カルテ7−4 ここにある今が道しるべ
フェネックとアライグマが退院したことで、病院内は久方ぶりに落ち着きを取り戻し、サキもヒイラギも多少ゆとりのある朝を過ごしていた。サーバルの起床時の血液と尿のデータに目を通しながらサキはいつものデスクでコーヒーをすする。フェネックが入院していた間は正直言ってサーバルの体液のデータを記録はしていたものの、詳細に検討する事はできていなかった。
「RBCは減少、Ptも少し減っている。貧血は大丈夫かしら、血栓症のリスクはどうだろう。血中BUN、クレアチニン、尿酸はいずれも高値。K、Caが高めかぁ。不整脈おこしたら致死的。ビタミンDが不安ね、補充を増やすべきか。尿量は減ってきている・・・芳しくないわね。SGLT2阻害薬使っているから糖が高いのは当たり前だけどタンパクも依然高い、それにWBCが上がってきている。発熱や排尿時痛、尿の混濁はないが尿路感染症や腎盂腎炎を疑うべきなのか? いや、腎不全状態で降圧薬を投与している患者にST合剤はあんまり使いたくはない。投与するならしっかり調べてから・・・」
各種のデータが示唆する悪い可能性を見てサキは軽く息をついた。
「懸念があまりに多すぎる・・・いったい何に注目して治療していけばいいんだろうか。」
糖尿病の本態は腎不全。腎不全という病態は、腎臓そのものに止まらず全身のあらゆる器官、組織、生理的システムに悪影響を及ぼす。その影響の広範さは治療する人間を大いに悩ませる。今サキが考えなくてはいけない病気は両手両足の指で数えてもまるで足りない位多い。
「私がへこたれてどうする。こういう時こそ治療のエンドポイントをはっきりさせることが大事だ。」
自分を鼓舞するようにサキは頬をピシャリとうち、再び検査値の並ぶシートに向き合った。今のサーバルは手紙を書くという行為を通して幸せを掴もうとしている。つまり手紙を書けなくなるという事態は避けねばならない。例えば脳の障害である脳梗塞やウェルニッケ脳症。尿毒症の意識障害。糖尿病性網膜症などの視覚を失いかねない病気。突然死のリスクとなる致死性不整脈や心筋梗塞、肺塞栓。利き腕の麻痺。
「つまり循環器系の危険因子の除去と血中の電解質濃度、それに栄養の摂取状況に特に注意すべきなのか。なるほど、だんだん見えてきたぞ。」
自分が考えたことをカルテに書き並べていくと、次第に思考が整理され自分がすべきことがはっきりしてくる。だんだんと調子が出てきたサキは時々コーヒーに手を伸ばしながら治療の方針をまとめていった。
けれどカルテに書き込むアイデアが増えていくたびに、サーバルに施す治療が全て”直接サーバルの命を救う治療”でないことに気づいた。今サキがやっている治療の目的はいずれもサーバルの生きられる時間を少しでも長くするためのものである。無論それらが極めて重要であるのは確かだ。しかしサーバルの病態の根底にある糖尿病、腎不全に対してサキが行える直接的な治療はひとつもない。根本的にサーバルを救うことはサキにはできないのだ。
サーバルが手紙を書くことに集中している現状はこれでも良い。しかし”延命”目的の今の治療を数ヶ月、場合によっては数年続けることになった時、果たしてサーバルさんは幸せと感じるのだろうか。サキはふとそんなことを思った。
「思えば今まで診てきた患者さんたちは皆、治療すべき対象がどこかにあって、それを治療すればすっかり元気になる。そんな単純な病態ばかりだったんだな。それに比べると糖尿病性腎症、その末期、打つ手がない。どうしようもない泥沼だ・・・」
決定的な治療を与えてくれない現代医学の至らなさにサキは気落ちしてため息をついた。そしてそれ以上に、”友達であるサーバルを助けることができない”という避けられない運命がサキの心を凍えさせていた。
