カルテ7ー5  ここにある今が道しるべ


2067年も8月の上旬に入り夏の暑さの盛りを迎えた。キョウシュウエリアの北西部に位置する平原は気温が35℃を超え、いくら暑さに適応したフレンズでもあまり日向を出歩きたくない位の猛暑日。しかしそんな日でもお構いなしにセルリアンは出現し、それを狩るハンターも暑さに関係なく出動する。セルリアンがいるとの通報を受けたヒグマ、キンシコウ、リカオンの3人のハンターはたった今、問題のセルリアンを始末し終え、近くの岩陰で休んでいた。


「先輩、通報してくれたフレンズからの差し入れですよ。ありがたいっすね。」


リカオンは瓶入りのラムネを3本持って帰ってきて、先輩の二人に瓶を手渡した。ヒグマとキンシコウはありがとうといってそれを受け取り、栓を開けて甘いラムネを喉に流し込んだ。


「あー、生き返る。流石にこうも暑いと戦闘はきついな。」


ヒグマが溜まっていた鬱憤を大きな声で吐き出し、項垂れた。


「しかたないですよ。セルリアンを狩るのが私たちの仕事なんですから。」


キンシコウは武具の棒についた泥を拭いため息をつく。


「まあ、今日はリカオンが冴えていたおかげで、短時間で討伐できましたし、良かったですよ。野生解放も使わず済みましたし。」

「ああ。白い車みたいなセルリアン、ミサイルみたいな突進をしてくる厄介な奴だったが、リカオンの撹乱作戦がうまくハマったな。よくやった、リカオン。」

「えへ。ありがとうございます。実はもう一本ラムネもらったんですが、今日は私が頂いちゃっていいですか。」

「あっ! お前ずるいぞ。」

「まあまあ、今日はいいじゃないですか。今日はリカオンの手柄だと、ヒグマさんも認めていたじゃないですか。」

「むう、まあいいさ。」


ニンマリとして2本目のラムネを開けるリカオンを横目に、ちぇっとヒグマは舌打ちして、また自分のラムネに口をつけた。


「平原の白いセルリアンかあ、昔を思い出すなあ。」


目の前にただ広がる広い草原をぼんやりと眺めていたヒグマが独り言のように呟いた。


「先輩、さっきみたいなのと昔戦ったことがあるんですか?」


リカオンが尋ねると、ヒグマはそうじゃないと言って首を振った。


「昔、とはいっても10年前位の話だからな。リカオンは知らなくて当然だ。ざっくり言うと、この辺りに幽霊が出るっていう噂があったんだよ。」

「・・・そういえばそんな話ありましたね。」

「平原の近くに住んでいる一部のフレンズでちょっと噂になったんだよ。ちょうどそこの崖の辺り。見てみな。」


そう言ってヒグマが立ち上がって背後の崖を指した。


「あの崖、実はいくつか大きな洞穴が開いているんだ。その洞穴の一つに幽霊が住み着いたという噂がたったんだ。ほら、あの壊れた車がある辺りあった洞穴だよ。ある夜、幽霊を目撃したフレンズの話によると、姿は真っ白でぼんやり光り、地面をズルズル這うように近づいて来て、こっちをギョロっとした目で睨んだ。そのフレンズは怖くなってすぐその場から逃げ出したそうだ。」

「地面に這っていたって、それはフレンズじゃなさそうですね。」

「ああ。そんなわけで、この辺りに住むフレンズの間では『実は幽霊は白い体のセルリアンなんじゃないか』と囁かれ、怖がって幽霊がいる洞穴には誰も近づこうとしなくなった。しばらくしてその噂は、ハンターをやっていた私のところにも流れて来た。で、先輩と一緒にその洞穴に確認に行ってみたのさ。本当にセルリアンだったら危険だからな。」

