閑話百景:伍長エーリカの当惑
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「2-2ケストナー夫人の戯れ」のエーリカ視点です。
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エーリカ・S・フォン・シュロスブルクがその「音」に気がついたのは、ケストナー夫人の警護に入って小一時間ほど経ったころだった。
背にした扉がコツコツとかすかに鳴っている。ヴィルヘルミナやケストナー夫人――シャルロッテには届いていないようで、こちらを気にする素振りもない。エーリカ自身はじめは軽い風鳴りかなにかだと思っていた。
だが、その音がなにかしらの規則性を持っているように感じられて、エーリカはいつのまにか後ろ手に扉へ触れていた。
(やはりだ。これは……信号か?)
短点では指で扉を叩き、長点では爪を立てて滑らせているらしい。わずかな振動を感じながら、エーリカは静かな焦りに囚われていくのを自覚していた。
(いったい、なにを伝えようとしているのだ……?)
極力音をたてず、わざわざ信号を使って伝達をはかっている。なにか緊急事態が発生したのかもしれないし、警護が必要なこの状況を思えばありえない話ではない。
どうやら同じ信号を繰り返しているらしく、それもまた「らしさ」があって身がこわばった。固唾をのんで符号をたどっていく。
(
皮膚感覚と記憶をたよりに必死に読みとる。謎のベールがゆっくりと剥がされていく。
だがエーリカは忘れていた――今扉の外にいる人物が、救難信号など発する以前にとにかく暴れるタイプであることを。
『
今日もヴィルヘルミナと一戦を交えてきた女――マルガ・アイヒホルン一等兵。ポニーテールを揺らして退屈げにあくびをしている光景まで目に浮かんできて、脱力と呆れとほんの少しの安堵を感じながら、エーリカはたどたどしい発信を返していた。
『何をしているのだマルガ。きちんと任務を果たせ、遊んでいい時ではないぞ』
『あ、エーリカ伍長やっと気づいた』
エーリカのぎこちない信号に対し、マルガの返信は淀みない。
『つっても本当ヒマなんですよ、ここ廊下だし警戒しようもないし。シリウスも半分寝落ちてるんですけど』
『起こせばか。マルガおまえ、エーリカよりも先に小隊にいるのであろう。それでそのザマなのか』
『先にいるから分かるんすよ、この場所だとロクにやることないってね。あーあ、外に出てる副分隊が羨ましい。あっちで通行人見張ってる方がまだ眠くないですよ』
副分隊――分隊の分割行動時、副分隊長のグレーテルが率いる班――は、現在敷地周辺の警備をしているはずだ。本来ならせめて邸内での警護になるはずが、主導権を握りたがる衛兵隊に配置をずらされこうなっていた。
そういった軋轢を気にするそぶりもなく羨ましいなどと言えてしまうマルガは、度量があるのかただの単細胞なのか……そんなことを考えていると、扉がまた小さく鳴った。
『んで、そっちはどうなんですか?』
『どう?』
『ケストナー夫人とかぶんたいちょとか。なんか面白い話ありません?』
要するに退屈を紛らわせろということか。上官を使ってやってくれる、と憮然としかけたところでまるでグレーテルのような思考だと気づく。ごまかすように返答を打っていた。
『べつに。ねーさまはいつも通り背筋が通ってらっしゃるし、ケストナー夫人も昨日あんな目に遭ったとは思えないほど落ち着いている。今しがた茶を頼んでいたから、それが届くころじゃないのか』
『あ、ほんとすね。カチャカチャ運んでる音がこっちきてます』
ということはそろそろこの扉も開くらしい。そのとき小言でも言ってやろうかと思ったが、使用人を念入りにボディチェックしているらしい気配がして毒気が抜かれてしまう。
(ふざけているくせにやるべきことをちゃんとやっているのは……なんというか、ずるくはないか?)
