第97話 夢と現(1)ぼくとクロ
返却されたテストの答案用紙を丸めて投げつけると、クロは、キュッと身を縮めた。
「クソッ!」
何をやっても上手く行かない、面白くない。
クロは丸めた紙くずを鼻先で突き、ハッハッと息を吐く。
「何だよ、クロはいつも気楽そうでいいな、おい」
イライラと頭を掻きむしる。正体不明のどす黒いような熱が、体の奥でとぐろを巻いているようだ。
クロと呼んではいるが、元々、飼っていたわけではない。隣の空き家に住み着いた野良犬で、元飼い犬なのか大人しく、エサと水をやっている内に、うちの犬みたいになっているのだ。クロというのも、毛並みが黒いから、それだけだ。
テストの点は芳しくなく、第一志望どころか、このままでは第二志望も危うい。
その上、映画に誘ってみようと思っていた女の子が、よりによって、隣のクラスのあいつと付き合っていると今日聞いたのだ。もう、最悪だ。
「クソクソクソッ!」
足元の小石を蹴ったら、クロに当たった。
あ、と思ったのは一瞬で、次いで、クロの顔を見たら、昏い楽しさが湧き上がって来た。
「クロ、クーロ」
呼んで、近寄って来たところを、サッカーボールのように蹴り上げる。
「キャウン!」
「ごめんよお」
足を踏みつける。
「キュウウン、ワン、キュウウ」
「あははは、ごめんなあ、クロ。
スッキリしたあ。はい、ごはんだぞ」
ドッグフードをほんの少しだけ、パラパラと撒く。
「また、明日なあ」
渉は、明るい顔で笑った。
協会から回されてきた仕事は早く済み、悠々と帰途に就いた。
「早く片付いて良かったなあ」
僕が言うのに、直も、
「ただの寂しがりやの幽霊だったからねえ」
と言う。
町田 直、幼稚園からの友人だ。要領が良くて人懐っこく、驚異の人脈を持っている。夏以降直も、霊が見え、会話ができる体質になったので本当に心強い。だがその前から、僕の事情にも精通し、いつも無条件で助けてくれた、大切な相棒だ。霊能師としては、祓えないが、屈指の札使いであり、インコ使いでもある。
この様子だと夕方のタイムセールに間に合うか、と思いながら歩いていると、ヒョコヒョコと足を引きながら項垂れて歩いて来る犬を見かけた。
「あの犬、ケガしてるんじゃないか」
首輪はしているが、毛は汚れている。野良だろうか。
近寄っても、多少警戒はしているようだが、こっちが何もしそうにないとわかると、大人しく座った。
「車にでもぶつかったのか?病院行くか」
「この近くだと、向こうにあるハッピー動物病院の評判がいいなあ。やたらと薬漬けにするんではなくて、丁寧に診てくれるらしいよ」
「じゃあ、そこにしよう。
もう少し歩けるか?」
言う事がわかるのか、僕達が歩きかけると、立ち上がってついて来る。
「おお。頭がいいな」
ゆっくりと、病院に向けて歩く。
と、後ろから、声がかかった。
「それ、うちのクロです」
振り返ると、中学生くらいの少年が、まだ新しいリードを手に立っていた。
「目を離したすきに逃げ出しちゃって」
クロと呼ばれた犬は、クウウンと鳴いて、人間3人を順に見上げた。
「ケガしてるようだけど」
「あれ、本当だ。どうしたんだろう。一度帰って、すぐに病院に連れて行きます。どうもすみませんでした」
言いながら、リードを首輪につなぎ、クロを軽く引いて歩き出す。
「お大事に」
「ウウ、ウワン」
クロはこちらを一度振り返って鳴くと、トボトボと、少年に引かれて歩いて行った。
直とそれを見送っていたが、直がポツリと言う。
「何か気になるなあ」
「うん。本当に飼い犬かなあ」
「つけて家を確認しておく?」
「そこまで……しとこうか、うん」
そしてこっそり後をつけ、その少年が、白金という表札のかかる家に入って行くのを見た。
ふんわりと香りの立つ桜エビご飯、もやしとブタの重ね蒸し、きんぴら、豆腐とわかめの味噌汁。もやしとブタは重ねて蒸し、ポン酢をかけて食べるのだが、あっさりとしている。桜エビも香ばしいような香りで、土鍋で炊いたので余計にいい。
「動物虐待を疑ってるのか」
兄はひととおり箸を付けてから言った。
御崎 司、ひと回り年上の兄だ。若手で1番のエースと言われる刑事で、肝入りで新設された陰陽課に配属されている。両親が事故死してからは親代わりとして僕を育ててくれ、感謝してもしきれない。頭が良くてスポーツも得意、クールなハンサムで、弟の僕から見てもカッコいい、自慢の兄だ。
「ううーん。そこまでじゃないんだけど、何ていうか、気になるような……」
「動物虐待は、放って置いてエスカレートする事もあるからな。付近の交番に、巡回を頼んでおこう。何もなければそれでいい」
「うん、ありがとう」
何も起こらない事を、祈るばかりだった。
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