第7章 サクラチル、サクラサク
第79話 気乗りしないふたつの予定
二〇一一年三月十一日。関東はまだ真冬の寒さだ。そんなふうに感じていたのは渚沙が普段温暖なトラタ共和国に住んでいるからなのかもしれない。個人の家庭や店、公共の乗り物でも、まだエアコンや暖房器具がふんだんに使われていた。この日、義務的にこなさなくてはならないふたつの予定はまったく気乗りしないもので、ひとつ目が人との面会で、ふたつ目が夕時の「美」のパーティーだ。
面会相手は、カウンセラーの
四月初旬にトラタ共和国へ共に出発する予定だが、どんな人かはまったく知らされていない。おおよそ彼の客だろう。一緒にトラタ共和国に行くために事前に会う必要性は全くないのだが、原島克昭は、いやに強引に渚沙に面会を求めて来た。断れない勢いだったので仕方なく会う約束をした。
二人は、遠方からわざわざ上京するという。渚沙が滞在している川崎に来てもらうのは不便で気の毒なので、都心で駅も目の前にある、パーティー会場となる同じホテルに来てもらうことにした。最初の面会の約束が午後四時。パーティーは六時半に開演する。同じ建物なので慌てずに済むし、面会時間は二時間ちょっとあり、ちょうどいいはずだ。
早々に起きてはいたが、渚沙は昼前の十一時頃からゆっくりと出掛ける準備を始めた。雪子のノートパソコンで、電車の時間と乗換駅を調べ印刷した。午後三時にマンションを出れば十分間に合うが、準備が出来次第、すぐに出掛けるつもりだった。
少し前にシャワーを浴びて全自動洗濯機を回していた。既に三分の二くらいの行程に入ってから、白い鍵編みのカーディガンを洗い忘れていたことに気づいた。途中から洗濯機に入れるには遅すぎた。その白いカーディガンは、唯一ほんの少しだけ豪華で上品に見える、パーティーのための大事な衣装のパーツだ。
渚沙は自分らしくないな、と首を傾げた。欠かせない用事や仕事を忘れることはなく、渚沙にとっては珍しいことだ。急いで手洗いし、エアコンの前に巧みにハンガーをかけて、カーディガンを乾かすことにした。
前回洗ってから一度も袖を通していないそのカーディガンは、本当は洗濯する必要がなかった。単に気分的なもので、洗い立てを着れば、少しだけ新鮮な気持ちになれると思ったからだ。トラタ共和国では毎日、伝統の民族衣装を着ているし、たまに帰る日本には外出用に着られる服も置いていない。それなのに、これからめかしこんだ女たちが集まるパーティーに出なくてはいけないのだ。
パーティーはけっこう盛大らしい。マスコミも来るという。主催者の運営しているSNSを利用している著名人は多い。誰かしらサプライズで登場するのではないか。
指定のファッションコードはセミフォーマル。そんなにいい加減な格好はできない。渚沙は、母親から服を借りることにした。母親はファッションセンスがあり、渚沙でも着られるような若々しい服をけっこう持っている。自分の秘書時代の服も検討したがピンとこない。ブラウンがベースになっている花柄のチャイナドレスと、少し洒落たハンドバッグを借りた。
渚沙は物憂げに他の参加者の姿を想像して、いよいよ嫌気が差してきた。ファッション雑誌から抜け出て来たような華やかな女たちの間にはとても入れない。
頼めば、渚沙が美のパーティーに参加するために「変身」の手伝いをしてくれるような友達は何人かいるが、渚沙は、パーティーのことは雪子にも、友達の誰にも話していなかった。いつも、自分のことは人にはあまり話さないタイプなのだ。
渚沙は用意していたチャイナドレスを着ると、洗面所の鏡の前で化粧をどうしようかと悩み出した。まずファンデーションはとても塗れない。べたっとした感覚が耐えられないほど気持ち悪い。結局、パーティーのために派手な顔にするのがどうしても嫌で、いつも通り、ナチュラル風でいくことに決めた。保湿ローションを塗り、少し眉を描くだけだ。唯一特別なのは、ほんのりとピンクに色着く薬用リップを塗ることだ。高かろうが安かろうが口紅を使うとすぐに荒れてしまうくらい唇が繊細なので、前日に駅前の薬局で買っておいたのだ。
午後二時頃になると、三時にマンションを出るのに充分間に合うはずなのに、渚沙は不思議なほど追いつめられているような焦りを感じ始めた。何故か、「もう間に合わない、どうしよう」と思っている。
それは、今日のパーティー必須のアイテム、カーディガンを洗い忘れたからなのか。または、顔と髪を整えるのに悩んでいたからなのか。いくら嫌な約束でも、いつもはこんなふうにはならない。
気に入らないことに、エアコンの下に器用にハンガーにかけてぶら下げた例の白いカーディガンは、二時間近く温風にさらされているのにまだ半乾きだ。だが、それはたいした問題ではない。カーディガンは薄手なので、大きめの紙袋に入れて電車で移動し、原島克昭との面会を済ませているうちに自然に乾いてしまうだろう。
渚沙は、訳の分からない焦燥感に駆られながら、洗面所の鏡の前で右の眉を描き始めた。
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