「そ、それで。どうだったんですか。」


少し怯えたリカオンを見て、ヒグマはやれやれと肩を落としため息をついた。


「洞穴の中にはなんにも居なかった。やれやれだよ。結局目撃者の見間違いということで片がつき、それ以降幽霊を見たという話も聞いていない。」

「奇妙な話ですね。」

「全くだ。」

「・・・あれ、じゃあその幽霊はどこに行ったんでしょう。それとも初めから居なかった?」

「それはさっぱりわからん。」

「案外まだこの辺にいたりして・・・」


リカオンは岩陰からそろりと出て崖の方へ歩いた。


「この辺りは崖崩れが多いからなぁ。崖の真下辺りは一面、上から降って来た土砂だらけだ。歩きにく・・・痛っ!」


ブスリと足の裏に刺さったような痛みでリカオンは飛びはねた。その声を聞いてヒグマとキンシコウが駆け寄ってくる。


「突然どうした?」

「いえ、なんでもないです。何か尖ったものを踏んだだけで。あいたたた。」


リカオンがまだ痛い足を抱え、片足で小さく跳ねていると、足に刺さっていた小さい三角形の物体がぽろりと地面に落ちた。キンシコウがその物体を拾い上げ、掌にのせてじっと観察し、顔を曇らせた。


「これが刺さっていたんですね。尖ったガラスの破片・・・かな。血がついていますね。ヒグマさん、リカオンの怪我を見てあげてください。」

「ああ。どれ、見せてみろ。・・・うん、大した怪我じゃないよ。ちょっと皮膚が切れただけさ。」

「よかった。すいません、先輩。」

「ああ。それにしてもキンシコウ、ずっとそのガラス片を見ているが何かあったのか。」

「・・・いえ。ただこのガラス片、何かラベルみたいなものがくっついているんですよ。」


そう言われてヒグマもキンシコウの隣に座ってガラス片をじっと見た。キンシコウのいう通り、ガラス片の滑らかな面にはラベルのようなものがぴったりと貼り付いていた。


「本当だ。文字が書いてあるな。何・・・”14....a...2058....cr..i....” 汚れていて全然読めないな。いったいなんの破片なんだろう。うん?なんかこの破片臭うな。鉄・・・血の匂い?」

「私にもちょっと。」


リカオンも破片に鼻先を近づけてガラス片についた臭いを嗅ぎ、すぐに顔を上げて訝しげに言った。


「血で間違い無いと思います。新鮮とは言い難い血の臭い。ヒトの血液の臭いに近いです。」

「ヒトだと?」

「ええ、私にはそういう臭いに感じられますが。先輩も嗅覚は鋭いですよね。」

「舐めるなよ。そう言われたら確かにヒトっぽい臭い。でもなあ・・・なんか違う。分からないけれど、ヒトの臭いの他に何か・・・」

「私の血ですかね。さっき足に刺さったから。」

「いや、お前の臭いじゃない。もっと古い血液・・・血じゃないかもしれないけれど、それに似た何か。」


ヒグマはその場にあぐらをかいて、腕組みしながら様々な臭いを思い出してみたが、結局ピンとくるものは浮かばなかった。煮詰まったヒグマは思い切りのけぞって地面に寝転がった。


「こんなものに拘っていてもしょうがない。ガラス片なんてパークのどこにでも落ちているものだしな。」

「そうですね、たまたま私の足に刺さったってだけで。もう血も止まりましたよ。」


リカオンも先輩に倣って地面にごろんと転がった。ただ一人、キンシコウは変わらずずっと手に乗った破片を見つめていた。



その日の夕方の図書館、博士はソファーに座って寝息を立てていたところを助手に叩き起こされた。


「博士、客です。起きるのです。」

「む、そうですか。通すのです。」


博士がそう言うと、助手は客人を図書館に迎え入れ、博士の向かいの椅子に案内した。客はキンシコウだった。

キンシコウは軽く挨拶をしてから、拾った三角形のガラス片を博士に手渡して、昼間あったことを博士に伝えた。


「・・・そうですか。ヒグマとリカオンはあまり気に留めなかったが、お前は引っかかることがあったと。」


そう尋ねると、キンシコウはゆっくりと頷いた。


「ええ。実は私、この破片の出どころに心当たりがあるんです。ちょっとしたトラウマになっているので、あの2人の前では喋るのを躊躇してしまいました。」

「ほう、話せる範囲で話してみるのです。」


キンシコウはぐっと息を飲み込んで、それからゆっくりと話し出した。


「今から9年前の2058年、ハンターになる前の私は丘陵部の林の中に住んでいました。当時私はまだフレンズになったばかり、林のなかで日々気のままに暮らす幼いフレンズでした。その年の5月の終わりのある日の夜、エリア全体が大豪雨に襲われた日のことです。私の住む林の縁にある崖沿いの道路を一台の車がゆっくりと走っていくのが見えたんです。何も大雨の日にあんな道を通らなくてもいいのにと不思議に思いながらも、もし何かあったら助けてあげようかなと思って、私は一人その車の後を追いました。

