カルテ5−7 グレイトフル ・ジャーニー

文字を学ぶ、扱うという行為はヒトとフレンズの能力を線引きする行為の一つである。それはヒトの手先の器用さや記憶能力、認知能力などがフレンズよりも優れているからという理由で説明される。しかしフレンズであれヒトであれ脳を含めた体の構造は解剖学的にも組織学的にも等しいものと言われているため、当人の素質と学習次第ではフレンズも文字の取得は可能なのだ。実際頭脳明晰という「素質」がある博士と助手は難なく文字を読み書きできるし、本を読んで「学習」したツチノコも文字を理解できるフレンズだ。

このレクリエーションの目的は透析治療で長期間入院することになるサーバルの気分転換が主要な目的であるから、あくまで文字の習得はオマケでしかない。それでももしサーバルが文字を覚えられたら、それはとても素晴らしいことだなとサキは一人考えていた。

すでに時刻は深夜2時を回っており、ヒイラギは目の前の机に言語聴覚士の参考書を広げたその上に突っ伏して寝息を立てていた。サキは時計を見て、さすがにそろそろ仮眠を取らなければと感じて空のマグカップを持ち席を立った。

サーバルの透析が今日から開始する、2度と後戻りできない終末への行進が始まるかと思うとサキは空恐ろしい気分になった。患者は「病気が治る」という希望的な終着点があるから治療に対して前向きに取り組める、では終着点が「死ぬこと」の治療を受ける患者は一体どのような心持ちで治療に向き合うのだろうか・・・


いいや、治療を執り行う私がそんなことでどうする? 私がサーバルさんが治療に前向きに取り組めるようサポートするんだ。


サキは頭を何度もぶんぶんと振って嫌な思考を振り払って、それからヒイラギを起こさないよう医員室を静かに出た。



そしてついにその時がやってきた。ヒイラギに機械の運搬を任せ、サキは透析開始にあたりサーバルの体調や手術創の状態を一つ一つ確認していった。


「体温、心拍に異常なし。不整脈もなし。めまい、吐き気などは感じますか?」

「全然大丈夫みたい。朝ごはんも食べられたし。」


ベッド上のサーバルはにこやかに返事をし、足の先に手を伸ばしてつま先やふくらはぎを揉んでちょっと寂しそうに言った。


「私の足、こんなに細くなっちゃったんだね。しばらく自分の足で立ってなかったからかな。」

「わかりました、ちょっと診ますね。」


サキはサーバルの片足を持ち、それを曲げたり伸ばしたり刺激したりして筋肉の萎縮の程度や足の神経の機能の残存程度を検査してみた。投薬コントロールにより来院時よりは末梢の血色はよくなってはいたものの、年齢相応の筋肉の萎縮に加えて糖尿病による神経の機能低下は明らかだった。


「うーん、やはり自分の力だけで立って歩くのはちょっとやめておいたほうがいいですね。」

「そっか・・・」


サーバルはしょんぼりして耳を前へ垂らした。サキとしてもできることならばサーバルの運動機能の回復を図るためにも下肢の軽いリハビリテーションはさせてあげたいのだが、今の状態では転倒のリスクが限りなく高いのだ。それに糖尿病により骨も脆く弱くなっていることが検査数値で確認できているため万一転倒でもすれば足の骨折は免れない。そうなればリハビリどころでは無い、寝たきり状態になってしまう。

それでも、今のサーバルさんにできることをさせてあげたい、サキはそう感じてある提案をした。


「そうですね、私が介助するのでちょっと立ってみましょう。それでベッドから車椅子に移動しましょうか。」


サーバルはそれを聞くと喜んで両手をサキの前に差し出して言った。


「本当? 立っていいの?」

「ええ、私がちょっと支えていますから大丈夫ですよ。」


サキは手をサーバルの脇の下に入れて背に回し、サーバルの手を自分の方に掛けさせた。


「それじゃあ起こしますよ。」


膝と腰に力を入れ、ゆっくりとサーバルを抱き起こした。サーバルはされるがまま引き上げられ、宙に浮いたつま先はふらふらと揺れた。


「じゃあ足を床につきましょう。」


サキは腰を少し下げサーバルの足を床につけた。つま先から始まり次第に足の裏全体が床についたのを見てサキはサーバルの耳元でそっと言った。


「私がサーバルさんの手を持って支えていますから、足に力を入れて立ってみてください。」

「うん。」


サーバルはうなずいてぎゅっと腰から下に力を入れようようなそぶりを見せた。サキは背に回していた手をゆっくりと引き戻し、自分の方に乗っているサーバルの手を握った。サキが一歩後ろに退くとサーバルの体重の大部分はサーバルの足にかかる。サーバルはふらつきながらもひたすら自分の足で立つことに集中していた。そして、