そうこう思っているうちに扉が開き、入室する使用人の背後に素知らぬ顔のマルガが見え、そして使用人が出ていって扉も閉まる。
結局何も言えないままだった。どことなくばつの悪い気持ちで扉の前に戻れば、また交信が届いてくる。
『それでそれで? そっちのご様子は?』
『は? だからべつに何もないぞ』
『またまたあ。ぶんたいちょ、昨日なーんかヘンだったじゃないですか』
どくんと心臓が跳ねる。それは昨日の作戦以来、エーリカも気になっていることだった。
『焦ってたっていうか、鬼気迫ってたっていうか。今も引きずってたら正直困りますし……様子教えてほしいんですよね』
「……」
交信に、いや、言葉につまる。
ヴィルヘルミナが昨日の作戦中に平静を失っていたのは誰の目にも明らかで、しかし原因は未だもって分からない。マルガの言い分は真っ当だったが、かといって適当なことは答えられなかった。
『……普段通り、冷静そのものだ。いまだって紅茶の毒味をなさっている。少なくとも、いまは気にする必要は』
と極めて事務的に応じながら部屋のふたりに意識を向ける。あちらもどうせ事務的なやり取りばかりで、特に言うべきこともないはず……そう思って、いたのだが。
「……は?」
シャルロッテのくすくす笑いを機に切り替わったその場の空気で、エーリカの思考回路は停止した。
『わあhjrild』
『はい? どうしましたエーリカ伍長』
『なんだあれ』
それが精一杯だった。以降は信号を発する余裕も信号を読みとる余裕も消え去った。目の前で広がる光景を処理するのに頭がいっぱいになる。
ミーナ。ロッテ。よそよそしいのは寂しいじゃない。心得た我が友。
どう聞いてもただの軍人と保護対象の会話ではない。まるで恋人同士の睦言だ。何が起こっているのかまったく理解することができず、唯一考えることができたのはこれだけだった。
(……これ、エーリカはひどくお邪魔なのではないのか?)
そしてエーリカはぽかんと口を開けたまま、上官に水を向けられるまで唖然とするほかなかった。
***
そしてそんなこんなの流れののち、新たな仕事を与えられたエーリカは意気揚々と敬礼していた。
「はい! お任せください、分隊長!」
言ってシャルロッテの私室を飛び出し、数歩走って、階段を降りかけたところでふっと脚が止まった。
その場で思考して、しかし葛藤は一瞬だ。踵を返し、部屋の外で待機するマルガと、そのそばに座るシリウスのもとへ駆け寄る。
「あっれ、エーリカ伍長。いいんすか行かなくて。副分隊長すっごい声出してましたけど」
「グレーテルのことだ、あんな大声を出せるうちは大したことないであろう。それにマルガ、おまえとの交信を一方的に絶ってしまったからな。結果くらいは伝えるぞ」
ヴィルヘルミナとシャルロッテの関係が明かされた衝撃ですっかり忘れていた。ほぼ私語に近いものでこそあったが、彼女なりにヴィルヘルミナを心配しての行動だ。一応の経過くらい知らせておきたかった、のだが。
「あー、あの二人オトモダチなんですっけ。いやーびっくりしますよねー」
シリウスの頭を撫でながらのさらりとした相槌に、エーリカは目を剥いていた。
「は!? マルガおまえ、知っていたのか!?」
「いや、だって聞こえましたし。ぶんたいちょと夫人はお知り合いなんですかって、エーリカ伍長聞いてたじゃないすか」
しごく当然のように応じるマルガ。確かにエーリカも扉のそばにいたのだから、いくらか耳を澄ませれば聞こえたのかもしれない。
「でもそう思うとアレですよね、ぶんたいちょもしょせん人の子なんだなっていうか」
「どういう意味だ?」
「友達だから独断専行してでもって、つまりそういうことでしょ。昨日のあれ」
「……」
本当に、それだけだろうか。
昨日かいま見た焦りや、タマラの言っていた苛立ち……あれは、「ただの友人」の窮地に対する感情だろうか。
そう黙思していると、マルガがにやりと笑みを浮かべてこちらを指差してきた。
「あ、まさかエーリカ伍長悔しいとか? ぶんたいちょがぽっと出の女にお熱でさ」
「馬鹿を言うでない」
即答する。実際さみしい思いはしなくもないが、ヴィルヘルミナにも人間関係というものがある。それを不愉快に感じる道理はないし、どちらかと言えばぽっと出はエーリカの方だ。
「相手が友であるから任務に身が入る、おおいに結構ではないか。むろん、そうではないからといって手を抜くお方ではないが」
「まーそうなんですけどね」
素っ気なく言うと、マルガはうーんと背伸びして目を逸らす。そろそろ飽きてきたらしい。
エーリカもすこし話しすぎてしまった。そろそろグレーテルの様子を見に行かなければ。
「ではな、エーリカはもう行く。あとは任せたぞ」
「はーいエーリカ伍長、ご武運をー」
ひらひら手を振るマルガに背を向け駆けだす。グレーテルは正面の大通りと西の路地が担当だったはずだ。タマラもいるし、大騒ぎするような事態にはなっていないと思うが……
そう眼の前のことに思考を向けながらも、いつもとは確実にどこか違うヴィルヘルミナへの違和感は、エーリカの頭にこびりついて離れることがなかった。
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