閑話百景:先任伍長と新米伍長とことのはじまり

 その日、グレーテル・アードラーの身づくろいはいつになく気合が入っていた。


 眉は形よく整え、軍服にはきつくプレスをかけて皺を消しておく。普段はしない化粧までしたし唇には秘蔵の紅を引いた。基本的に華美が許されない軍という空間においては最上級のお洒落だ。

 そしてこっそり起床時間より先に起きた甲斐あって、鏡に映る自分はいつもより数倍垢抜けて見えた。


「よし、完っっっ璧」


 むふー、と満足げな笑みが漏れてくる。我ながら上出来だ。肩にぎりぎり触れないボブカットも油を浸みこませた櫛を入れられ、艶やかにグレーテルを彩っている。それを手で払う仕草など、いかにも上官の余裕を感じさせた。


 そう、三度目の任期初日の本日、グレーテルは昇進する。

 上があまり女性を昇進させたがらないのか、おおむね特別措置小隊は3年の任期を一度終えて上等兵になるかならないか、二度終えてやっと下士官への道が拓けるなど、志願制の隊にしては昇進へのスパンが長かった。それでいて士官にはなれないのだから、いかに軍属が女に厳しい道か分かろうというものだ。


 だが、グレーテルは今日から伍長になる。十代から若さと熱量を捧げてきた6年間の報いとしては悪くないだろう。


「さて、今日からが本番ね。私はまだまだ止まらないんだから」


 鏡の自分に言い聞かせるよう独りごちる。そう、これで満足してはいられないのだ。

 下士官になったことで、グレーテルは目標にまた一歩近づいた。だがまだ足りない。まだまだ自分は上に行く。


 だから、この機会は逃せないのだ。今一度身だしなみに隙がないか確認すると、にやりと笑んだ八重歯に朝の光が反射した。


「いいお友達になるわよ、シュロスブルクのお嬢さま」



***



 貴族派の有力家、シュロスブルクのご令嬢が特別措置小隊に入隊する――その報せは、ひと月ほど前から首都近郊第二補助駐屯地を密やかに駆け回っていた。


 どこから出回った話かは分からない。もしかすると小隊長あたりがぽろりと漏らしたのかもしれない。しかし噂として囁かれていたそれが信憑性のある情報に変わったのはつい最近のことで、だからグレーテルもいい第一印象を残せるよう、身なりを整えるくらいしか出来ることがなかったのだ。


「あなた、エーリカ・Sジークリンデ・フォン・シュロスブルクさん……だったかしら。合ってます?」


 入営手続きに追われる初年兵が唯一羽を休めることのできる時間――食事時。昼食の席で探し回ったその背に呼びかけると、やや時間をおいてから、むっつりとした三白眼が振り向いた。


「……わたしに何の用です」


 食堂から踏み出した足を休め、不審げにこちらを見据える少女。

 おそらく女学校を出てきたころだから年嵩でも17か18そこらだ。鋭い目つきがやや可愛げを削いでいるが、クリーム色の髪は油っ気もないのに生糸のように滑らかで、それを耳にかける仕草もやたらと様になっていた。育ちの良さとはこういうものだろうか。


 この反応も想定済みだ。さりげなく入口の脇に誘導しながら、グレーテルはにこりと人好きのする笑みを浮かべてみせる。


「はじめまして……って言っても、入隊式で一瞬会ったんですけどね。私はグレーテル・アードラー。ご挨拶です。入隊期こそ違えど、任官が一緒なんだから対等ですし同僚でしょう。名乗るくらいはしたくて」

「同僚……?」

「ええ。私も伍長です、今日から。だから同僚」


 とさらりと言うものの、内心はそう穏やかではない。

 グレーテルが6年かけて積み上げてきた地位を、この少女は――おそらくは家の威光によって――最初から手に入れている。対等というのだって、グレーテルが隊の先任であることを勘定してやっとだ。憎くないはずがなかった。