「私、今立っているよね。足で立っているよね。」

と驚いた声をあげた。震える細い両足でなんとか体重を支えながらサーバルは正面のサキを見て、とても嬉しそうに笑った。


「サキに手伝ってもらっているけど、でもまだ立てるんだね。嬉しい・・・」


その純粋な言葉にサキも純な気持ちになり言葉がうまく出てこず、ただひたすら何度も頷いていた。



「サーバルさん、治療を始める前にもう一度説明しますね。

これからサーバルさんに受けてもらうのは血液透析による腎代替療法です。私たちはざっくり透析と呼んでいますが、これは血液の中の要らないものや害のあるものを綺麗にしてくれる腎臓という内蔵がうまく働かない患者さんに行うものです。左腕の血管から血液を取り出して外の機械で血液を綺麗にし、再び体に戻します。週4回、一回あたり4時間はかかります。」

車椅子を押し廊下を渡りながら、サキは再度透析の説明をサーバルにした。サーバルは小さいながらもサキの言葉に相槌を打ってくれていたが、サキはサーバルがどれほど理解してくれているか不安になり一度車椅子を止めてサーバルの正面に回り顔を覗き込んだ。


「サーバルさん、何かわからないことや心配なことはありますか?」


サキが問いかけるとサーバルは最初キョトンとした顔をしていたが、すぐに恥ずかしそうに笑って答えた。


「えへへ、正直難しくて細かいことはあんまりわかんないや。」


やっぱり説明が難しすぎたかとサキが思ったところ、サーバルは軽く首を振ったのち屈託のない笑顔を浮かべた。


「でもね、サキとヒイラギが考えてくれたことだからきっと大丈夫なんだなって思っているの。私がここにきてから二人ともずっと私の話を聞いてくれて、考えてくれているでしょ? そんな二人が決めてくれたことならそれが一番良いんだって思える、うん、信じられるの。」


サーバルさんが信じてくれている、主治医としてこれほど嬉しく頼もしい言葉はないなとサキはしみじみ感じた。一年前、医師として初めて患者に向き合った時は全て放り出して逃げ出したくなった自分がいて、患者に突き飛ばされて拒絶された自分がいた。そんな私が1年経って患者から「信じている」と言ってもらえるような医師になることができた。この間博士に言われた「成長」を今自分でもはっきりと認識することができ、この道を選択してよかった、歩み続けてよかったと思った。


「サキ?」


サーバルの呼びかけでハッと我に返ったサキは慌てて立ち上がるとまた車椅子を押して廊下を押して歩き始めた。



サーバルを連れて入った部屋は通常治療を行う処置室ではなく、この間サーバルと来た小児科の病室だった。部屋の中央にはベッドが据えられ、その横には人の背丈くらいはありそうな透析機をヒイラギがセッティングしていた。


「サキ、この部屋ってこの間の病室だよね?」

「ええ。透析を行うのには処置室では狭すぎるし、他の患者さんがきた時に対応ができなくなるというのが理由の一つなんですが、それ以上に。ね、ヒイラギ?」


サキはそう答えてヒイラギの方へ話を振ると、ヒイラギはサーバルの方を振り返って元気よく続けて答えた。


「透析ってちょっと時間かかるから、居心地がいい場所で行った方がいいかなと思ったんだ。そこで、どこだったらサーバルさんが落ち着けるかなと考えたらこの病室がいいんじゃないかなって。ここだったら窓も大きいしぬいぐるみとか本もあるからさ。」


ヒイラギはサーバルの前に駆け寄って後ろ手を組んでサーバルの反応を伺った。サーバルは部屋の中をぐるりと見回してから大きく頷いた。


「前来た時は気づかなかったけれど、結構この部屋眺めいいんだね。私ここ気に入ったよ、気遣ってくれてありがとう。」



透析機の前のベッドに寝たサーバルの左腕は台の上に乗せられ、その腕を触診しながらサキは透析用のルートを撮る場所を探り当てる。その間に必要な情報を確認していく。


「名前を教えてください。」

「サーバルだよ。」

「吐き気、めまいなど気になる症状はありますか。」

「大丈夫。」

「はい、ありがとうございます。」


血圧152/101 脈拍 40 体温 36.8度 DW 47kg 除水量は2820mlの予定。サキは手袋をはめてからサーバルの腕を消毒し、透析用のカニューラを手に取った。