「今ならヒイラギの気持ちが痛いくらいわかる。友達として、サーバルさんにもっと親密に寄り添ってあげたいと思うし、何より友達の死なんて本当は考えたくないんだよね。でも私は医者だ。思いやりや慈しみの心を忘れてはいけない、けれど医療は科学的なものであり、治療に私情を挟んではならない・・・バランスが難しいなぁ。」
サキはうーんと唸って椅子の上で思い切りのけぞった。天井をぼーっと見上げ、この間博士やサーバルたちとやった”打ち上げ”のことを思い返した。
***
あの時はフェネックのベッドを囲むようにして座り、テーブルに置かれたお菓子や飲み物をつまみながら、取り留めのない会話に花を咲かせていた。
「それにしても医者っていう仕事はすごいのだ。人助けをして、命を救って、感謝される。まさにヒーローなのだ。アライさんもやってみたいのだ。」
いろんなものが食べられてゴキゲンなアライグマが調子良く言うと、それを聞いた助手がせせら笑った。
「お前の頭脳じゃどだい無理なのです。医者は頭が良くなければ務まらないのです。」
「なにー? じゃあ博士や助手ならできるというのだ?」
アライグはちょっとむっとして声を張った。隣のフェネックがまあまあとなだめる。
「いや、私も博士も無理です。頭の良さはわかりませんが医療器具のような精密な道具など扱える気がしないのです。」
助手は両手を何度か結んでは開いて、自分の指先を見つめた。
「ヒトの体を持つフレンズとはいえ、手先の器用さには限界があるのです。例外的に素質があるやつはいますが。」
「素質って、才能のこと?」
サーバルの問いかけに博士は頷いた。
「素質。または”とくいなこと”といってもいいのです。とくいなことというのは、動物だった頃から得意であった行動の延長上にあることが多いのです。例えばフラミンゴはもともと平衡感覚に優れていたので、それを活かしたダンスを得意としています。ボール遊びやジャンプが得意であったマイルカは、フレンズになってからもそういった曲芸が得意なのです。」
「確かにそうだったかも。でもどうしてそんなことが起きるのかな。」
「サンドスターは元となる生物の特徴を反映してくれるみたいですからね。サーバルだって元から得意だった狩りやダッシュは得手だったでしょう。」
「そうだったよ。昔はね。」
サーバルは愛想笑いしてちょっと俯いたので、しまったと思った博士は他意はないと慌てて付け加えてサーバルに謝った。
「こほん・・・ともかくフレンズの”とくいなこと”はそのようにして形成されるのですが、たまに例外、つまり動物の頃の行動とは何も結びつかないようなアクションを得意とするフレンズもいます。スナネコがいい例なのですよ。今のあいつはギターを弾くことを特技としていますよね。あれは動物のスナネコの生態とは一切関わりがない行動なのです。」
「それじゃあスナネコさんはどうしてあんなにギター弾けるのさ?」
ヒイラギが手に持っていたコーラの缶を置いて身をぐいと前に乗り出して尋ねた。
「うーむ、多分スナネコはギターに触れるのが好きなのでしょうね。好きこそ物の上手なれとは昔からよく言いますが、そういうことなのではないでしょうか。」
「先代のスナネコも歌はうまくてギターもめちゃくちゃ弾けていたのだ。アライさんは先代のスナネコのライブに行ったことがあるから知っているのだ。そのことと、今のスナネコのギターの上手さは何か関係があるのか?」
「先代の性格や嗜好を受け継いだフレンズが産まれたと、そういった噂も聞いたことがあるのです。あくまで噂ですが。最近新しく産まれたキタキツネのフレンズが、先代と同じく雪山の温泉宿でゲームに夢中になっているという話を聞きましたね。」
「博士、それは環境要因の影響では。」
「そうかもしれないのです。パートナーのギンギツネはまた世話焼きの日々を送ることになるのでしょうかねぇ。」
博士はやれやれと首を振る。
「そうなのか。それなら今度フェネックと湯治に行く予定だから、そのついでにギンギツネがどうしているか見てくるのだ。」
「おや、お前が湯治なんていう言葉を知っているとは意外なのです。」