木々を伝ってちょうどその車のすぐ後ろまで来た時です。忘れもしません。突然木々の上に大きな黒い柱のようなものがヌッと突き出て、それが崖沿いの道路目掛けて撃ち落されたんです。辺り一帯に地震のような大きな振動が走り、崖は大きく崩れました。私の目下すぐ先を走っていた車は、その崖崩れに巻き込まれ、滑るように崖下へ転がっていきました。窓ガラスが割れ、車に積んでいた発泡スチロールの箱がこぼれていました。もちろん運転手も車から投げ出され・・・・・・・・・

・・・危険と知りながら、私は崩れた崖の上から下を見下ろし、立ち尽くしました。車は多くの土砂と一緒にすぐ下の道路に転落・・・あの現場、泥とガソリンの臭い、腕の千切れた運転手の姿・・・今思い出しても本当に辛くて・・・・・・」


あまりに凄惨な光景を思い出し、キンシコウは俯いて泣きじゃくりはじめた。博士は急いで助手に水を持ってこさせ、それをキンシコウに差し出した。水を一口飲んで深く息をし、落ち着きを取り戻したキンシコウは、すみませんと一言謝ってからまた話し出した。


「現場を見ていられなかった私は、ふと私は背後の林を振り返ったんです。黒い林の影から上に突き出た四角形の影、林の中には大きなセルリアンがいました。見たこともないくらい大きなヤツでした。あの時のヤツのぎょろっとした目は、間違いなく私を見とめていました。『このままでは死ぬ』と、そう直感した私は崖を飛び降り一目散に逃げ出しました。それからは無我夢中に逃げたのでよく覚えていません。巨大セルリアンのことがみんなに伝えられたのはその数日後のことです・・・」


博士は顔色一つ変えず、じっとキンシコウの話に耳を傾けていた。キンシコウが話終え、少し気分が落ち着くのを待ってから博士は質問した。


「お前が今日持って来た、妙な臭いのついたガラス片。つまりこれは事故を起こした車に積まれていたもの由来という可能性があると。」

「はい。その車の残骸は今も崖下に残っているのは博士もご存知かと。この間崖下にいるのをお見かけしたので。なにか調査しているのかと。」

「まあ・・・そんなところなのです。ところで、貴重な情報をいただけたのはありがたいのですが、どうして私にこのことを伝えようと思ったのでしょう。」

「それは・・・」


キンシコウは言い淀んで俯いた。博士は黙ってキンシコウの次の言葉を待った。


「思い出してしまったから・・・あの場所で、今日。目の前で起こった事故のことを。何もできなかった自分の弱さを痛感したあの日、私の心には深い傷が刻まれました。どうにか弱さに克ちたくて私はハンターになり、それから多くのセルリアンを狩ってきました。それでも傷は癒えませんでした。自分の弱さを晒すのが怖くてヒグマやリカオンにも打ち明けられないまま今まで来てしまいました。」

「なるほど。ハンターとして強い精神力を持つお前でも、やはり癒えない過去というものはあるのですね。」

「ハンターなんてそんなフレンズばかりですよ。みんな何かしら弱さやトラウマを抱えていて、それをなんとか忘れ乗り越えたくて毎日必死に戦う。でも本当は誰かに弱さを晒して楽になりたい、そんな連中ばかり。でも私は幸運でしたよ。こうして博士には打ち明けることができましたから。」


キンシコウはスクッと立ち上がるとコップの水を一気に飲み干した。そして幾分か晴れやかな表情になって言った。


「話を聞いてくれてありがとうございます。博士。もし私の話が博士の好奇心を満たせたなら幸いです。」

「大変貴重な情報だったのです。感謝するのですよ、キンシコウ。また辛くなったときは我々のところに来るといいのです。それが長である我々の役割なのですから。」

「はい。失礼します。」


キンシコウは一礼の後図書館から去っていった。博士がふうと息をついて水を飲んでいるところ、後ろに控えていた助手が呆れた笑いを浮かべて言った。


「大変な信頼ですね。いっそカウンセラーでも始めたらどうですか。」

「信頼する誰かに悩みを聞いてもらう、それだけで暗い気分は幾分か晴れるものなのですよ。ま、その相手として私を選んでくれたのは光栄なことですがね。」


博士はご機嫌に笑って、懐の手帳に先ほどのキンシコウの話を書き留めた。それからキンシコウが残していったガラス片を摘み上げ、改めてそれをじっくり見回した。


(ラベルの貼られたガラス片。見つかった場所は車の転落事故現場、アライグマに発掘調査を依頼したところだ。キンシコウの言う被害者はおそらくだが岬医師だろう。それにしても、こんなカンジのガラスの欠片、前にもどこかで見たような・・・14....a...2058....cr..i....これしか読めない。)