「それでは少しチクリとしますよ。」


サーバルが頷いたのを見てサキはカニューラを静脈の一つに穿刺し、それを透析機のチューブに接続した。続いてもう一本も別の静脈に入れ透析機につないで、動かぬようガーゼとテープで固定した。


「ヒイラギ、ヘパリンNa を2000単位投与。」

「はい。」

「・・・サーバルさん、それでは透析を始めますよ。」


緊張した顔持ちのサーバルはぎこちなく頷いた。



開始から2時間程度が経ち、最初は固い表情をしていたサーバルも今は慣れたのか、たまにあくびをしながら窓の景色を眺めていた。一方でサキとヒイラギはついさっきまで慣れない透析時の補液量の計算に悪戦苦闘していたが、どうにかそれも終わり今はサーバルの隣に腰掛けて容体の変化がないか注意していた。そんな時ヒイラギの腹が鳴ったのを聞いてサーバルはおかしそうに笑った。


「ヒイラギはお腹空いているんだね。私もお腹空いたな。」

「うん、ちょっとね。僕もサキさんも今日はまだ朝ごはん食べられてないから。」

「二人とも起きるのが遅かったの?」

「ううん。サキさんと二人で夜遅くまで考え事していたんだ。透析って時間かかるからサーバルさんの息抜きが何かあったらいいなって思って。」

「私の?」


ヒイラギは一つ頷いて部屋の端にある棚から一冊絵本を取り出してサーバルの目の前に置いた。


「サーバルさんは昔ミライさんに文字を教えてもらっていたって言っていたよね。」

「うん。でも途中でやめちゃったけれど。」

「だったらもう一度やってみない?文字がわかれば本が読めるし手紙も書けるよ。」


びっくりしたサーバルはしばらく狼狽えた仕草を見せたのちサキの方を見て尋ねた。


「サキはどう思う?私あんまり頭良くないし、実際一回諦めているし、できると思う?」


それを聞いてサキは一歩前に出てサーバルに近づき、諭すように優しく言った。


「私はサーバルさんならできると思いますよ。多分サーバルさんは一つのことに熱中するタイプだと思うので、ハマればすぐにできるようになるんじゃないかな。」


そして懐かしげに短く笑って話を続けた。


「この息抜きを最初に思いついたのは私なんですが、実はヒイラギがものすごくやる気なんです。

ヒイラギはサーバルさんと同じ、のイエイヌのフレンズです。でもきっかけこそ私が与えたとはいえ、ヒイラギは文字を勉強することにのめり込んでいました。それは何より文字を覚えることが楽しくて、面白かったからだと思います。ヒイラギはきっとその楽しさをサーバルさんにも知って欲しいんじゃないのかなと。」


サキの話を聞いていたヒイラギは恥ずかしそうに顔を赤らめて肩をすくめた。サーバルは目の前に置かれた本を手にとってページを一つ一つしみじみと見つめ、それからゆっくりと口を開いた。


「私が昔文字を読めるようになりたいって思ったきっかけ、思い出したよ。私、自分で手紙を読めるようになりたかったんだ。たまにもらうゲストからの手紙を全部ミライさんに読んでもらっていたから、それが自分で読めるようになればなって思ったからだ。」

「それだったらサーバルさん、まずは文字を読めるようになろうよ!僕が教えるから一緒に本を読もうよ!広いサバンナの草原を駆け回るのも良いけれど、文字と本の森はそれよりももっと広くて深いんだ。」


待ってましたとばかりにヒイラギが身を乗り出して輝かせた目をサーバルに向けると、サーバルは首を横に傾けてヒイラギに微笑み返した。


「・・・とりあえずやってみようかな。優しくゆっくり教えてね。私はサキやヒイラギみたいに頭良くないから。」


それを聞いたヒイラギは大喜びで、尻尾を激しく振りながらサーバルの隣に腰掛け、本の1ページを開いてさっそく読み聞かせを始めた。


「それじゃあ、まずは僕が読んでみるからサーバルさんは僕を真似して口に出してみて。

〜はるかとおくの ほしのうえ おひめさまが ひとり くらしていました。」

「ええと、はるか、とおくの・・・なんだっけ?」


サキは並んだ二人の楽しそうな背中を眺めながら、これがサーバルの休息になればと祈っていた。サーバルの残存機能では以前のように外で駆け回ったり飛び跳ねたりすることはもう不可能だから、せめて今できることの範疇で鬱屈した気分を少しでも払って欲しかった、それがサキの率直な気持ちだった。けれどその暗い気持ちを正直に伝えることはできず、今はサキの胸の中に留めてある。

窓から見える、遠くまで広がり太陽を覆う梅雨空がまさに今のサキの心中を的確に映し出していた。



The rain has not stopped yet.