「博士も助手もアライさんをみくびりすぎなのだ!もうちょっと評価されてもいいと思うのだ!」
ムキになって立ち上がったアライグマが可笑しくて、フェネックを含め一同は一斉に笑い出した。
「フェネックも、先生まで笑っているのだ。」
「あ、面白くて。すいません。」
「ぜんぜん気にしていないのだ。アライさんは笑われるのには慣れっこなのだ。」
そう言ってアライグマはニっと笑うとビスケットを2枚取って、一枚をフェネックに渡した。フェネックは受け取ったビスケットを小さく割って口に入れ、舌で転がすようにゆっくりと味わった。それからサキの方を向いて首を傾げた。
「ちょっとだけ気になったんだけどさ、先生は私たちにできない医者の技術をいっぱい身につけているじゃない。どうやって身につけることができたのさ? ”好きこそ物の上手なれ”ということなのかい?」
「確かに不思議なのだ。医者の仕事が得意な動物なんてアライさんは聞いたことないのだ。そもそも先生はなんの動物のフレンズなのだ?」
フェネックに続いてアライグマも首を傾げた。サキは少し間を取ってから答えた。
「私はハブとセルリアンの混血、ハーフのようです。だから元から医者の素質があったわけではないんです。ただ孤独だった私には時間だけは余るくらいありました。この病院に隠れ住んでから7年、初めはただの暇つぶしのつもりで医学書を読み、落ちていたシリコンの板で傷を縫う練習をしていました。それが高じて今はこんなことに。」
そう答えた後に博士の方をチラリと見た。博士は少し俯いたまま少しも動こうとしなかった。
「でも、それはお医者さんの勉強が面白いって思えたから続いたんでしょ?」
サーバルの言葉にサキは大きく頷き、それから腿の上で組んだ自分の指をぼんやり見つめた。
「ええ、面白いと思えたので医者の勉強に熱中しましたね。でもそれ以上に私が惹か
れたのは”この知識と技術があれば、半分セルリアンの私でも誰かの役に立てるかも”って思ったから。ただの私じゃ誰も寄り付いてくれない、けれど医者の仕事を通してなら他のフレンズと関わることができる。もしかしたら私も誰かと仲良くなれるんじゃないかって思ったんだと思う。」
「サキ・・・一人の時間が寂しかったの?」
「そうかもしれない。」
「うん。でも今は違うって言って欲しいな。今あなたの周りには私たちがいるんだよ。」
サキはハッとなって顔を上げ隣に座るサーバルを見た。サーバルはいつものような穏やかな笑顔を浮かべてサキを見ていた。
「私はあなたの友達よ。最初はちょっと怖かったけれど、今はもう全然大丈夫。お医者さんとしてすっごく信頼しているし、ここで出会った優しい友達とも思ってる。それに私だけじゃないんだよ、ほら周りを見て。」
そう言われてサキは周りをぐるりと見回す。サキの周りにはヒイラギ、フェネック、アライグマ、助手、博士、そしてサーバルが輪になって座っている。6人は優しい眼差しを浮かべ、それを輪の一角にいるサキに向けている。
「ここにいるみんな、サキに感謝しているし、サキを大切に思っているんだよ。あなたはもう一人じゃないんだよ。それを伝えたかったんだ。」
サーバルの言葉を聞いて他の5人はタイミングはバラバラながら全員頷いた。
サキはこの時初めて、フレンズがつくる友達の輪の一員になれた気がした。この”打ち上げ”はサーバルや博士たちによって仕組まれたサプライズのイベントなのかもしれない。けれどこのイベントが予め仕組まれていたかどうかなんてサキにはどうでもよかった。今ここにいるみんなはサキが一人の普通の友達(フレンズ)であると認めてくれている、そのことが本当に何より嬉しかったのだ。そして幸せだと感じた。
「ねえサキ、もっとお話ししようよ。」
そう言ってサーバルは右手をサキの前に差し出した。
(サーバルさんの手。この少し浮腫んだ手をとって歩む先に私が望む幸せがあるのかなんてわからない。でもきっとあるんだよね。だってサーバルさんに一人の友達だって言ってもらえてこんなにも嬉しいんだから。)
