1-10あなたが、届く

「んー!!! んん、んぐぅーーっ!!」


 布の轡に叫びを封じられながらも無我夢中で抵抗する。足を取られれば何度でも蹴りを入れ、肩や腕を握られれば無茶苦茶に上半身をねじった。


 か弱い妻の皮を脱ぎ捨てた今では何を憚ることもなかった。向こうもここまで暴れる相手だとは思わなかったのだろう、若干押され気味の空気が目隠しごしに感じ取れる。そのせいかだいぶ手際が悪く、幸運なことに未だ袋小路で小競り合いが続いている状況だった。

 いや、手際が悪いのは、シャルロッテの抵抗のためだけではないはずだ。


「おい、おいおい暴れんな! くっそ、なんだこいつ、話と全然違うじゃねえか」

「滅私奉公で清楚な良妻賢母とやらじゃなかったのかよ、とんだ女優だぜ……ああ、でも前は本当に女優だったんだよな」

「へえ、そうだったのか……うわっ、やめろってば! なあこれ俺たちだけじゃ無理じゃないのか? 運転席からも……」

「馬鹿言え。呼びに行く間ひとりでこの女押さえてろってのかよ、逃げられたらどうすんだ」


 シャルロッテにも直感できた、彼らは素人だ。

 やたらと口数が多くその内容にも無駄が多い。暴れるなと言う割には暴力で制そうともしない。おまけに手口までが言葉の端からちらちら窺えて、つまるところ不安なのだろう。

 こうした行為に慣れていない。だから不安を誤魔化したくて共犯と無駄口を叩く。シャルロッテの口さえ自由なら、そのあたりの隙をついて時間を稼ぐことくらいはできそうだった。


 それでも女は女、手こずらせていることは確かだが、徐々に押し負けていくのがいやというほど分かる。上半身はとうに脇をすくうかたちで拘束されている。そして繰りだした蹴り足も握られて、とうとう四肢のすべてが封じられた。


「んーーーっ!!! んんんん、んぅ!!!」


 そこからの流れは、これまでの足掻きを考えるとあまりにあっけなかった。

 まず足首が縄で縛られる。あまりに暴れたためだろう、膝の上も縛られてまともな抵抗はできなくなった。次に後ろ手に手首を。そして腕ごと胴体を拘束され、ようやく男たちがひと息つくのが分かった。


「やっと大人しくなったな……ったく、手こずらせやがって」

「ほら気を抜いてる場合じゃないぞ。次だ次」


 がこん、となにか軽いものをずらすような音がした。せーのの声で死体でも運ぶように持ち上げられ、ずれた目隠しの端から見えたもので行く末を悟る。

 あの木箱だ。あそこにシャルロッテを詰めてトラックで運び出す、そういう算段なのだろう。


(冗談じゃない――!)


 かっと胸のなかで火勢が増す。しかし両手両足の自由を奪われた今では打ちあげられた魚のように跳ねるばかりで、男たちの手のひとつも振り払えなかった。

 頭から肺にかけてが煮えたぎるように熱くなる。じわりと浮いた涙が目隠しの布に染みていく。敗北感と屈辱感と無力感がないまぜになって血管中を駆けめぐり、ただただ悔しいだけだった。


(どうして、私は)


 どうしていつもこうなのだろう。なぜ自分は何にも抗えないのだろう。


 この理不尽な世の中にも、自分を玩弄するばかりのアルバートにも、そんな自分の境遇にも、なにひとつだって勝てやしない。どんなに立ち向かったところでまるで空気を叩くようで、シャルロッテひとりが空回っては絡めとられていく。

 最初から無理な話だったのだろうか。世の摂理に逆らおうとした罰なのだろうか。あるいは、欺き演じつづけてきた不義に対する報いなのか。けれどシャルロッテは、そのどれもを悔いようとは思わなかった。


 シャルロッテが願うものも、シャルロッテが支えとするものも、シャルロッテが恐れるものもたったのひとつだけだ。


『私たちふたり、次に逢ったときにはね――』


 果たされない約束。届かない邂逅。自分の無力と弱さと無様のために、叶わないものとなってしまったいつかのふたりの夢。

 甘やかなあの日の記憶を、いまシャルロッテは裏切っている。


 抵抗虚しく木箱に投げこまれる。なんとか身体を起こし蓋だけは閉めさせまいとしたものの、男たちも我慢の限界がきたのだろう、思い切り腹を踏みつけられた。

 くずおれ痛みに悶えているうちに蓋の乗せられる音がする。最後の道さえ閉ざされていく。どんなに抗っても敵わない、そんなものがもう宿命のようにすら感じられて。


「ミーナ……」 


 そう、最後の未練に縋るように小さく泣いた。 


 応えたのは靴音。どこかから舞い降りたその脚が、地にほど近く蹲るシャルロッテだからこそ聞こえた。


 駆けてくる。たたた、と軽快にすら思える足音は段々に大きくなり、シャルロッテの頭上で弾けて男の悲鳴に変わる。二人の男の情けない声が交互に響いて、ついにはシャルロッテの足の先あたりまで離れていった。

 何が起こったのか理解できなかった。痛みも感情の迸りも忘れ、ただ呆然と箱の外の気配を探る間に、蓋に手をかける音がした。蓋が開かれていくのが分かった。誰かの視線を感じた。

 こぼれ落ちたのはくっと息の詰まるような声で、その吐息を、シャルロッテはなぜだかよく知っている気がしたのだ。


「……よく頑張ってくれた。ここからは私に任せてくれ、


 その言葉に、どくんと全身の細胞が呼び起こされた。


 心臓へ一気に血が流れこむ。耳の奥で鼓動がうるさく鳴っている。すこし掠れた、思春期の少年のような声音。凛々しく芯の通った気高さと、裏で滲む優しさ。そして何よりその呼び方を。


 知っている。シャルロッテは彼女を知っている、この身のすべてで彼女を記憶している。

 それはまるで夢のようで、あまりに都合のよすぎる幻のようで、それでいてシャルロッテがただひとつ恐れていた――


「お、おま……何なんだよ、お前はぁっ!」


 男が叫ぶ。かつ、と踵を再び鳴らした彼女は、シャルロッテに向けた囁きとはまるで違う、絶対零度の鋭さで名乗りを発した。


「特別措置小隊第四分隊長、ヴィルヘルミナ・シュテルンブルク軍曹だ。保護対象へ危害を及ぼしたかどで、貴様らを拘束する」

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