4/4

 ここでの暮らしに慣れてきた優杏は、京治が学校に行っている間、専らゲームをしていた。時折、鞄の中に入っている、減りそうもない通帳の残高を見たり、水晶を眺めたりする。学校に行く必要などないし、佐倉も学校のことは聞かなかった。

 水晶の中は、京治が見たときより内包物が増えていた。白くきらきらと輝くそれは、日光に触れて心地よさそうに揺れている。

(まだまだ、平気か。あと何年くらいだろう)

 ゲームに飽きて外を散歩していると、ごみが落ちているのが目につく。無意識のうちにそれを拾っては、嘲りに近い微笑を浮かべる。

(相変わらずだな、わたしも。しなくていいって言われたけど、やっぱり、やらなきゃすっきりしない)

 開き直った彼女は、まるで自分の生き甲斐かのように、ごみを拾っては近くのごみ箱に捨てていた。

 京治と過ごす毎日は、優杏にとって、寿命が縮みそうなくらい幸せな日々であった。その幸せを享受しながらも、しかし、心の奥底では罪悪感に近い何かに苛まれていた。本当のことを言わなきゃ。そう思ってはいたものの、なかなか勇気が出せないでいた。


「京治はあかちゃん欲しい?」

 二人が付き合って一年が経ったある日、優杏が唐突に尋ねた。

「何を言い出すの、急に。ま、まさか」

「聞いてみただけよ」

 いつか言おうと思っていたことを、彼女は勇気を出して言ってみることにした。

「ちょっと、あの、ね。真面目な話していいかな」

「う、うん、いいけど……(アレがこないの、なんて言わないよね)」

 彼女が鞄の中から何かを取り出そうとしているのを、びくびくしながら見つめる。出されたものは、白く美しい内包物で満たされた水晶だった。

「これのこと、ちゃんと話してなかったから」

「優杏の卵だったりするの?」

「違うわよ、ばか。あのね、わたし、六十七歳って言ってたでしょ?この前が誕生日だったから、六十八、だけど……あれね、本当なの」

「……え?」

「何て言えば伝わるのか分からないけど、聞いてくれる?」

「分かった」

 優杏は言葉を選びながら自分のことを話した。

 人の魂は輪廻転生を繰り返していて、その果ては天に浄化される。優杏の前世の人間水谷あきは、魂の転生の最後の人間の筈であった。

 魂が辿る人生は、嬉しいことや楽しいことと、不幸とが、バランスを保つように出来ている。しかし、彼女の魂の経路は、その全体を見ても、決していいものではなかったそうだ。水谷晶はその中でも、特に不幸と呼べる人生を送っていた。貧しさ故の荒んだ家庭に生まれ落ち、学校では意味もなくいじめを受けていた。そうして段々と壊れていく彼女の心の唯一の拠り所は、奉仕作業だけであった。

「毎日が辛くて、もういつ死んでも構わないと思っていたけれど、奉仕っていう形で社会に貢献していくうちに、こんな自分だからこそ出来るようなことをしようって、そう考えるようになったの」

 彼女は自分がしてきたことに誇りを持っていたが、鼻にかけるつもりはないらしく、詳しいことは話さなかった。三十余年もの間、自分のことをなげうって人々に尽くしてきて、五十のときに、他人を庇って水谷晶は死んだ。

「優杏って、偉いんだね」

「そう、それ。その言葉」

「え?」

「ずっと奉仕を続けてきたけれども、誰一人、わたしのしたことを認めてくれる人はいなかった。別に誉められようと思ってやっていたわけじゃないし、確かに目立たないようなところでやっていたけれども、自分より大したことをしていない人が取り上げられているのに、どうしてわたしは、とか、少しだけ思ってたかな」

 京治は彼女が無意識に唇を噛むのを見逃さなかった。

(優杏は気づいてないかもしれないけど、心の奥深くでは悔しいと思っているんだろうな)