サキはサーバルの手を取って言った。
「うん。私もサーバルと、みんなともっとおしゃべりしたいな。」
***
(サーバルさんは私を友達と呼んでくれた初めてのフレンズなんだ。ああ、やっぱり治してあげられないことが悔しい、もどかしい。私は医者だけど、それ以前に人なんだ・・・)
思い返しているうちに、気づけばマグカップはすっかり空っぽになっていた。
しばらくしてヒイラギが病棟から戻ってきた。
「サーバルさんはどうしてる?」
「すごく集中してペンを握っているよ。前にあげた紙がもうなくなったっていうから使ってないノートを丸々1冊あげちゃった。」
ヒイラギは嬉しそうに声を弾ませた。
「フェネックさんとアライグマさんがいなくなって、サーバルさんは寂しがるかなって思っていたんだけれど、僕の思い過ごしだったみたい。サーバルさんが塞ぎ込むことなく、今楽しそうに手紙を書いているのがなんだかとても嬉しかったんだ。」
そうね、と答えてサキは笑った。気丈なサーバルがなんだか愛おしく思えたが、その感情は表情には出さなかった。ヒイラギはふらりとサキの後ろに回ると、テーブルの上の検査結果のシートを覗き込んでいた。
「・・・あまりいい値ではないみたいだね。」
「末期腎不全だからね。何が起きたっておかしくない。せめてサーバルさんが手紙を書き切るまでは、今の状態を維持したいわ。投薬を調整するつもりよ。」
「そっか。ねえサキさん、糖尿病って本当に治らないの。」
悔しそうにヒイラギが尋ねるが、サキはいいえと言わざるを得なかった。
「一度破壊された腎臓の糸球体が再生することはない。腎臓移植ができれば別だけれど、ドナーになってくれるようなフレンズはいないわ。」
「なら、僕が・・・」
「私もヒイラギも、サーバルさんとは血液型が違う。それに、腎臓外科医でも難しい腎臓移植なんて手術、私にはできない。」
「・・・そっか、そうだよね・・・たった一人しかいなくなった静かな病室で、今もサーバルさんは熱心に手紙に向き合っているの。聞こえるのはサーバルさんの息とペン先が擦れる音だけ。その様子をドアの外から垣間見ていたらなんだかすごく胸が苦しくなって・・・僕。」
ヒイラギはそう絞り出して顔を伏せた。その光景を想像したサキも胸が痛くなった。下唇を強く噛んで、溢れ出そうなもどかしさを必死で堪えた。
「・・・私たちは私たちのできる範囲でサーバルさんを支えていくの。それが私たちに科せられた使命なんだから。でも・・・」
そう言ってヒイラギを諭した後、サキは一言だけ自分のありのままの心境を吐くことを自分に許した。
「私だって本当は今のあなたと同じ気持ちを抱えているの。」
「やっぱりサキさんもそうだったんだね。僕と同じ表情している。」
ヒイラギはサキの顔を見て少しだけ笑った。きっとひどく沈んだ表情をしていたのだろう。
「きっとユウさんも、今の私やヒイラギと似た気持ちを抱えて治療研究に打ち込んでいたんだろうな。ようやく理解できた・・・」
「ユウさんが研究をしていた動機ってそういうことだったの?」
サキが独り言のようにぽつりと呟いたのを聞いて、ヒイラギが尋ねてきた。
「そうだったみたいなのよ。この間ここに書いてあったのを読んで知ったの。」
サキは博士から受け取ったリュックサックの中からユウホの手帳を取り出して、スケジュール帳の後半の雑記用のページを開いた。研究のアイデアやメモが乱雑に散らばるシミだらけのページたちの中に、”2058年1月24日”と銘打たれたページがあった。そこにはその日のユウホのストレートな感情が、他のページより少しだけ丁寧な文字で綴られていた。
”1月24日
今日、半年間一緒にがんばってきたマツリカが亡くなった。死因は脳ヘルニアによる呼吸麻痺だと思う・・・脳圧管理が大事だって一番わかっていたのは私のはずなのに、どうして防げなかったんだろう。なぜ助けられなかったんだろう。私の術式にまだ何か考え足りないことがあるのかな。