「博士?」


助手の声かけを無視し、博士は突っ立ったまま頭をフル回転させて、ガラス片について考えを巡らせた。


(ラベルのついたガラス片。・・・これは瓶だろうか。岬医師の乗った車に乗っていた瓶・・・・・・あっ!もしかしてあれか!!もしかしてこれは2個目なのか!!)


博士は稲妻が走るような閃きを脳に感じ、思わずアッと声を漏らした。今までバラバラだった手がかりが急に結びついて、一つの可能性を指し示した。


「助手。」

「なんでしょう。」

「明日、病院にいくのです。サキに会わなければ。」

「何か思いついたのですか。」

「ええ。答え合わせなのです。」


博士の顔には、解けなかったパズルを解くピースがようやく手に入った時のような、解放感と期待感に満ちた笑みがはっきりと浮かんでいた。



次の日の午後、言った通り博士は助手を連れて病院にやって来た。扉を開けて病院に入り、クーラーのきいたエントランスのソファーで火照った翼を冷まし、サキかヒイラギが来るのを待った。ところが5分、10分待ってもサキもヒイラギも姿を見せない。


「おかしいですね。普段なら我々の気配に気付いてすぐにエントランスに出てくるのですが。」

「確かにそうですね。私、ちょっと外から病室を見てくるのです。」


助手は入り口を飛び出して、サーバルがいる2階の病室の窓に寄って中の様子を窺った。ところが病室の明かりは消えていて、誰かがいるような気配も感じられなかった。もしや・・・嫌な悪寒が走るのを感じた助手は急いでエントランスに戻り、博士を引っ張ってサーバルの病室に駆け入った。


「これは・・・」


博士は目を丸くしてその場に棒立ちになった。助手が見た通り病室はもぬけの殻で、この間までサーバルがいたベッドも毛布やシーツが取り払われてきれいに片付けられていた。


「博士、これは・・・サーバルは亡くなってしまったということでは・・・」


助手は慄いて一歩後ろに退がって言った。


「私たちが最後にサーバルを見たのは1週間以上前です。サーバルの病状は芳しくありませんでしたから、何が起きてもおかしくはないのです。ですが、もしそうならサキは我々にも連絡を寄越すはずなのです。きっと何か理由があって・・・」


博士はそう強く言うが、その顔からは血の気が引いていた。


「博士に助手、ここで何をしているんですか?」


突然の呼びかけに虚を衝かれ、二人はびっくりして後ろを振り返った。そこにはマスクを着けたサキが立っていた。サキの方も二人のあまりの驚きようを見て目を丸くしていた。


「いや、すみません。驚かすつもりはなかったのですが・・・」


サキがそっと謝ると、博士は照れ隠しに大きく咳払いをして言った。


「如何に気配察知能力に長けた猛禽でも、こういうことはあるのです。たまに、ごく稀にですがね。ともかく・・・我々はお前に用があって来たのです。ですがその前に、サキ、サーバルはどうしたのです。」


その問いにサキは表情を曇らせ少し顔を背け、しばらく口を噤んだ。それから辛そうに言葉を絞り出した。


「サーバルさんは、ICUに移りました。」

「は、ICU?」

「ICUは集中治療室のこと。昨日からサーバルさんの病態が急変し生命が危ぶまれる状態になってしまったんです。」


サキは低い声色でそう言うと、淡々とした足取りで二人をナースステーションの側にあるICUの前に通した。

ガラスの窓で廊下と仕切られたICUの隅のベッドにサーバルはいた。しかしベッドに仰向けに臥せったサーバルは胸郭を荒い呼吸で上下させ続けるだけで、窓ガラスを覗き込む博士や助手に気付く事はなかった。意識があるのかないのか、それさえも外からではわからなかった。


