第25話 無理やり頼まれた仕事

 週末に、渚沙はシャンタム・ボランティアセンターに行き、ホームレスの自立支援のためのボランティア活動に参加した。みんなで配布用の弁当を用意し、新宿駅に移動する準備をしていた。


「あの、セドールさん。もう一人のシャンタムって知ってますか。シャンタムって二人いるらしいんですけど」

 渚沙は、センターで時々見かける四十代半ばくらいのフランス人のセドールという男性を捕まえて質問した。なんとなく話しやすい人なのだ。

「ああ、わたし、その人に会ったよ」彼は少しなまりのある日本語でさらりと答えた。

「ええっ、本当ですか?」

「うん」セドールは落ち着き払っている。

「その人はシャンタムと似ているんですか」

「……似てる。よく似てるよ」彼は深く考え込むようにそういった。

 何故だかわからないが、日本人にはこの話はしないほうがいいと思っていたので、セドールに聞いて正解だった。しかも彼は本人に会ったというのだから。

 井上から電話で話を聞いた時点で、渚沙の中で、二人のシャンタムは中身がまったく同一、同じ神の生まれ変わりだと100パーセント確信していたが、容姿まで似ているとは予想外だった。

 

 数日後、井上潤次郎が電話をかけてきた。

 もう一人のシャンタムに関する英語の本があり、それを渚沙に訳して欲しいという。井上個人が、仕事として報酬ほうしゅうを払うから是非やってもらいたいと。

「それは無理です。私にはできません」渚沙は即刻断った。

 その翻訳の仕事をすれば、もう一人のシャンタムにぐんと近づける気がした。だが、お金をもらえるほどの翻訳の能力は渚沙にはない。シャンタム・ボランティアセンターで、渚沙のから任された本の訳は、無償だし期限もないのでゆっくり進めてかまわないものだ。なにより、指導や監修をしてくれる翻訳家である過去の父親がいるので心強い。しかし、井上からもらう仕事は一人でやらなければいけないだろう。経験不足で無理だ。お金などとても受け取れない。渚沙はそう弁明したが、井上はなかなか引き下がらなかった。


 しばらく押し問答が続き、最後に井上がこういった。

「勉強しながら翻訳してくれればいいから」

「……わかりました」そこまでいうなら、と渚沙は根負こんまけしてしまった。 

 井上は一ヶ月後に、二人のシャンタムに会うためのトラタ共和国行きのツアーを開催するという。井上がツアーに誘うので、翻訳の仕事をするために同行し、そのまま現地に三ヶ月滞在させて欲しいと渚沙は申し出た。井上は快諾した。もう一人のシャンタムのことを知る人は日本には井上しかいないし、日本ではまだ書籍も出版されていない。参考になるものは皆無に等しい。本の著者は現地人なので、疑問があればすべて現地の人に聞く必要がある。インターネットでやり取りできる環境もなく、その方法しかなかったのだ。

 それから井上は、二人のシャンタムについてまとめたので本にするつもりでいると渚沙に明かした。出版社を探しに東京に出るから、翻訳とツアーの話もできるし、よかったら会わないかというので渚沙は承知した。一週間後に四谷駅で落ち合う約束をし電話を切った。


 なんという運命の展開だろうか。会社を辞めてから一年半も経っていない。渚沙はここまで来るのに、何一つ自分から進んで動いていないことに気づいていた。――会社で上司から無理やり本を読まされたところから始まり、ほとんど知らない蒲田かまたより子からトラタ共和国に行こうと誘われ、シャンタムに会いに行った。そのツアーリーダーだった井上とは縁を切ったつもりだったのに、仙人からの依頼で再度連絡を取ることになった。そのお陰でもう一人のシャンタムの存在を知る。何度も断ったのにできない翻訳の仕事をついに引き受け、運命を感じたシャンタム・ナンバーツーのところへ向かうことになったのだ。渚沙は彼の元へぐいぐいと引き寄せられている。途轍とてつもない速さだ。

 

 井上潤次郎との約束の日が来た。井上は原稿を手に、いくつかの出版社を回った。渚沙はおとなしくついて行っただけである。例の、科学者が書いたシャンタムのベストセラー本を出した出版社を井上はまず訪れた。小さな会社であるが、その本のお陰で国内で知られるようになった。社長は前向きな感じで井上の話を聞いていたのでいけるかも知れないと思っていたら、後で「もう一人のシャンタムの話なんてヒットしない」と断ってきたらしい。出版業界は経営が厳しくなっており、大手でも大変らしく、お金になる仕事だけを求めているという。売れるかどうかわからない本は出さない。規模が小さな出版社ならなおさら慎重になる。どんなに内容に価値があっても、売れる見込みがなければリスクは負わない。ほとんどの出版社から、その場では返事がもらえずに結果待ちということになった。

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