失敗は成功の母とか、いろいろ言われるけど、私の場合、一度失敗したら患者が死んでしまうんだよ。シビアだなあ、折れそう。
でもこの死は絶対に無駄になんかしない。マツリカの命の代わりになんてならないけれど、絶対術式を完成させて、FCCSの患者をたくさん救うんだ。
どうか見ていてね、マツリカ。”
「ユウさんはマツリカを治療しきれなかったんだ・・・悔しかっただろうな・・・」
ユウホの手記を読んだヒイラギは肩を落としてため息をついた。サキもそれに頷いた。
「私は少し勘違いしていたのかもしれない。なんとなくだけど、医者はもう少し精神的に強靭だと思っていた。でも医者だって人間だから誰かが死ねばショックを受けるし落ち込みもするんだね。それが受け持ちの患者や長い付き合いの友人だったら尚更ダメージは深いんだ、当たり前のこと。」
サキは手帳を閉じてリュックサックにしまった。机の上にぱらぱら散った泥の粒を手で払い除け、両手に顎をのせて少し考え込んだ。
「多分医者は誰かの死に直面した時、そのショックからの立ち直り方をよく知っているんじゃないかな。自分の中での受容の仕方が決まっていて、その手順通りに死に決着をつけることができる。だから死を見ても飄々としているように見えるんだろうか。もちろんそれは何人もの死に向き合って初めて解ることなんだろうけど・・・」
「ユウさんは患者を助けられなかった悲しみを研究に向けることで、自分の気持ちにケリをつけたってことなのかな。」
「きっとね。それがユウさんの慣れた手順なんでしょう。FCCSは高齢のフレンズで起こりやすい致命的な疾患。ユウさんもマツリカのような患者を何人、何十人と看取ってきているはず。患者を見送るたび、その悲しみをバネにして一層研究にエネルギーを注いだのよ。」
サキは椅子を回転させて体をヒイラギに向けた。そして自分の青色の手首をぎゅっと掴み、毅然とした態度で言った。
「遅かれ早かれ私たちも誰かの死に対面する。それでも、自分なりに切り開いていけるのだと、私は信じる。一緒に考え続けましょう、ヒイラギ。医療に携わる限り、私たちに立ち止まっている余裕なんてないの。」
その夜サキは眠れなくて一人宿直室を抜け出した。寝ようとしても脳裏に「死」がちらついて、意図せずともそれに思考が引っ張られてしまう。
考えるたびに、なぜか手足のあちこちが疼き体温が下がっていくような感覚を得る。息が詰まりそうなのに口をぎゅっと閉じたくなる、そんな閉塞感も感じる。死とは痛いことなのだろうか、苦しいことなのだろうか・・・それとも昏睡状態でもはや何も感じないのだろうか・・・
それ以前に、我々は死という運命が近づいてくると先ず恐怖を感じる。死を怖いと感じるのは、否応なく自分の人生にピリオドを打たれてしまうから。まだやりたいことがあったのにという未練がそう感じさせるのか。
ふと立ち止まり自分の掌を見る。サキの目の前にはセルリアンの青い両手、多くのフレンズから避けられてきた原因そのものが右と左に浮かんでいる。
(なるほど、誰も私に寄りつこうとしなかったのも当然のことなんだな。)
無機物にサンドスターが接触することで生まれると言われる捕食者セルリアン。セルリアンに喰われたフレンズはヒトの体を失い、同時にフレンズの時に得た記憶、自我も吸い取られてしまう。つまりフレンズはセルリアンに喰われたが最後、”フレンズとしての人生”が断絶させられる。実質「死ぬ」のだ。それが故にセルリアンは死の化身として全てのフレンズに恐れられ、嫌われる。おまけに多くのフレンズが犠牲となり、サーバルとミライさんが離別する原因となった約10年前の巨大セルリアン異変、あれのせいで今でもフレンズの間にはセルリアンを疎む風潮が色濃く残っている。
(そりゃあ怖いだろう・・・なにせ私の両手両足は「死」を連想させるセルリアンなんだから。)