「意識レベルは低く、人工呼吸器管理下です。会話は厳しいと思います。室内へ入るのならマスクと手指の消毒を。」


サキは素っ気なく伝えた。


「・・・・・・」


二人は何も言わずうなずき、ICU内のサーバルのベッドサイドに立った。手足にはチューブが繋げられ、左胸には心電図の電極が貼り付けられていた。そして顔の下半分は透明な緑色の換気用マスクが着けられ、一定間隔でシュー、シューという空気が通る音が聞こえた。


「サーバル。サーバル。」


助手は名前を呼びかけるがサーバルはぴくりともしない。今度はサキが呼びかける。


「サーバルさん、博士と助手が来てくれましたよ。」


そう呼んでサーバルの右の手の平を指で擦るように触れると、サーバルの右手が触れたサキの指を握った。


「握りましたね。我々の声は届いているのですか。」

「微妙なところです。意識レベルが低下しているので、単に呼びかけるだけでは反応してくれないようです。手を握るというような強い刺激でないと反応が出ないですね。ひとまずこのようになった経緯を説明しますので、一度外へ。」




サキはICUの前のソファーに座りマスクをとった。向かいに座った博士と助手は目の前のサキの顔色があまりにも悪いのを見てギョッとした。今までマスクに隠れていて見えていなかったが、目の下には隈がはっきりと出、血色も土気色。明らかに思い詰めている様子ですっかり憔悴していた。


「ものすごく疲れているように見えますが、お前自身は大丈夫なのですか?」

「ええ。ただ昨晩は一睡もできませんでした。ただ、まだ休める状況じゃなくて・・・」

「ヒイラギはどうしたのですか。」

「夜通し検査をしてくれていたので、今は宿直室で眠っています。私も落ち着いたらヒイラギと交代で寝ようかと。」

「緊急事態のようですね。」

「ええ。こればかりは致し方ないです・・・」


サキの声は一応は発声されてはいたものの、いつものような元気は無く、淡白だった。そう言っている間にサキのお腹がグウと鳴った。


「すみません、朝から何も食べる時間が無くて。」


照れ隠しに笑うサキを見て、助手は舌打ちすると自分の鞄からジャパリまんを一つ出してサキに与えた。

「全く。お前が倒れたら誰がサーバルを救うんですか。」

「はい、すみません。」


サキは俯くと一心にジャパリまんにかじりつき、あっという間に平らげてしまった。



「ご馳走様でした。それでは今の状況を説明します。」


サキはソファーに深く座り直しカルテを開いた。


「一言で言いますと、サーバルさんは現在肺水腫を起こしており、ICUで治療をしています。」

「聞き慣れない単語なのです。水腫って腫瘍なのですか?」

「いいえ助手。肺水腫は肺ガンのような腫瘍ではなく肺の浮腫です。肺水腫は肺の毛細血管から水分が漏れ出し、肺の中に貯まってしまう病態です。左心不全や高血圧、ネフローゼ症候群などの腎臓病があると肺水腫が発生しやすくなります。サーバルさんは慢性腎不全が基礎疾患にありますから、肺水腫のリスク群です。症状は呼吸困難やチアノーゼ、動悸、意識障害、呼吸性アルカローシスなどです。

昨日の午前からサーバルさんが息切れや呼吸困難感を感じ、その後嘔吐。意識レベルが低下し始めました。私とヒイラギはすぐに酸素投与を開始し、血液ガス分析を行いました。次に心電図や心エコーなどの心臓の検査。それからもいろいろ・・・

今は気管内挿管をした上で継続的に心電図をモニターし、フロセミドやニトログリセリン、ドブタミン、ARBなどを投与して呼吸機能と循環機能の回復を目指しています。」


サキはそれから心電図と心エコーを記録した紙を博士の前に広げた。


「サーバルさんの心臓はだんだんと機能低下しています。心電図を見ると軽度の左心拡大が疑われますし、エコー像でも同じような所見が解ります。博士・・・フレンズの心肺機能が低下が何を意味するのか、わかりますか。」


それを聞いて博士も顔を顰め、ピリッとした表情になった。


「一般にですが、フレンズの心肺機能は非常に強靭にできています。だからこそフレンズは高い運動能力を保持することができているのです。ですが、それだけ丈夫なはずの心臓や肺が弱る・・・それはつまり死の間際。それ以前にサンドスターの体内への取り込みができなくなる。命の終わりの前にフレンズとしての人生が終わるかもしれない。」

