2-23間者たちの内緒話
そして、数日後のこと。
「あの、ヴィルヘルミナさん!」
その純朴な声は、街のざわめきの中でもまっすぐ届いた。
ヴィルヘルミナの名を呼ぶ女性。ケストナー邸から駐屯地への帰路、大通りを歩いていた第四分隊一行は、先頭の分隊長に合わせてぴたりと止まる。ヴィルヘルミナが視線を向けた先では、親しげな笑みの若い女性がこちらへ駆けよってきているところだった。
「このあいだはありがとうございました。私のこと、覚えてますか?」
言って自らを指差す。いかにも都会慣れしていなさそうな、愛嬌と素朴さのある顔立ち。おさげに結われた髪が肩口で揺れた。
「あ……」と後ろのエーリカがちいさく声をもらす。ヴィルヘルミナにも覚えがあった。前の日曜日、酔っぱらいに捕まっていた女性だ。
名前は……薄情なことに、思い出せないが。
「もちろんだ。あの後は大丈夫だったか? ずいぶん動揺していたようなのでな、心配していたが」
「ああ、えっと、はい……その節は、ご迷惑をおかけしました」
なぜか彼女は気まずげに目を逸らし、それはそうと、と気を取りなおすように手を叩く。ヴィルヘルミナの容貌を改めてまじまじ見回すと、感慨深げに何度か頷いた。
「軍人さんだったんですね。道理で腕が立つわけです。あのとき本当にすごかったですもん。男のひとがこう、簡単に倒れちゃって」
にこにこと感情を隠さない笑顔は親しみやすく、賞賛を惜しまない素直さは好感がもてる。自分を褒めてくれているのだから尚更だ。
しかし背後に控えている部下たちのことを思えば、この名誉に甘えているわけにもいかなかった。
「すまない、そろそろ行かなければならないんだ。また休日に会えたら話そう」
「あ、そうですよね。すみません私ったら……皆さん、お仕事頑張ってください」
慌てて口をつぐみ、照れ笑いで分隊の部下たちに一礼する彼女。ヴィルヘルミナはそこでようやく思い至り、「ああ、そうだ」と踵を返した背中に呼びかけていた。
「貴女の名前を伺っても構わないだろうか。次会ったとき、私からも呼びかけられるように」
名を思い出せないのも当然のことだ。前に別れたときには聞きそびれていたのだから。
足を止めた彼女は一瞬の間をおいて振りかえり、はにかんだ笑みをのぞかせる。太陽に照らしあげられた姿には一片の陰りもなく、名を告げる声は、まるで誇るかのように高らかだった。
「テレーゼ。テレーゼ・ニコラウスです。さようなら、ヴィルヘルミナさん!」
*****
ヴィルヘルミナたちと別れた彼女は、足取りを軽くさせて人混みのなかを渡る。
努めて背後は気にしない。第四分隊の存在が意識の端を引っぱるが、だからこそ前を向きつづけるだけだ。時おりショーウィンドウに目を移ろわせ、飲食店から漂う匂いを深く吸いこみ、ごく普通の街歩きを満喫しながら路地に入る。
薄く陰の落ちるそこは誰もを受け入れるようにぽっかりと口を開け、しかし不思議と人っ子ひとり見当たらない。両脇の建物の裏口しかないものだから皆気にかけないのだ。
壁際にもたれかかって持ち歩き用の鏡を開く。あまり垢抜けない、それゆえに心のガードが緩む顔立ち。いつ見ても上出来だ。
(
はああ、と深いため息が漏れてしまう。覚悟はしていたが、これからはどんどん立ち回りが難しくなりそうだ。
そう物思いにふけっていたからか、密やかに近づく影にテレーゼと名乗った女――ライサは気がつかなかった。
「どうしたの」
唐突に耳に入ってきたのは、彼女たちの母国のことばだった。
「うわっ!? あいっ、いづづづ……」
驚きのあまり後ずさろうとして、背もたれにしていた壁に頭をぶつける。後頭部を押さえて悶絶しているライサを、目前の女は表情らしい表情を浮かべることなく見つめていた。
目立たない佇まいの女だ。目深にかぶった帽子からは意思の薄い灰色の瞳がのぞき、色彩に乏しい衣服は影のように印象に残らない。
だが顔立ち自体は整っているからずるいといつも思う。こんなの――元から塩顔の自分と違って――目につかないようにする方が大変なのに。そんな不満を覚えつつ、ライサはようやく呻きではない言葉を発することができた。
「びっくりしたあ。急にいるんだもん。声くらいかけてよ」
「かけたよ」
と抑揚のなく言われるのだが、それはつまりさっき目の前でやられたあれじゃないのか。ライサとしてはその前段階がほしかったのだが。
(相変わらずなんだからなあ、この子は)
この国に来て早々だというのに、まるでいつもの通りのペースだ。もっとも、彼女が調子を崩すところなど想像もつかないのだが……
「ま、それはそれとして。どうだった? 大丈夫っぽい?」
「大丈夫。誰も尾けてきてないし、こっちを気にする素振りもなかった。ばれてないと思うよ」
第四分隊との接触を陰から見守っていた彼女のその言葉で、ようやくライサは胸を撫でおろすことができた。
「よかったー……じゃあやっぱ、こないだのは偶然かあ。
正直、あの段階からマークされてたとすれば怖すぎるからね。ほんと嫌な汗かいちゃった。とりあえず、これから外歩く時は用心しないと」
日曜日のヴィルヘルミナとの出会いのことを思い出す。あのときはショックでそれどころじゃなかったが、まさか軍の人間だとは思わなかった。そもそもこんな国に女の軍人がいること自体知らなかったし。身をひそめてケストナー邸の暴動を観察していたときに知って相当焦ったのだ。
そう思うと、ヴィルヘルミナが女で本当によかった。傷が浅いうちに済んだというものだ。「敵」とのラブロマンスも、まあ、悪いものじゃないと思うけれど。
「こうなると、こっちの人たちの希望を呑んであげたのも存外無駄じゃなかったか。私たちとしては損害なしで向こうの戦力を観察できたわけだし……
あ、これ向こうの人に言っちゃだめだかんね。あくまでも今回は困らされたんですよ~貸しひとつですからね~って体でいかないと」
「言わないよ」
その真面目一徹な答えについ笑いが漏れてしまう。ぼんやりとライサに視線を移した彼女へ首をふって、肩を軽く叩いた。
「いやあ、あんたがいると本当心強いなあ。頼りになる用心棒さん」
これなら次に酔漢に襲われた時も――いや、どんな相手だって彼女に勝てはしない。
同じ任務を下された同僚であり、ライサの信じる仲間であり。そしてライサの知る誰よりも、凄絶なまでに強く気高い彼女には……
「さ、行こっか。今日も今日とで大忙しだもんね」
喋りを軍国語に戻し、ふたたび大通りに足を向ける。今夜も仕事相手との打ち合わせはあるのだ。
この段になってしまうと話すべきことは山ほどある。ただの状況確認では済みそうにないが、ライサにとってみれば心配ごとなどただひとつだ。
「今日は厄日じゃないといいなあ……」
そうぽつりとこぼしたライサに、傍らの彼女は意図を図りかねたのかそうでもないのか、色の薄い瞳をいくつか瞬かせただけだった。
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