番外編 思い出の仮面旅行 その1
渚沙がトラタ共和国に来たばかりの頃、ナータは側近や永住者たちと共に、毎年、夏期に国内を旅行していた。最初は男性ばかりで、二、三人の側近と永住者を一人連れていた。数年すると、永住者も倍ほどの人数に増えて、渚沙を含めるほぼ全員の永住者と、一人か二人の男性訪問者を同伴させてくれるようになった。
ナータを知っている人なら羨ましいという。だが、渚沙にとっては二度と行きたくない恐怖の旅行だ。みんなで出し合う費用はぎりぎりで、どこに行っても不便で、たいへん質素な旅だった。
発展途上国を旅行することがどれくらい難儀か想像してみてほしい。体力と忍耐力を要する、誰にとっても肉体的精神的苦痛を伴うハードスケジュール。それに、もちろん、遊びのためではない。
その証といえそうな話がある。
永住者の男性と側近の一人は、ある寺の神像から魂のようなものが飛び出してきて、ナータの足元に平伏し、その足に触れてまた元の神像に戻っていったのを目撃した。神像の中に宿っていた神さまは、至高の神の化身であるナータに祝福をもらいたかったのだろう。神や聖者の足に触れれば、自動的に祝福されることは渚沙も知っていた。
ナータは日頃から自分の行為に関していちいち説明しないのだが、二人の話を聞いてお忍びの仮面旅行の重要性を改めて理解した。
それでも、永住者の中には、旅行のハードさゆえに毎回留守番をする者がいたし、渚沙にとってもほとんどが苦痛の思い出で、もし今、旅行の話が出たら辞退するだろう。
渚沙の場合は、最年少だったのでいつもいろいろ我慢しなければなかったからだ。永住者は渚沙以外、年金をもらっているような年なのに、子供のような性格の人もいて、自分勝手に振舞ったり、小さなことでめそめそと泣き出したりする者もいる。特に旅行中に我がままさが倍増するから不思議だ。
ナータ、それに我慢強い渚沙が、主に彼らの我がままのとばっちりを受けた。
ナータは子供のような同伴者たちのせいで自分がみじめな立場にあっても、絶対に彼らを叱らなかった。常に、何でも許してしまう母親のようだった。寺院ではみんなに厳しいのに旅行中はいつもそうだった。
渚沙はその当時、一番人を批判していた時期で、そんな彼らに我慢できず、いつも心の中で苛立っていた。
「他人を悪く思うのは、悪口をいうより良くないことだ。それに、悪い人のことばかり考えていると、その人の悪い性質がうつるのだから」ある日ナータがみんなにいった。が、特に渚沙への言葉のように感じられた。
ええー、そうなの? 悪口をいうほうがいけないと思ってた。私、いろんな辛いことを我慢してきたのに……。
しかも絶対に自分は悪くないと思える状況ばかりだ。だからこそ、過剰に悪く考えていたのかもしれない。
その頃、年配の永住者仲間や現地人の不条理さに翻弄されていた渚沙は、それらのナータの言葉を聞いて、自分がネガティブ思想に陥っていることに初めて気づいた。他人の悪い性質がうつるという奇妙な話も、思い当たることがあった。
いずれにしろ、ナータの言葉は的確で鋭い。悪いことを考えてもいいことはない。事実、他人のことを悪く思っていたら、決して幸せな気分ではいられないのだから。
旅行をしていた頃、渚沙はちょうど、その心癖を直すのに苦労している最中だった。
秘書時代に厳しい上下関係の中での振る舞いに慣れていた最年少の渚沙は、外には決して不満や怒りを出さなかったが、なんでもお見通しのナータは、ネガティブな時の渚沙にえらく厳しかった。
旅行中も例外ではない。子供のような仲間のことを、親のように優しく見守るようにと渚沙にいいたいらしい。だが、彼らの外見は渚沙よりずっと大人だ。実際に渚沙は彼らの親でもなんでもない。寛大な気持ちにはとてもなれない。そのせいで、旅行中、ナータは渚沙を頻繁に無視することさえした。
いつの頃からか旅行には、ナータの食事の料理を担当している現地人の女性が同伴するようになった。旅行中は料理するわけではないが、食事中でも何時でもいつもナータのそばにいて、世話を焼きたがった。
既婚者の彼女はナータよりも年上である。背は百四十センチほどしかないのに、横幅もそれくらいあるのではないかと思えるほど体型がボールのように丸い。彼女ほど太った人を渚沙は見たことがない。女相撲取りになれそうだが、少し歩くのも
しかし、彼女は、口と雰囲気だけで即相手を倒せるツワモノだった。視界に入る他人の一挙一動を監視し、理由もなく、飛び出しそうな大きな目で
その料理係は旅行中、渚沙のことをことごとく目の
数年後、この料理人は、心臓の悪い夫の面倒をちゃんと見るようにナータからいわれ、寺院の出入りを禁止された。後に、彼女は、渚沙がナータの部屋から濡れた髪で出てきたのを見たというありえない作り話を吹聴したり、寺院の物を盗んだり、フミから高価な装飾品を受け取ったりしていたと聞いて仰天した。
ナータは寛大すぎるほど長期にわたって人を許し続けるが、限界を設けているようだ。いつまで経っても何も学ばず、
普段は母親のように面倒見が良く、決して嫌いな人ではなかったが、この料理人に意地悪をされたこともまた、旅行が辛くて悲しい、不快な思い出である主な理由だった。
「お願いです、私は留守番をしていますから他のみなさんとお出かけください。精神的に未熟な私にとって、あの人たちと共に旅行することはとても無理です、どうぞご勘弁ください。みなさんと遠慮なく楽しんできて下さい」
ある年、夏が近づいてきたので、渚沙は幾度かナータの顔を見ながら真剣に心の中で話しかけた。
すると、ナータはその度に、同情するような表情で渚沙の顔を見ていた。
ある時、「年をとったら、もう旅行はできなくなるよ」とみんなにいってから、ナータは渚沙に視線を向けた。
それはそうだろう。あの肉体的なハードさには若いから耐えられるのだ。それはさておき、いつもの面々は必ず同伴するだろうし、精神的苦痛も避けられない。ナータと二人きりならともかく……とありえない選択肢に二重線を引いて、渚沙の中でやっぱり行きたくないという結果に至った。
以来、ナータは旅行には二度といかなくなったのである。これは、渚沙のせいなのだろうか? 渚沙を置いて行っても全然よかったのに……。
さて、これらのことは渚沙個人の低レベルなおまけの話でしかない。ナータの旅行に同伴させてもらったことで、貴重な興味深い体験をいくつかしていた。
ナータは旅行中、いつも一般人と同じ格好をしており、誰もその正体に気づかなかった。渚沙はそれを面白おかしく観察していた。だって、まさに「水戸黄門」状態なのだから。
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