「そうです。私もそう思っていますし、覚悟もしています。ヒイラギにもそう言って聞かせました。」

「サーバルの老い先が短いというのは前から分かっていましたが、終わりの日がもう直ぐそこまで迫ってしまった、ということですか。」

「ええ。もちろん私もヒイラギも、今全力でサーバルさんを治療しています。でも、肺水腫が治ったとしても、この先を長く生きるのは難しいかもしれません。」


そう言ってサキは顔を手で覆い、深くため息をついた。博士も重い息を吐き出して、ドサリと体をソファーに沈めた。それから静かに目を閉じた。


「サーバルの今後がどうであれ、今お前は医師の使命を果たさねばならないのです。医者の仕事は患者を治すことでしょう。だから治すことをやめてはいけない。でもそれは一人では難しいでしょうね。」

「そうでしょうか。」

「ええ。さっきも助手が言っていたのです。自分を犠牲に奉仕するのは結構ですが、犠牲にした結果お前やヒイラギが働けなくなっては本末転倒なのです。お前のそういうところはツチノコに指摘された時からあんまり変わっていないのですね。」

「うう・・・」

「幸いなことに、今のお前には協力者がいます。目の前に二人。」


サキは目の前に座る二人を見た。二人は和かに微笑み、優しさに満ちた眼差しをサキに向けていた。


「用意してきて良かったですね、博士。」

「ええ。」


助手は鞄をサキの前に置いた。その膨れた鞄の口を開けると、中にはジャパリまんや缶飲料、食材などが沢山詰まっていた。博士は続ける。


「医療の知識に乏しい我々ではお前ら二人の仕事を直接手伝う事はできません。けれどそれ以外のこと、二人の生活をサポートすることくらいならできるはずです。お前らがサーバルの治療に集中できるよう、我々が後方支援をやるのです。これは・・・」

「困っているフレンズに援助を惜しまぬこと。これは群れを統べる長としての基本、ということでしょう。」

助手は博士に向かってニヤッと笑うと、博士も助手の方を向いて同じように広角をクッと上げた。


「わかっているじゃないですか、助手。」

「当たり前です。何年あなたの助手を好きでやっていると思っているのですか。」

「ふふふ。と、まあこういうわけなのですよ、サキ。ここが正念場なのは我々にもわかります。群れの長として、お前に協力するのです。」


そう言って博士はと助手はまた笑った。

二人の申し出はサキにとって本当にありがたかった。ようやく友達になれたサーバルの容態が急変し呼吸困難に陥ったときはショックのあまり持っていた薬の瓶を落としそうになった。それから私は寝ないで、サーバルを助ける方法を考えることに熱中した。なぜなら、考えることでショックを紛らわせるかと思ったから。けれどサーバルの意識も呼吸もなかなか回復しない。なかなか報われない治療、ずっと青白い顔色のまま眠るサーバルを見ているのは、正直体にも精神にも堪えていた。そしてヒイラギも一旦眠りについてしまい、サキはサーバルの前で一人ぼっちになった。

あれだけ慣れていたはずの一人ぼっち、でも今は一人ぼっちであることがものすごく心細く感じられた。誰でもいい、誰か私を見守っていてほしい。一人にしないでほしい。そういう感情を生まれて初めて感じた。きっとサーバルという初めての友達ができた、その経験が、私に今まで芽生えなかった心細さを自覚させたのかもしれない。

だから二人がきてくれたことが本当に嬉しかった。ありがたかった。仕事を手伝ってくれなくてもいい。何もしてくれなくったっていい。ただ私のそばにいてくれるだけでいい。


(ああ、誰かが見ていてくれるって、こんなにも温かく、安心できるんだな。)


「博士に助手。協力ありがとうございます。ここが正念場。私、頑張りますから。」


サキは深く礼をして、自分の頬をピシャリと打って立ち上がった。




その日から博士と助手は病棟の空き部屋に住み込み、サキとヒイラギの食事や夜間の見回り、器具の用意などを手伝ってくれた。二人のお陰でサキとヒイラギは幾分か休みが取れるようになり、いいコンディションでサーバルの治療にあたることができた。

そしてサキの必死の治療が実ってか、肺水腫の発病から6日後に、サーバルは意識が会話可能なくらいに回復し、気管に入った管を抜くことができた。まだマスク型の呼吸器はつける必要があり心電図の電極も胸につけていたが、それでも次の朝にはサキはサーバルと会話することができた。