 しかし、それを表に出すことはできない。むしろ「あ……」とわざとらしく気づいた風を装い、わざとらしくない敬語でフォローのセリフを吐く。


「ああ、別に気負わないで。私も6年くらいここにいるけど、同期がほとんど抜けちゃって寂しかったんです。

 逆に分からないことはどんどん聞いてくださいね。これまでと色々違って大変だろうけど、ここに慣れるお手伝いくらいはできると思うから」


 正午の陽射しを浴びて微笑む、優しく頼りになる先任のお姉さん。グレーテルが演じるべきはつまりはそれだ。

 ぺーぺーの初年兵が同じ伍長であることは業腹だが、彼女の家の力は途轍もなく大きい。この国から貴族制度がなくなって久しいが、未だに力を持った貴族筋の代表格がシュロスブルクなのだ。ならば利用しない手はない。


 有力者のお嬢さまと仲良くなって、いつか出世街道へ。それが汚いことだとは思わない。そもそも軍政府なんて利権組織、ちょっと覗いてみれば掃いて捨てるくらいにその手の話は出てくる。

 少女……エーリカにとっても悪い話ではないはずだ。ただでさえ孤立しそうな状況で、ある程度実績を積んだ同僚が守ってくれるのだから。

 そんな打算を展開しながらも、グレーテルは上官の前で浮かべる輝かしい笑顔を見せたままだ。すっと右手を差し出し、殺し文句をここでひとつ。


「あなたみたいな『戦友』が増えて嬉しいわ。これからよろしくね、シュロスブルクさん」


 戦友――徴兵を終えた男の間でしか使われない言葉であり、女性にはほぼ無縁の単語。特別措置この小隊の女たちは、多かれ少なかれこう呼ばれることに誇りと感慨を覚える。まして入ったばかりの初年兵ならなおさらだ。


 さあ、食いついてこい。そう手をこまねく間にもエーリカはゆっくりと腕を伸ばし、差し出された手に触れ、グレーテルが勝利を確信した瞬間。


 ぱん、と肌を打つ音が快晴の空に響いた。


「くだらないものであるな。軍隊といってもこの程度か、底が知れようぞ」


 傲岸に吐き捨てるエーリカ。警戒の目はほぼ侮蔑の視線に変わっていた。

 白魚の指がほんの少し赤みがかっているのは、グレーテルの手をはたき落としたせいだろうか……そんなことを真っ先に思いついた程度には、グレーテルも呆然と我を忘れていた。


「妾はここに仲良しごっこをしに来たのではないし、慣れるつもりも毛ほどもないわ。所詮は女子おなごの手遊びか……これでは軍事予算の無駄遣いではないか」

「んな……っ」


 あまりにもあまりなエーリカの発言に、我に返ると同時に頭に血が昇るのが分かった。


 感情のままに声を荒げかけて、しかしぐっと飲みこむ。落ち着けグレーテル。予想以上にあからさまだったが、多少の我儘や傲慢は予想の範囲内だ。立身出世を目指すならこれくらい我慢できなくてどうする。

 クールダウンは一瞬だ。『お姉さん』として、笑顔を崩さず受け止めてやる。


「そ、そうかしら。団結は統率や練度にも直結する重要なファクターでしょう。仲良しごっこ、大いに結構じゃない。少なくともひとりでいるよりよっぽどね」

「それが軍規を乱しておらぬとよいがな。まあ、軍規を乱したところで妾はどうにもならぬであろうが……とにかく、妾はここで馴れ合うつもりはない。おまえにシュロスブルクの威を貸すつもりもな」


 断言され、鼓動と思考が軋みをあげて止まった。

 見透かされていた。どうして、どこが悪かった。自問しても焦る胸は何も答えを導き出せない。その間にもエーリカは毒を吐き続け、汚らわしげにグレーテルの名字を呼ぶ。


「アードラーとか言ったか。妾に構うな。軍だろうが家だろうがもはや。ましておまえの後ろ盾になってやるほど、妾も善人ではない」


 それが交渉決裂の決定打、などと割り切れるグレーテルではない。まだやりようはある、次の手を打つべきだとも理解している。これくらいで諦めていたら、届かぬ理想――士官にはどうやったって手が届かない。


 だが、思い通りにいかない焦燥と苛立ちと混乱……そして何より彼女の放った言葉が、グレーテルの理性を一気に引き千切った。


「あんった……一体何様のつもり!?」


 ここが食堂前だということも忘れていた。気づけば胸倉をつかんで暗がりの壁にエーリカを押し付け、言いたかったすべてをぶちまけている。


「いくらお嬢さまだからって許されないことがあるのよ知らないの!? シュロスブルクの家ではどうだったか知らないけど、ここでそんなお嬢さま気取りは通用しないの!

