第55話 偽聖者から破門された人

 井上潤次郎には、アンという名の外国人妻がいる。アンは、とあるアジアの国の元トップモデルだ。彼女は時々ツアーに同伴していたが、あまりトラタ共和国が好きではないといっており、二人きりになると井上を困らせていたらしい。もとより少々我がままなところがあって、その上、十も年下の美人モデルだからとメロメロであった井上が甘やかしていたと聞く。だとしたら、彼女の我がままは井上にも責任があるだろう。


 しかし、アンのその気持ちは渚沙にはよく理解できた。当時のツアーの移動や滞在の不便さと不快さは、渚沙にとっても辛いものだった。

 近年、別国にいるのではないかと思えるほど立派な高速道路ができ、空港も美しく新設されて随分近代化された。しかし、長年住み慣れた今でさえ、ちょこっと外出するだけで毎度同じような苦痛を感じる。そのため渚沙は、すっかり出不精になり一ヶ月以上外出しないことが度々ある。


 アンには、母国にヒルトンホテルの経営者の娘で大金持ちの女友達がいる聞いているので、アン自身も良家のお嬢様なのかもしれない。アンはナータのことは好きだが、本当のところトラタ共和国には同行したくないという。夫の井上から一緒に行こうと誘われると仕方なくついて来ることもある、そういう感じに見えた。

  

 井上がナータの寺院にぱったり姿を見せなくなってから、二年ほど経った頃だろうか。井上がカリルからされたという噂を耳にした。その原因が、なんと彼の妻アンらしい。


 ある時アンは、金を持ってこなければ離婚すると夫の井上を脅した。要求した額があり、確か二百万円だった。

 渚沙はアンからは悪意を想像できなかった。だいたいにして、アンが金に困っているようには思えない。脅したというより、子供のようにご機嫌斜めで、いつもの片言の日本語でアンが井上をなじったシーンを思い浮かべた。夫の馬鹿馬鹿しい活動にはもうついていけない、いい加減留守ばかりで退屈だしちょっと我がままいって困らせてやろう、くらいのつもりだったに違いない。


 一方、井上のほうは珍しく取り乱して必死だった。井上には両親がいなくて孤独を体験したことがあった。だから、アンがいてくれなければ生きていけない、というようなことをアシスタントの小島栄こじまさかえにいったそうだ。普段、弱さなど一切感じさせることのない井上だが、彼には妻の存在が唯一の支えだったのだろう。 


 それで、井上はどうしたかというと、カリルに支払うセミナー料金やら寄付金やらの名目で日本人たちから金を集めた。井上はそれで約束の二百万円を作り、アンに渡した。そのことがカリルに知られ、みんなの前で破門されたということだった。



 カリルのような若造の偽聖者に追い出されるとは、井上も随分落ちぶれてしまったものだ。さらに渚沙は、慙愧ざんきに耐えない井上の話を日本人たちから聞かされた。

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