「うふふ、おはよう。サキ。なんだか少し疲れてる?」

「ええ。でもこうしてサーバルさんとまた喋れるのが嬉しくて、疲れは吹っ飛んじゃいそうですよ。」

「そっか。そういってもらえて嬉しいな。」


サーバルの体力の衰えは著しく、腕はさらに細く乾き、少しくすんだ肌の色になっていた。心なしかもともと美しい黄色だった髪も、どこか乾いてパサつきが目立っていた。十分に息が吸えないからなのか、声色も少しか細くなっていた。

けれどサーバルの一番の魅力だった太陽のような暖かな笑顔は変わらずサキの前にあった。そのことがサキは何より嬉しかった。


「サキ、折角だからお話しようよ。」

「はい。」

「友達として、ね。」

「・・・うん。」


サーバルは一度サキの顔をのぞいて微笑み、それから少し上を見上げた。



「また私、サキに助けられたんだね。本当にありがとう。」

「いいえ。私は自分の仕事をしただけ・・・っていつもなら言っていたけれど、今回はちょっと違った。」


サキはサーバルの隣に座り、少し自分の足元に目を落とした。


「友達のサーバルが苦しんでいるんだもの。なんとしても助けなくっちゃって思った。だからね、私必死に考えたんだよ。サーバルがどうか治りますようにって博士たちと一緒に祈ってた。その気持ちにサーバルが応えてくれた。だから今こうして喋れている。私こそありがとうを言わなくちゃ。」

「・・・サキがずっと頑張っているのわかってたから、私も頑張らなくちゃって思ったんだよ。病気と戦う勇気をもらえた。この3日くらい、ありがとうも言えなかったし手も握れなかったけれど、サキの姿だけはずっと見ていたよ。

でも、今回はしんどかった。息苦しくて溺れそうで、目眩と吐き気も酷かった。体が自分のものじゃないみたいに重たくて、指さえピクリとも動かせなかった。それでも頑張れたのは、サキが隣にいてくれたから。私のことを見ていてくれているってわかったから。」


サーバルは自分と似た気持ちを抱えていたのだとサキは気付いた。自分だってヒイラギや博士や助手がいなければどうなっていたか・・・


「そうだ。言いそびれていたけれど、私ねようやく手紙を書き終えたんだ。今は小さく折って私の毛皮の中にしまってある。」

「そうなんだ。あれだけ頑張っていたもんね。毎日遅くまで起きていたし。私が寝なさいって言っても、もうちょっとって言って聞かなかったものね。」

「えへへ。でもね、それだけいっぱい考えられたし、文章に気持ちを込められたんだ。それでも多分、下手っぴな手紙だとは思うんだけど・・・でもこれが私の伝えたかった気持ちだから。これで良いんだ。これが私の終着点なんだ。」


そう言ってからサーバルは少しの間黙った。顔からは笑みが消えて、真剣な眼差しになった。5分か10分か経って、ようやくサーバルが静かに口を開いた。


「サキ。死ぬのって怖いのかな。」

「・・・怖いことだとは、思う。」

「サキは自分が死ぬの、怖い?」

「そりゃそうよ。」

「そっか・・・・・・私は、怖くない。」


サーバルがそう言った瞬間から、サキの耳にはサーバルの声以外、何も聞こえなくなった。呼吸器のガスの音、心電図モニターの電子音、クーラーの吹く音、かすかに外から聞こえる蝉の声。そういう雑音が全て消え去って、静まりかえったサキの世界にはサーバルたった一人だけがいる。そんな感じがした。


「死ぬのは怖くない。そう思ったことがあった。でも今は目標があって死にたくない。これは前にも言ったよね。この数日、死の間近にまでいって、話す体力も無かった私は、頭の中でその先のことを考えてみたの。聞いてくれる?」

「・・・もちろん。」


きっと大事な話だ。私が想像したことのない世界の話。そう直感したサキは、書き込みで真っ黒になったカルテの上に、自分の手帳を置いてメモを取る用意を整えた。


「ゴホッ・・・2年前、私が埋めたカラカルの死顔はなんだか穏やかだった。死ぬのは怖いはず、でも死んだカラカルの顔から恐怖は感じられなかった。どうしてだろうって私は思って、ちょっと考えてみた。そもそも死ぬのはどうして怖いんだろう?