 この地位だって……入隊早々下士官待遇だからって調子に乗るんじゃないわよ!」

「っ、うるさい!」


 言葉の奔流をぶつけられたエーリカはわずか虚を突かれた顔をしていたが、グレーテルが言い終わるか言い終わらないかのうちに表情を一変させた。こちらを突き飛ばそうと暴れながら憎々しげに反駁する。


「そのお嬢様に取り入ろうとしたおまえに責められる謂れはないわ! 斯様なこと言われずとも分かっておる!」

「分かってたら仮にも先輩にそんな口利かないのよ!」

「対等だと言ったのはおまえであろうが!」

「建前ってもんを知らないのあんた!」


 そこまで言って、ようやく気付く。食堂から出てくる兵士たちが訝しげにふたりの取っ組み合いを見ていることに。

 男性兵士は基本的に特別措置小隊じぶんたちを腫れもの扱いしているから別に構わない。構わないのだが、相手は兵営中が注目していたシュロスブルクのお嬢さまだ。おかしな噂になるとまずい。


 何よりこれだけ声を荒げてしまえば、いずれ誰かしら小隊の上官が――そう予見し、エーリカの襟を解放した。

 言いたいことは山ほどあるが、今は一刻も早く彼女と別れ、何事もなかった顔をしないといけない。眉をゆがめて襟元を正すエーリカに指を突きつけ、宣戦布告をしてみせた。


「……いい、絶対今日のこと後悔させてやるから。アードラーさん許してくださいって泣いて謝るといいわ、お嬢さま」

「やれるものならやってみるがよい、下郎。妾はもうなんだってよいが、おまえにだけは頭を下げたくない」


 お嬢さまの割に好戦的なことを言う。そんな感想を最後に、グレーテルは踵を返した。


 気づけば、先の取っ組み合いで軍服は無残なまでに乱されていた。化粧も髪も、懇意どころか犬猿の仲にまで落ちた今となっては無意味だ。今日の睡眠時間を返してほしい。

 なにより気に食わないのは、どうやら彼女も彼女でグレーテルのことが頭にきたらしいことで……


「もう、ほんっと可愛くない女!」


 そう吐き捨てて天に願う。せめてこれ以上彼女に振り回されることがありませんようにと。


 結局のところ、彼女との因縁は今に至るまで続くのだが――それはまた、別の話だ。



***



 ロクでもない思い出を夢に見た。


「……」


 寝起き一番のしかめ面を自覚しながら、グレーテルは最悪の気分で目を開いた。

 カーテンをすり抜けた陽射しがやや埃っぽい空気に反射し、きらきらと部屋を舞っている。見る分には綺麗と言えなくもないが、どう掃除してもこうなるのは労力の無駄を感じて辟易した。


 目をこすりこすり上段ベッドで身を起こし、ぼうっと壁時計を見やる。起床予定時間――17時までまだ数十分はあった。変な夢を見たせいか早く目覚めてしまったようだ。

 軍人は身体が資本。もう一眠りしておこうと布団をかぶりかけて、隣の上段ベッドが空っぽなことに気がつく。


「あー……もう、あの馬鹿」


 よっぽど見なかったことにして眠り直してやろうかと思ったが、ため息をつきながら梯子を降りていく。周りの分隊仲間を起こさないよう靴をつっかけ、カーテンの隙間から眼下の景色を見やる。

 傾きかけた陽を浴びる点呼広場には、汗を煌めかせながら駆ける姿があった。


「夕方から精が出るわね、不眠症? それとも睡眠は取れるときに取っておく贅沢品ってことも知らないのかしら」


 グレーテルがそう皮肉をふっかけたのは、パジャマから軍装に着替えて点呼広場に降りてきて早々だった。運動着の少女――エーリカは、荒い息で屈伸運動をして振り向きもせず応じる。


