。

 そこでようやくグレーテルは眉間の皺を緩める。だが眼差しは変わらずきつい。タマラより少し低い背で、なのに見下ろすようにして告げる。


「ないのね。だったらタマラ、あんた私の家に来たら?」

「え……?」


 そう問うてしまい、すぐに口を噤む。だがグレーテルには届いていたらしい。やや考えるように目を泳がしながら、「あー……」と頭を掻いて補足する。


「私の実家の片方、農家でいま収穫期だから。手が欲しいのよね。あんた暇なんでしょ、手伝ってよ」

「……」

「来るか来ないか、どっち」


 またタマラの意思を聞く。手伝えというのなら、一方的に決めてくれれば楽なのに。

 どちらにせよタマラに断る選択肢はない。求められているのは明らかに同伴することなのだ。ぎこちなくわずかな首肯を返すと、グレーテルはふんと鼻を鳴らして頷いた。


「分かった。じゃあうちに外泊するって私から分隊長に伝えとくから」

「ご、ごめんなさい……」

「なんで謝るのよ。鬱陶しいわねそれ」

「ひ、あ……ご、ごめんなさ……申し訳ありません」

「はー……まあいいわ。じゃあね、初日の始発で行くから寝坊しないでよ」


 呆れたように息をつき、しかしそれ以上は追及せずにグレーテルは踵を返した。背はタマラを顧みることなくつかつか歩み去っていく。そこでタマラも、ようやく胸を撫で下ろすことができた。


 見知らぬ場所。見知らぬ作業。当たり前のように不安だった。

 しかし勝手に休暇の過ごし方を決められて、そんなグレーテルの横暴さにいくらかの安堵がある。あのしつこささえ別にすれば、他の隊員たちよりよほど接していて楽なのだ。


 怒られるのも見下されるのも蔑まれるのも怖い。

 けれど優しくされるよりは、ずっとマシだから。


***


 そうして陽射しもからりと大地を焦がす休暇の初日。グレーテルの言葉通り始発で首都の駅を出て、鉄道をいくつも乗り継いで、そこから先は荷馬車で運ばれて。グレーテルの実家に辿り着いたのは午後3時を回った頃だった。


 石造りの家は涼しく、思いのほか暗くない。窓で上手く採光されている。それだけに漆喰の壁のひび割れや木製家具の古めかしさが目立っていた。鼠でも出そうだな、と思ったところで太った猫が我が物顔で居間を横切る。動物臭さが強いのは彼のせいだろう。

 長年この土地に根付いてきた人間の住まいだ。タマラにはずっと縁がなかったもの。だからいつにも増して居心地悪く、紅茶の並ぶテーブルの一角で息を殺しつづけている。


「それでグレーテルちゃん。どないなん軍隊は」

「おばーちゃんいっつもそれ聞いてくるなあ。普通よ普通。まあ今年いっぱいで二回目の任期も終わるで、そろそろ下士官昇進ちゃうんかな」

「はあ、すごいやないのぉ。グレーテルちゃん立派やなあ立派。なあじいさん」

「そうやのう」

「……」


 恰幅のいい老女はにこにこ朗らかに喋りまくり、痩せぎすに白髭の老人は寡黙に頷く。これがグレーテルの祖母と祖父らしい。

 一方のグレーテルは上官への愛想笑いとも部下へのしたり顔とも違う、柔らかい印象の笑顔を見せていた。あれが彼女の素顔なのだろうか。


 完全に蚊帳の外といった風だったが、これ自体はタマラにはさほど苦ではない。

 むしろ怖いのは目に見えていた可能性だ。グレーテルの近況をひとしきり聞いたあと、皺の深い穏やかな眼差しが、こうしてタマラに向けられることだとか。


「それで、ええと。タマラさん?」

「ひぇ!? え、あ、その。ごめんなさ……」

「謝ることないんよ、むしろこっちが堪忍ねえ。この通り、こんまい家やから客室とかうてなあ。タマラさんはな、グレーテルちゃんと同じ部屋使うてもらいたいんやけど、構わんかしらねえ。掃除は欠かしてへんのやけど」