私なりの答えはね、死ぬのが怖いのは“そこでいきなり生きることが終わってしまうから”なんだよ。生きてまだやりたかったことがあるのに、もうそれができなくなる。サキや博士は“目標”って言い方をしているけど、死んじゃったらその目標に向かって歩くことをやめなきゃいけなくなる。悔しいし、悲しい。だから死が怖いと思うし、避けようとする。

サキ、死ぬことは怖くないんだよ。死んで、それ以上自分の生きる道を切り開けなくなること、これが怖いんだよ。」

「未練ってこと?」

「未練か・・・そうかもね。生きることに未練があるから死にたくない、そう思うのかも。あの時のカラカルの表情もきっとそういうことなんだと思う。カラカルは生きることに未練が無かったんじゃないかな。」


サキはサーバルの言葉を一言も漏らさず書き留めていった。ふと手元から目を上げると、サーバルは左のモニターに映されている心電図の波形をボーッと眺めていた。全部書き終わったサキは、静寂の中次のサーバルの言葉をひたすら待った。


「・・・私はずっと目標にしていた手紙を書き終えた。今の私は達成感でいっぱいで、とりあえず次の生きる目標も見つかっていない。だから今の私は“生きることに未練がない”状態ってことになる。」

「・・・・・・」

「でも、何かが違うんだよ。私が生きてやりたいことは全部やったはずなのに、それでも何故か、まだ生きていたいって気持ちが心のどこかから湧いてくる。おかしいよね・・・自分で考えたことなのに・・・やっぱり私、バカだなあ・・・」

「そんなこと・・・」


少し目を潤ませたサーバルに何か声をかけたかったが、サキにはなんて声をかければ良いかわからず、言葉は途中で止まってしまった。


「ううん。私は大丈夫だから。それでね、私には時間があったから、そういう気持ちがどこからやってくるのかも考えてみた。それでね、これもなんとなくだけど答えが出せたんだ。

私の死にたくない気持ちの正体、それはね、“私の死を悲しんで、泣いてくれる人が近くにいてくれるから“なんだと思う。少なくとも今の私にはサキとヒイラギという大切な友達がいるから。しかも何度も助けてもらっている二人を悲しませたくないんだ。」

「サーバル・・・考えたくないけれど、その時が来たらすごく悲しむし、うんと泣くと思う。私もヒイラギも。」

「・・・私だって、もし逆の立場だったらすっごく落ち込むと思う。だから・・・死を受け入れようという気持ちと、まだ死にたくないという気持ちの二つが私の中で揺らいで、どうすればいいのかなんて全然わからない・・・

・・・・・・結局はさ、自分が幸せだと思える道を選ばなくちゃいけないんだね。きっとそれが生きるってことなんだから。

・・・・・・私の求める幸せはどっちにあるのかな。悩んで悩んで・・・・・・

でも悩みすぎたら勝手に終わりが来ちゃう。止まない雨がないように、終わりのない命なんてないから。永遠に悩んでなんていられないからさ・・・


・・・ううっ・・・・・だからさ・・・・・・どうにか、決めたよ・・・・・私が求める、私の最後の幸せ。」


またサーバルは黙り込んで、咳をした。サキは無表情な顔を伏せたまま淡々とペンを走らせる。



「私は今まで生きてきて、たくさんの幸せをもらった。カラカルから、ミライさんから、パークに住むいろんなフレンズたちから。そしてサキとヒイラギからいっぱいいっぱいもらった。手に持ちきれないくらいの幸せを、いっぱいもらったんだ。・・・だから、もういいの。これ以上は、もう何もいらないよ。だから、ごめんね。サキ。本当に・・・・・・・ごめんなさい。」


「突然何を言うの・・・サーバル?」


サキはペンを動かすのをやめ、サーバルの顔を目を見開いて見つめた。サーバルの瞳には涙が溢れてボロボロと零れていた。


「ヒトのパーク退去を発表した時のミライさんのように、辛い決断こそはっきりと言わなくちゃ気持ちは伝わらない。サキ、ごめんなさい。私の願い、どうか受け止めてほしい。」



私はサーバルキャットのサーバル。私は、これ以上の治療を望みません。そう自分で決めました。



握っていたペンが手から滑り落ち、床に転がった。変わらず無表情のままサーバルを凝視し続けるサキの前で、サーバルは泣いて真っ赤にした目を細め、精いっぱいの笑顔をサキに向けてくれていた。

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