「お前も寝起きから暇なことであるな、グレーテル。ならばその贅沢とやらを味わってくればいいであろう」

「お生憎様。私はやることがあるの。大事な任務の休息中にも走り込みするお馬鹿さんへのお説教が」


 苛立ち交じりに指摘する。彼女がやってることそのものが不快なら、こちらに視線を向けないのも癇に障った。


「あんた、どういうつもり? ケストナー夫人の警備が続いてる今、大事なのは万全の態勢を整えておくことよ。自己満足で勝手なことすんじゃないわよ」


 ケストナー夫人警備はしばらく継続とする――その結論が出されたのはポモルスカ人暴動未遂から数日も経たないうちで、つまり「彼らを操った黒幕がいる」というグレーテルの上申が的を得ていた証拠だろう。


 ただでさえ危機的状況なのに加え、三日ごとに生活リズムが変わる四組三交代制は疲労が溜まりやすい。体調管理は念入りにしておく必要があった。


「だから、エーリカは万全の態勢を整えておくべくやっているのだ。口出しされる謂れはないぞ」

「ウォーミングアップはまた別途やるでしょうが。休息を必要な分取っておくのも仕事のうちよ。これで今日の警備で使い物にならなくなってみなさい、恥をかくのは誰かしらね?」


 正論を畳みかけると、アキレス腱を伸ばしていた動きがぴたりと止まる。相変わらず振り向かないが、頭が小さく俯いたのだけは分かった。


「……エーリカだって、戦力面で頭ひとつ劣っている自覚はあるのだ」

「はあ?」

「エーリカは伍長だ。大事なときに足手まといにはなりたくない。それだけである」


 それだけ言って、今度はスクワットを始めるエーリカ。背がこれ以上の議論をする気はないと語っていた。

 要するに自分の力不足を痛感したから仲間たちに追いつきたいと、まあそういうことなのだろう。夢で見たあの頃に比べるとずいぶん殊勝になったものだ。そしてその認識は紛れもない事実でもある。


 だがそんな小娘の理屈に付き合ってやる義理は、少なくともグレーテルにはなかった。


「馬鹿じゃないの? きゃんきゃん吠える以外できない能無し仔犬のくせになーに粋がってんだか。そういうとこが馬鹿だっつってんのよバーカ」

「ばっ」


 腰を落とした姿勢でスクワットをやめ、三白眼がこちらを振り向く。やっとグレーテルの方を見た。それで溜飲も多少は下がるが、場の空気は完全に喧嘩寸前のそれだった。


 エーリカが大股で歩み寄ってくる。その顔も態度も真っ赤に染まっていた。あの夢で見たものと似ていて、しかし決定的に違う怒り。グレーテルを見上げ、噛みつかんばかりに言い募る。


「吠えるばかりではいられないからやっているのだ、皆に追いつこうとすることの何が悪い!」

「悪くはないけど見てられないわね。だいたいあんたみたいなひよっこが今どれだけ頑張ったところで結果はたかが知れてるのよ。寝てる方がマシだわ」

「おまえにそこまで断じられる筋合いはない! エーリカは、エーリカなりに考えて……!」

「だーかーら、足りない頭で考えられても迷惑だっつってんの!」


 エーリカにつられて大声が出る。相変わらず物分かりが悪い女だ。どれだけ噛み砕いてやれば理解できるのだろう。


「いい!? あんたが足手まといなのはこっちだって分かってるのよ、その上で色々考えてんの! そんな当たり前なことに焦り散らかしてどうなるってのよ!」


 エーリカが気圧されたように口を噤む。その隙にまた畳みかけようとした言葉は、背後からの鶴の一声によって消えた。


「そうだな。いささか言い方は悪いが、私もグレーテルと同意見だ」


 エーリカと同時に同じ方に目を向ける。宿舎の入り口からはヴィルヘルミナが軍装を整え、ゆっくりと歩んでくるところだった。二人して慌てて敬礼する。


「お、おはようございます、ねーさま!」

「分隊長、おはようございます! さすが分隊長ですね、早く起きて見回りとは。私も見習わなくては」

「なんとなく目が覚めてしまっただけだ。エーリカと同じだよ、今の状況で褒められたものではない」


 小さく手を振る仕草をするヴィルヘルミナ。二人が礼を解くと、ヴィルヘルミナは穏やかな顔でエーリカに向き直った。


「それでエーリカ。今も言ったが、私はグレーテルに賛成する。お前はまだ若いし経緯も特殊だ。意気込みは買うが変に焦る必要はないし、お前が成長できるように指導するのは私のような上官の仕事だよ」

