第74話 胸騒ぎ
二〇一一年二月二十二日。ニュージーランドで起こった、マグニチュード六・一の地震のニュースが飛び込んできた。ちょうど語学留学中の日本人たちがいたビルが全壊。十三ヶ国の外国人の中で一番多い犠牲者が、なんと日本人だという。命からがら助かった青年が、足を切断して救出されなければならなかったという話に渚沙はぞっとした。
まだ実家に滞在中の渚沙は、この地震のニュースを見て何かおかしい、奇妙だと思った。訳の分からない胸騒ぎに沈黙していることに耐えられず、渚沙は数日後、再度SNSでナータから指摘された、日本の自然災害の理由について警告した。それが二〇一一年二月二十六日だ。震災前の最後の警告である。二〇一〇年九月にアカウントを開設してから、もう何度ナータの言葉をSNSで繰り返したか分からない。削除したこともあったが、それでも五、六回の警告が今も残されたままになっている。何故、ニュージーランドの地震で日本人の被害者がこんなに多いのか……。
「この世は百パーセント、原因と結果の法則で成り立っている」というではないか。幸運、不運という言葉は原因と結果の意味を百パーセント含んでいるのだ。つまり、この件に関しても、日本人が海外で被害に遭ったことはただの不運や偶然ではないと考えるべきなのでは……。
一部の同国人が犯して来た罪を共有しなければならない我々は、たとえ日本にいなくても運命からは逃れられないということなのか。誰かが日本で盗みを働き、その人物が海外に逃げても盗みを働いた犯罪者であることには変わりない。一生ついて回る不名誉であり、たとえ死んでも報いからも逃れられないということを考えてみると、やはりそういうことになるのだろうか?
それから間もない頃、東京行きの十日ほど前だった。渚沙がテレビを見ていると、コマーシャルになり、かの巨大カルト団体X会の名前がスポンサーとしてスクリーンのど真ん中に出てきて驚愕した。
その瞬間、あるひとつの絵、または写真のようなものが渚沙の脳裏に浮かんだ。日本列島の上に、重くて厚い黒雲がのしかかり、それを斜め上空から見下ろしている形だった。それが、具体的に何かを意味していたのか、単に不快なイメージとしての絵だったのどうかは未だわからない。普段、渚沙には起こらないことだ。
「なんでこんなコマーシャルやっているの?」渚沙は眉根を寄せて思わず近くにいた母親に尋ねる。
「いつもやってるわよ」仕方のない人たちなのよと、と呑気にいう。
渚沙の家族は、新興宗教団体全般に距離を置いているが、毛嫌いしている訳でもない。しつこい戸別訪問にも、家族の誰もが丁寧に応対し柔らかく断っている。
「なんか悲しいね」
「うん」そう答えたが、母親はそれほど気にもしていないようだ。
日本人は麻痺している。たいていの新興宗教団体なら大目に見ることが出来ただろう。しかし、あの異常に排他的なカルト団体X会である。渚沙は胸騒ぎを覚えた。こんなカルト組織をコマーシャルに出すなんてどうかしている。日本はいったいどうしちゃったんだろう――。この時、それまで経験したことのない、たとえようもない不安が
長いこと日本を離れている人間が久しく戻って来ると、以前とは異なる習慣や空気にすぐに気づいてしまうものだ。それまでの過去十五年間でトラタ共和国から帰国した中で、偶然目にした今回のカルト団体のテレビコマーシャルは最悪のものだ。悪の手先となっている連中が力をつけ、日本列島を占拠しはじめているような嫌な感じがした。頭で考えたことではない。この時まだ、渚沙は団体X会が犯していた恐るべき大罪については何ひとつ知らなかった。
その数日後、東京行きの四日前だった。昼間テレビを見ていると子供向けの番組が始まった。それは、紙芝居のような絵を使った昔話だった。ある山の上の農夫が、海岸の方角に目をやっていると、海水がすっかりなくなって地面が顔を出していた。奇妙な静寂が広がる。男は、とっさに昔おじいさんがしていた話と状況がまったく同じであることに気づいた。おじいさんの話によると、やがて先程より遥かに大型の波が戻って来て、山裾の村をすべて飲み込んでしまうのだ。男は、農作物に火を付け始めた。家族は、気がふれたかと思い男を止めようとしたが、男は必死で作物を燃やし続けた。
山下の村人たちは山頂の火を見て驚き、様子を見に山を登ってきた。するとその時、水平線の向こうから大きな波が次第に高くなって陸に近付いてきたのである。海水は、見る見るうちに村を飲み込んでしまった。お蔭で村人たちが命拾いしたという大津波がテーマの昔話であった。やけにリアルな感じのする物語であったにも関わらず、なんの説明もなくその番組は終わってしまった。
「これ、本当にあった話かなぁ?」渚沙はなんとなく気になって、一緒に見ていた母親に尋ねた。
「そうなんじゃない?」少し間を置いてから母親が答えた。
溝口安江が、入院するというメールを送ってきたのは、東京行きの二日前だった。
「たいしたことはないんだけど、検査に行ったら近くの都立病院に緊急入院することになったの。心配しないでね」
いったい何の病気なのだろう。もしやまたあれか――癌?
安江は何年か前に子宮癌で死にかけて、奇跡的に回復したと話していた。お勧めだという下町のトラタ共和国料理店に連れて行ってくれた時に、安江はその癌のことを初めて渚沙に明かした。「それなのにまだ煙草吸うんだね」と渚沙が呆れていると、安江はへらへらと笑いながら料理が出てくるまでずっと煙草を吸い続けていた。それが一年前のことだ。
緊急入院したとだけ急にいわれても、飛行機だって予約してしまったし、どうすればいいのだろう。来ないで欲しいということなのか? 連絡はそれっきりで安江は何もいってこない。緊急入院したくらいだから、誰かに連絡することなど不可能な状況なのだろう。渚沙も連絡を控えた。
東京行きをキャンセルできないことはない。だが、それほど苦しいこともない。ここから一日も早く脱出したくて仕方なかったのだから。三月十一日には、東京のパーティーにも出席しなくてはいけない。東京に行って病院で安江の手伝いをさせてもらえばいい。安江は高齢の母親と老犬と同居しているというから、予定通り宿泊可能ならば安江の家族の役にも立てる。
とにかく行ってみよう――二〇一一年三月九日、渚沙は東京に飛んだ。いつもの「行き当たりばったり」で動く癖が出たのだ。それで不運に遭ったことはほとんどなかった。
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