「え……あ、う」


 問いかけられて、反射的にグレーテルを伺う。猫に手を伸ばして完全無視。問題ないのか嫌なのかさっぱり分からない。

 しばらく口ごもっていたが、老婦人は微笑んだままタマラの答えを待つばかり。この人は多分孫と同じだ。そう直感してから覚悟を決めるまでにも少しかかって、やっとのことで頷いた。


「は…………は、い」

「ありがとねえ。ほんま、来てくれて嬉しいわあ。、気にせんでゆっくりしていってなあ」

「え……?」


 柔和に告げられた言葉で、思わず疑問符を投げてしまった。


 話と違う。グレーテルは手伝いに来いと言ったのに。

 もう一度グレーテルを見やれば、今度は彼女もこちらを向いていた。やはり望みひとつ匂わせてくれず、指示をくれることもない。ただタマラを観察しているのだろうと、ほんの少し細められた視線で理解できるだけ。


 そうこうしているとグレーテルの祖母が首を傾げる。この親切さはヴィルヘルミナたちに似ていた。孫より苦手な部類だ。


「うん? どないかした?」

「あ、え、その……すみません……」

「そう? あ、お手洗いは外な。都会やと水で流すて聞いたけど、ここ水道ないし畑の肥料にするでねえ。ああ、でも電気は一応通っとるんやで。軍のラジオ聞くのに要る言うから引いてもろてな……」


 そう色々と教えてくれている言葉を一生懸命に刻みつける。何事もなく滞在を終えたいのだ。聞き逃して下手なことはしたくなかった。


 しかしどうにも集中しきれないのは、グレーテルの意識がタマラを追いつづけているから。

 何を求められているのか分からない。その恐怖はずっとタマラの脳を蝕んで、優しさを恐ろしく思う余裕さえも奪っていった。


***


 グレーテル以外の誰かの存在を残した部屋。それが彼女の私室に対する第一印象だった。


 内装も家具も居間のものとさほど変わりない。棚の多くが本で埋まっているのはいかにもグレーテルらしかったし、本人の立ち居振る舞いも生まれ育った場所におけるそれだ。

 しかしセピア色に薄れた犬の写真が壁に張られ、窓の上部では色褪せた生地の飾りカーテンが揺れている。こうした些細なところに別の人間の名残を感じた。グレーテルの色で塗り潰しきれていない、そんな風に見える。


 ベッドはひとつしかないので一緒に使えという。タマラは寝相も大人しいほうだが、もしかすると寝ている間に蹴ってしまったり布団を奪ってしまったりするかもしれない。それを思うとなるべく離れて眠ろうという気にさせられた。


 ……いいや、理由はきっと他にもある。


 ここに着いてから感じるグレーテルの注視。意図の見えないそれがどうにも居た堪れなくて、今にも逃げ出したくなってしまう。


「なによ。なんか言いたいことでもあんの」

「ひぅっ!?」


 同じベッドに潜りこんで幾ばくか。眠ったと思っていたグレーテルが急に横目をこちらにやって、タマラは心臓の止まる心地がした。


 いつのまにかタマラの方から彼女を目で追っていたらしい。闇深い田舎の夜にも視界は慣れて、眉間が訝しげに寄せられているのもはっきり見える。

 彼女はやはり答えを待っているようだったが、とても正直には話せない。薄い布団に隠れて謝罪を紡ぐ。


「あ……う。ごめんなさい、す、すみません……」

「……あっそ」


 いつになく呆気なく引き下がる。眠いのだろうか。ならばこれ以上不機嫌にしたくない……そうさらに縮こまると、グレーテルは寝返り打って背を向けた。布団の端から小さく手が振られている。


「じゃ、おやすみ。トイレに立つなら静かにやってよね」


 言ったきり、しばらくすると寝息が聞こえてくる。だがこれは狸寝入りだ。息遣いに緊張があり、やや早い。

 どういうつもりなのだろうこの人は……そう怯えとも困惑ともつかない感情に胸ざわつかせるまま、タマラの不安の夜は更けていった。

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