「誰もわたしのことを見てはくれなかったけれども、一人、いや、一柱かな?わたしのことをちゃんと見てくれている人がいて。それが、神様だった。今わたしに宿っているこの魂のことを考えて、特別に、ご褒美をくれたの。このわたしの、人生を。ただし、条件つきだけどね」

「条件?」

 優杏は再び手にしている水晶を見せ、説明した。今自分が生きているのは、魂の浄化のため。故に、この水晶が白い光で満たされ、色が変わったら、優杏、即ち彼女の魂は幸福感に満たされていることになり、浄化は完成するのだ、と。

 彼女は、幸せになったら消えてしまうなんて、そんなの自分勝手だと思っていた。だから、これ以上京治を傷つけないためにも、このことを告げたら別れを切り出すつもりでいた。

「今まで黙っててごめんね。もしいやだったら、別れて欲しい、かも」

 悲しさを満面に湛えた優杏を見て、安心させるように京治は微笑んだ。

「別れるなんて、考えたこともないよ。ほら、こっちおいで」

 何をされるだろうと不思議に思った優杏が近づくと、京治は彼女を抱きしめて頭に手を置いた。ぎこちない指先が、黒髪を撫でていく。腕の中の優杏が、身体を強ばらせているのが分かった。

「や、やだ、急に、どうしたの、わたし、頭なんて撫でてもらったこと、殆どないから、ど、どうしたら、いいのか、分かんない、よ」

「撫でられてるだけでいいんだよ。なんていうか、さ。話聞いてたら、頭撫でたくなったから」

 生まれて初めてされる行為に焦る彼女の頭を、佐倉はずっと撫で続けた。心の氷が溶けるように、熱い雫が、優杏の頬からぽたぽたと落ちる。

「何て言えばいいか分からないけれども、優杏の辛さは俺には分からないけれども、偉かったね。今まで、よく耐えてきたね」

「…………」

 優杏は人形のように、表情一つ変えることなく、ただ涙を流し続けた。遠く、長い、何とも言えない時間が、部屋を流れていった。


「ゆーあーん!」

 泣き止んだ優杏の頬を袖で拭って、京治はさらに強く彼女を抱きしめた。

「ど、どうしたの、急に」

「あかちゃん欲しい?って、さっき聞いたよね?」

「うん、そうだけど、どうして?」

「子供が欲しいんでしょ」

「えっ。さっきも言ったけど、あれは冗談だって」

「俺気づいたんだけどさ、優杏が何か言うときって、ものすごく考えて発言してるんだよね。だから、冗談だって言って俺に聞いたのは、自分が欲しいからじゃないかって」

「……ばれた?」優杏は身体を起こすと、京治の目を見つめた。「わたしね、こうやって誰かと付き合うの、初めてなの。もちろん結婚なんてしたことがないし、子供を産んだこともないんだ。でも、子供を産んで、育てていくのは、人間の義務だと思うから」

「うん」

「結婚して、家族で遊園地に行くのが、わたしの夢なんだ。……って、なんか、変かな。こういうこと話すのって」

「そんなことないと思うよ」

「じゃ、じゃあ……」

「そうだね。近いうちに、優杏の夢が叶うといいな」

「わたしが消えるまでに、ね」

 二人は嬉しそうな顔で今後のことを話し合った。空の美しさを閉じこめた窓が、微かにピンクを帯びていった。


 優杏は一年前に自分の使命を全うした。彼

 女が残していった箱の中には、一通の手紙と、水晶が入っていた。桜色の光がたゆたうそれは、まるで優杏が心地よさそうに眠っているかに思えた。

 それを手にとった瞬間、優杏が俺と出会ってからの記憶が頭の中を駆け巡っていった。その膨大な幸せの量に涙が止まらなくなって、俺はつい最近までこの水晶を触ることが出来なかった。

 彼女の語った夢は一度しか叶えてあげられなかったけれども、優杏は最期に「幸せだった」と言ってくれた。多分俺は、この子を育てるのに大変な思いをしていくことになるだろう。だけど、水晶の記憶がある限り、俺は耐えていけると思う。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ボーナスステージ 薄氷雪 @usurahi_yuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