こんなことに今更気づいた自分が可笑しくて、サキは口元を緩ませた。そしてふらふらと階段を降りてサーバルのいる病室に向かった。どうしてサーバルのところに行こうと思ったかは自分でも分からなかった。けれど気づいた時にはサーバルの病室のドアの前に立っていた。
時刻は午前1時、いつものように暗い紺色の影に染まり、物音ひとつない静まりかえった闇が2階の廊下に横たわっていた。ただ一点、目の前のドアからは光が漏れ、カリカリとペン先を紙に押し付ける微かな音が部屋の外にまで漏れていた。サキは扉を軽くノックして「入りますよ。」と声をかけた。するとかさかさとした音が聞こえ、それから「いいよー」といつものサーバルの声が聞こえてきた。
「起きていたんですね。」
扉を開け近づいてゆくサキをサーバルは笑顔で迎え入れた。
「うん。ずっと書いていたの。」
サーバルはそう言ったがテーブルの上はきれいに片付いており、消しゴムのゴミがちらほら落ちているだけだった。
「裏の庭でサキと話してから、結構筆がのるんだよ。でも書き間違いがどうしても多くて、ほらゴミ箱がもういっぱい。」
サーバルが指差したベッドの側のゴミ箱は丸められたノートの切れ端で溢れそうだった。
「ところで、どうしたのサキ。こんな時間に病室にくるなんて珍しいじゃない。」
「ううん、いつも深夜に見回りには来るよ。私とヒイラギで日替わりで。」
「そうなんだ、知らなかったよ。いつもありがとう。」
またサーバルはにこやかに笑った。それから懐からノートを取り出しテーブルの上に広げた。
「それで、どうしたのサキ?」
「どうしても寝付けなくて。」
「そっか、じゃあ少しここでお話ししていかない? 私はまだ起きているつもりだし。」
「ありがとう。でもサーバルは眠くないの?」
「大丈夫。元は夜行性だから。」
サーバルがそう言ってくれたので、サキはサーバルの向かいのベッド、この間までフェネックがいたベッドの横に腰を下ろした。座ってからサーバルの方を見ると、サーバルは前のめりになってノートに目を落としていた。そしてサキの視線に気づいて顔を上げたサーバルと目があった。
「えへへ・・・」
はにかんでサーバルはまた笑った。けれどその時の笑顔はそれまでとは違い、ほんの少し悟ったような感情が混じった、ドライな笑顔だった。
「ねえサキ。」
「どうしたの。」
「死ぬって、なんだろうね。」
「・・・・・・」
「・・・手紙を書いていてふと気づいたの。死ぬ、命が消えるってなんだろうって。自分が死ぬことについてなんて、フレンズになる前は考えもしなかったなあ。いや、フレンズになってからも2回くらいしか考えたことなかったな。」
「2回っていうのは?」
「一つ目は病院に来る直前、サバンナで一人倒れた時。あの時は私死ぬかもって思った。二つ目は、2年前にカラカルの死骸を埋めた時。」
そういえばサーバルは2年前、認知症に罹った旧友のカラカルを介護の末看取ったと前にチラッと聞いた。
「カラカルは弱っていくにつれ、いろんなことを忘れていったんだ。私たちの住処の場所、友達の名前、おしゃべりをすること、食べること、おしっこをすること・・・私のことさえも。」
「・・・」
「ある朝私が起きたら、隣にいたはずのカラカルはどこにもいなくて、代わりに赤茶色の毛並みのネコ科動物の死体がぽつんと横たわっていた。きっと死ぬことまで忘れていたんじゃないかな。カラカルの表情はとっても穏やかだったよ。私はカラカルの死骸をサバンナで一番大きな木の根本に埋めた。埋めた後、私はいろんなことを考えた。自分もいつか同じように死ぬんだってことも考えた。でもその時私は虚ろだったからあんまり難しいことは考えられなかった。確かだったことは、カラカルはもういないということ。そしてカラカルの看病が終わって、私は毎日何もすることが無くなったということ。そんな調子で昔を思い出しながらふらふら生きていたら、ついに自分にも死ぬ時が来ちゃった。それが自分の死について考えた二度目の時。その時私は思ったんだった。