「ねーさま……」


 先までの威勢は何処へやら、エーリカは敬愛する上官に心を奪われていた。ぽんと優しく肩を叩かれ、その目はみるみるうちに得心に染まっていく。力強い首肯が最後の一押しだった。


「だから、英気は養える時に養っておけ。それはお前の成長を後押ししてくれる。そして努力すべき時に努力するといい」

「は、はい! ありがとうございますねーさま!」


 素直に頷き、エーリカは満面の笑みで敬礼する。尻尾を振りかねない勢いだ。あまりにもあっさりとした心変わりで、グレーテルにとってみれば馬鹿らしいし呆れるばかりだし、それに加えて。


「……」


 なんだか、面白くない。


「それから、グレーテル」

「は、はいッ!」


 そうヴィルヘルミナがこちらを向いて、グレーテルは慌てて表情に敬意を宿す。こういう時こそ株を上げるチャンスだ。あそこで上官を見上げるだけの間抜け面小娘とは違う。彼女の身分など借りなくても、グレーテルは上へのし上がってみせる。


「分隊長、今のお話、とても感銘を受けました。やはり分隊長のお人柄は上に立つ者の鑑ですね、私も分隊長のように……」

「ありがとう。だが、お前も少し諭し方を考えるといい。せっかくエーリカのためになることを言っていたんだ。心配するのは分かるが、ほどほどにな」

「へっ?」


 思わず素の声が出た。

 心配。誰が、誰を? 一瞬思考が停止し、解凍された時には遅かった。宿舎へ向かうヴィルヘルミナの背に手を伸ばすことしかできない。


「え、あ、いえ分隊長、私は別にそういうのでは……」

「さて、そろそろ皆起きてくる時間だ。今のうちにわだかまりは解いておけ」

「いやだから話を、分隊長ー!!」


 ヴィルヘルミナの姿は宿舎の入り口へ消えていく。無力にも届かなかった手を下ろした直後、横合いからエーリカが覗きこんできた。


「まさかとは思うが、おまえ、今のあれは勇気づけているつもりであったのか?」

「っはあ? 違うわよ調子乗るんじゃないわよ馬鹿じゃないの?」


 的外れすぎて声が若干裏返った。エーリカはあっさり納得を返し、うんうんと頷く。


「そうであるな。エールを送るのにあれはさすがに言い回しが不自由すぎるし……なによりおまえがエーリカを気にかけるなど少々気色が悪い」

「あ"?」

「だが、エーリカが見落としていたものに気づかせてくれた。だからエーリカは勝手に感謝させてもらうぞ」


 言って、エーリカは宿舎の方に歩きはじめる。追おうか追うまいか迷っている間に彼女はこちらを振り向き、その輪郭が落ちかけた夕日に滲んだ。


「礼を言う、グレーテル。エーリカはこれからも頑張るぞ、おまえに負けない程度にはな」


 陰のなか、にっと見せた白い歯が映える。三白眼には相変わらず可愛げのひとつもなく、髪は一年半経ってもやはり嫌味なほど滑らかだ。


 しかしその笑みも、その一人称も、そして「グレーテル」と呼ぶ声も、すべて夢に見た記憶にはなかったものだ。


 この感慨が何なのか、今のグレーテルは胸がざわつく以外分からない。それがいやに気に食わず、皮肉でもいくつか言ってやろうかと思う。なのに語彙が宙を彷徨って、その間にエーリカは入り口へと駆けていった。


「あっ、ちょ――」


 言いたいことだけ言ってこっちの返事は一向に聞かない。こういうところも未熟だというのに。

 だが出会った日の諍いよりはまだ腹が立たないと、そう何度となく夢の思い出と比べている自分に気づき――グレーテルは長い長いため息を漏らした。


「……ほんっと、可愛くない女」


 この気持ちだけはきっと、あの日の自分と同じだろう。

 そう自分に言い聞かせ、第四副分隊長グレーテルは、仲間が目覚めはじめる宿舎へと戻っていった。

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