第263話 治る(3)暴走

 ガラスの向こう側にいる女性は、まるで幼児だった。言葉も喋れず、あぁ、とか、うぅ、とか言うばかりだ。ほんの数分前は、まだ絵本の挿絵を指さして「これは何」と言っていたし、数十分前は人の区別がつかなくなっただけだし、一時間程前は突然激しい物忘れをしだしただけだったのに。

「これは、一体?」

 泣き崩れる家族は別室におり、幼稚園児の子供は、母親の豹変に呆然としていた。夫は、脳腫瘍を宣告された時以上に打ちひしがれ、途方に暮れている。

 主治医も、わけがわからないという苛立ちと焦りを滲ませながら、僕達に説明をした。

「患者は脳腫瘍が見付かったのですが、場所が悪く、外科的治療もできず、放射線もできず、化学療法を行っていたのです。しかしこれも、はかばかしい結果が得られていませんでした。

 それが、つい3日前の検査ではきれいに腫瘍がなくなっており、どうしたのかと訊いたら、奇蹟の巫女の祈祷を受けたのだと言うんですよ。手を取られるだけで、どんな病気も治るのだと。

 信じられないとは思いましたが、現実として腫瘍が消えているのですから、言う事もありませんでした。ただ、経過観察はした方がいいとは言っておきましたが。

 そして今朝、様子がおかしいと救急で搬送されて来ました。あまりにも急激に物忘れをしだし、救急車を待っている間にも、家族の名前などが分からなくなっていったそうです。その後もどんどん症状はひどくなり、検査の結果、あり得ない事に、脳が新陳代謝して記憶が無くなっているとしか考えられないのです」

 脳は、新陳代謝しない。したら、記憶が消えて大変だ。それなのに、したという。

「脳が新陳代謝する可能性は?」

「ゼロです」

 徳川さんの問いに、主治医が言い切る。

「止められますか」

「……原因もわからない。無理ですね。今後の予想もつかない……!」

 主治医は、血を吐くように言った。

 患者をじっと見る。

 神威の残滓とでもいうのか、そういう気配が漂ってはいた。でもそれを取り除いたところで、元には戻らない。家族にしてみたら、残酷な話だ。脳腫瘍ができ、それが奇蹟で消えたと思ったら、これだ。

「他にも被害が出て来るかも知れません。とにかく、あそこに行ってみます」

「僕も行こう。

 他の患者も調べてみてくれ」

 徳川さんは沢井さん達にそう指示して、僕と直と3人で奇蹟の巫女の所に向かった。


 着いた時、依頼人が、祈祷を終えて立ち上がった所だった。僕達は車を降り、門を潜った。

 異変は、その時起こった。ざわざわと泡立つような気配が辺りを覆い、木々が風も無いのに枝をしならせ、悲鳴が上がる。

 巫女が倒れていた。そして、近寄ろうとした祈祷を終えたばかりの依頼人も、顔を押さえてうずくまる。

 巫女から、暴力的なものが溢れ出ていた。それは、圧倒的な力の奔流だ。

「直、結界を」

 直が、即座に札を飛ばす。

 結界に囲まれた敷地の中では、目を疑うような事象が起こっていた。草木が見る見る成長し、足元の雑草も腰程度の高さまで生い茂り、植木は大木へと成長する。庭にいたアリはネズミ程にもなり、投げつけられた湯飲みを顎で噛み砕いた。

 待っていた依頼人達は悲鳴を上げて奥へと逃げ込む。

「何だ、これは?」

「さっきの患者と同じ、暴走でしょう」

 言いながら座敷に上がると、インコほどもある蚊を斬る。

「ああああ……」

 うずくまっていた依頼人が声を上げて、そちらを見る。と、指の間から、何かがポトリと落ちた。

 よく見て、それが眼球だと分かった時、続けて眼球がボトボトと落下した。

「きゃあああ!!」

 後ずさる依頼人達の前で、祈祷の終わった依頼人は、眼下から眼球を生み出し続けて、倒れ込んだ。

「おい」

 巫女に声をかけるも、意識はないようだ。グニャリと操られるようにして立ち上がると、白目を剥き、涎をたらしたまま、仁王立ちになる。

「神を強引に取り込んで力を奪ったものの、制御できなかったのか」

 巫女の体を乗っ取り返した神は、ただ純粋な力と怒りになっていた。

「怜君!?」

「新陳代謝を促して病気を治すというのが変質して、暴走していますね。取り込んで鎮めるにしても、巫女は廃人になる核率が高い。やりますか」

「やむを得ないね。どのみち、手はないだろう?」

「こっちはボクがやるよう」

 直が、アリを封じ込めて、圧縮して始末していた。

 僕は、巫女に手を伸ばした。








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