カルテ5 終わり

カルテ6へ続く





〜幕間〜


丘の上に広がる曇り空は麓の平原や図書館にも長い雨をもたらしていた。窓や屋根を叩く雨粒の音を聞きながら、博士は図書館のデスクに一人座って一人物思いにふけっていた。サキが処方した薬は非常によく効いたようで背中の紅斑や発疹は消え、帯状疱疹による神経性疼痛も大分改善し、筋力は落ちたものの博士の体調は良くなっていた。しかしこの時博士は新たな悩みのタネを抱えていたのだ。その原因は今博士の前のテーブルに置かれている金属製のカバンであった。


4日ほど前、助手が土砂崩れの被害があった崖下での安全確認に赴いたことがあった。その時崩れた土砂の中から傷だらけのアタッシェケースが見つかった。中身が気になった助手は調べようと思ってこれを図書館に持ち帰り無理やり鍵をこじ開けて中の品物を取り出したのだ。

入っていたものはノートパソコンと雑誌、意味不明の検査数値が列記されたシート、緩衝材で包まれたガラスの瓶、そしてハサミの形やペンの形をした見たことのない道具だった。

ノートパソコンの方は問題なく起動はするもののパスワードがかかっており使用はできなかったが、ハサミのような道具の方は博士が百科事典を調べ上げて名前を突き止めた。


「ペアン、鉗子、そういう名前の手術器具によく似ているのです。サキに見せれば確認できると思うのです・・・ しかし何故こんなものが落ちているのでしょう。医療チームが撤退した時の忘れ物でしょうか?」


博士は少しサビのついたペアンをまじまじと見つめ一人つぶやいた。

一番博士の頭をもたげているのはカバンに入っていた雑誌の内容だった。

少しカビの臭いがするその雑誌はジャパリパークの外で発行された総合誌であり、2058年4月号と記された表紙の小さな見出しにはある文言が目立つ色で踊っていた。


“ジャパリパークの研究グループ 死亡患者の遺体の取り扱いに疑問”


“2058年の1月に脳神経領域の難病の患者であるフレンズに対し、岬侑帆

医師率いるジャパリパークのフレンズ疾患研究チームは新しい外科的治療の治験を行った。結果術後1週間で患者フレンズは脳障害が原因で死亡。死体検案に回ったその患者の遺体の病理切片を死因解明という本来の目的に必要な数以上に制作し、その多くを研究に使用している疑いがかかった。

一連の行為に対し実験動物学会や動物愛護団体らは「新生物種であるフレンズに対する法整備の不備が最大の問題だが、患者の遺体に過度の侵襲を加えることは倫理上許されるべきことではない。」と批判している。“


この記事が真実を語っているかは博士には見当もつかなかった。それはこの記事に書かれていることが、今まで聞いて調べてきたユウホの立ち振る舞いや人間性と幾分か乖離している気がしているからであった。


「あれほどフレンズからの信頼を集めていた優秀な医師が、このようなフレンズの尊厳を無視するような行為をするのでしょうか。もし事実だったとしても、何かそれ相応の理由があるはずなのです。」


この記事については博士はそう考えるようにしていた。

そして最後の品物、ガラスの瓶の中は透明に近い液体で満たされており、瓶の底には黒っぽい石のような小さいカケラがいくつも沈んでいた。瓶の側面にはバーコードとラベルが貼られており、


“14, Jan. 2058 crystalloid tissue MATSURIKA No.1”


と記されていた。


「何度見てもこれも意味不明なのです。クリスタロイド・ティシュー マツリカ ナンバー1・・・ この石みたいなものも何なのでしょう。」


博士は瓶をつかみ窓から差す光にかざしてみると、ガラス瓶だけでなく底にたまった黒い石のような物も光を透かし、黒曜石のようにキラキラと淡い光を放った。博士は正体のわからないその石の輝きを見るうち、自然と笑みがこみ上げてくるのを感じ、ついにはふふっと声を漏らした。


「ふふふっ、わからないものが増えるのは本当に面白いのです。その度に私はまた一つ賢くなるチャンスを手に入れられるのですから。これだから勉強はやめられない!」


そして手を腰に当て、雲の切れ間からほんの少しだけ溢れた光の筋を見上げて独り言を言った。


「私の精神の本質はかのユウホのような研究者と似ているのでしょうね。それはサキも一緒なんでしょう。何故なら私に似ているのですから。」

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