”死ぬのは怖くない”
あの時も吐き気と息苦しさでいっぱいいっぱいだったから、そんなに深くは考えられなかった。でも確かにそう思った。今思い返してみれば、もう死んじゃってもいいや、そう思ったのかも。」
「そんなこと・・・!」
思わずサキは立ち上がってそう言った。サーバルはさすがにちょっと驚いて目を見開いたが、すぐにごめんごめんと謝った。
「サキを怒らせるつもりなんてないよ。」
「あ・・・私こそ急に熱り立っちゃって・・・ごめんなさい。でも、死んじゃってもいいや、なんて、あんまり言わないで・・・」
「そっか、私を心配してくれているんだね。」
「うん。」
「どうして?」
「どうしてって・・・それは・・・私はあなたの主治医で・・・」
主治医だから、それも間違いではない。だがそれと同じくらい大きな理由があることにもちろんサキは気づいていた。しかし果たしてこれを口にして良いのだろうか、おこがましくないだろうか。そんな迷いがサキを躊躇させ口ごもらせた。
「・・・それから?」
サーバルも気付いているようでサキがいうのを後押しする。
「・・・と」
「と?」
「・・・友達だから・・・」
一言そう言うだけでサキは顔を真っ赤にして下を向いた。「友達」という言葉を他人に使ったのはこれが初めてだった。たった一言がこんなに恥ずかしく、緊張することなのか・・・
恐る恐る顔を上げサーバルの顔色を伺うと、サーバルはいつもの明るい笑顔をサキに向けていた。
「うふふ、ようやく自分から口に出して言ってくれたね。サキ。そう、私とサキは友達なんだよ。だから、もっと近くに来ていいんだよ。ここに座って。」
サーバルはテーブルをどかして自分のベッドの空いているところを指差した。サキはまだ緊張でびくびくしながら漸くそこに腰を下ろす。するとサーバルは這うようにサキの側まで来て、同じようにベッドの端に腰掛けた。
「あの時、もう死んじゃってもいいやなんて思ったのは、あの時の私には友達も、やるべきことも何も無かったからなんだよ。あるものと言えば、もう二度と戻らない思い出だけだったから。生きている意味なんて私には無かったんだよ。」
そう言ってサーバルは自らの乾燥した両手でサキの右手をとった。サキが右を向くと、サーバルは嬉しそうにうふふと微笑んだ。
「でも今は違う。今は手紙を書くと言う目標がある、それに私の隣にはヒイラギとサキ・・・あなたがいてくれる。私のことを心配してくれている二人がいる。私は今が幸せだよ。だからまだ死にたくない。私には今、生きている意味がある。それを全部与えてくれたのはサキっていう友達、でしょ?」
「私・・・」
「そう、サキはあなたでしょう? 頼れる私のお医者さん。そして、私の友達。」
サーバルの言葉が重なるにつれ、自分の表情が嬉しさで歪んでいくのをサキは感じていた。医者という立場上、患者の前ではできる限り凛としていたかったが、我慢できなかった。それほどまでに、サーバルの言葉が嬉しかった。
そして救われたような気がした。サーバルはサキを友達と認めてくれた。それは医者というキャラクター抜きの、ありのままのサキを受け入れてくれるフレンズが一人できたということだ。そういうフレンズにようやく巡り合うことができた、この奇跡がサキにとって一番の救いだった。
「サーバル・・・いつも、ありがとう。」
「えへへ、ありがとう。でもそれは私のセリフだよっ。」
思えばサーバルにはいつも救われている。サーバルの笑顔は太陽のように冷えたサキの心を温めてくれ、そしてサキが進もうとする道を明るく照らしてくれる。友達とはかくも温もりに溢れたものなのか・・・はじめてできた友達の隣でサキはしみじみ思った。
それと同時にサキの心の中で、なんとしてもサーバルを救いたい、というどうにも叶わない願いがどうしようもなく膨れ上がっていくのだった。
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