第322話 ルーだって怖い

 急いで帰宅すると家政婦の晴子はるこさんが待っていた。

 晴子さんは結婚前から我が家で働いてくれていて、産休期間からお子さんが独立するまでは通いで、旦那さんと離婚してからは住み込みで家政一切を仕切ってくれている。

 通いで来ているもう一人は晴子さんの娘さんだ。

 この家のことを熟知しているメイド長といった立場で、もう家族の一員と言っていい。

 春から下宿しているルーのことは、梅干しや漬物作りで意気投合していて、一緒に食事を作ったり掃除をしたりしている。

 そしてルーのいないところでは『若奥様』と呼んでいる。

 まだ早すぎるって。


「晴子、めぐみさんの具合はどうですか ? 」

「お弁当も召し上がらなかったようで、少々体力が落ちておいでのようでございます」


 我が家は明治以前からの医者の家なので、働いてくれる人たちも旧いしきたりで動いている。

 華族とかではないけれど、そういうことがステータスとして受け継がれているる。

 だから内々で働く人たちは名前を呼び捨てにしてくれと言う。

 それが普通じゃないのを知ったのは幼稚園に入ってからで、あちら夢の世界で侍従仕事を始めて、ああそうなのかと納得がいった。

 セバスチャン様がルーがさん付けで呼ぶたびに悲しそうな顔をするのもそうなのだろう。

『わたくしの喜び』

 それは仕える者の矜持。

 侍従として働くようになって、初めて津島さんや晴子さんの気持ちがわかった。  

 以来せめて心の中では敬意を込めてさん付けにしている。

 それはともかく、今はルーのことだ。


「いつから食事をしていないのかわかりますか」

「・・・三日ほど前からお残しが多くなりました。けれど召し上がらなくなったのは昨日の夜からでございます」


 魔物の大群が確認されてからだ。

 みんなで見たドローン魔法の映像。

 僕もあれを見せられて血の気が引いた。

 兄さんたちもアンシアも顔色が悪かった。

 平然としていたのはギルマスとルーだけ。

 だから立ち向かう決意は出来ていると思ってた。

 でも、違ったんだ。

 そうだよ。

 ルーも僕と同じただの高校生だ。

 あれだけの景色を見せられて平気なはずがなかったんだ。

 バレエの最終公演の後もほとんど食事が取れていなかった。

 豪胆なようで、ルーは繊細な心を持っている。

 僕はそれを忘れていた。

 

「めぐみさんは汁物は口にしてくれたんですよね」

「はい。三口くらいですけれど」

「じゃあ、消化が良くて栄養のある物を用意できますか。少しでいいです。僕は様子を見てきますから」


 晴子さんにそうお願いして、急いで自分の部屋に戻って着替える。

 ルーの部屋の扉を叩くとどうぞと返事があった。


「ルー、具合はどう ? 起きていて大丈夫 ? 」

「・・・アル」


 ルーは机に向かっていた。 

 受験勉強をしていたんだろう。

 顔色はとても悪い。


「食欲がないって聞いたよ。今日は全然食べてないって晴子が言ってたけど、具合でも悪いの ? 」

「・・・それは大丈夫よ。問題ないわ」


 問題ありありだ。

 よく見れば目が泳いでいる。

 そして手が微かに震えている。

 

「ルー、この間から何か悩んでるみたいだけど、良かったら話を聞かせてくれる ? 」

「・・・話なんて」


 ルーは唇を噛んで目を逸らす。

 まったく、どうしたら僕を信用してくれるんだろう。

 ルーが話してくれないなら、僕が話すしかないのかな。


「あのね、ルー。ドローン魔法で魔物の群れを見た日。ルーが休んでから兄さんたちのところに行ったんだ」

「兄様たちのところに ? 」

「そう、兄さんたちの部屋へ」


 あの風景を見せられて、僕は震えが止まらなかった。

 もちろんアンシアも。

 だから二人で兄さんたちに会いに行った。

 いつもは僕の部屋に集まるんだけど、あの日はこの気持ちを部屋に持ち帰りたくなかった。

 だから兄さんたちに押し付けてしまった。


「アンシアと二人、兄さんたちに泣きついたんだよ。怖いって。逃げ出してしまいたいって」

「・・・逃げ出したい・・・」

「そしたら兄さんたち、なんて言ったと思う ? 自分たちも同じ気持ちだって」


 ルーが顔を上げた。

 

「ビックリしたよ。兄さんたちが、あの兄さんたちがだよ。魔物と戦うのが怖いなんて言うと思わなかった」

「兄様たちが・・・魔物を怖いって ? 」


 信じられないと言いたげにルーは目を見開いている。

 そうだろう。

 僕だってまさか兄さんたちがそんな気持ちでいるなんて知らなかった。

 兄さんたちに言わせると、恐怖を感じることは冒険者としても人としても大切なことなんだそうだ。

 常に死と対面しているということを忘れてはいけない。

 もし恐怖を感じないような時が来たら、それは冒険者を引退するべき時期なんだって。


「だからね、僕は怖いって思っても許されるんだってホッとした」

「・・・怖いと思うのは用心深いから」


 ルーが小さくつぶやいた。


「死んだ曾祖母が言ってた。雷とか台風で怖くて泣いてたとき」

「そう・・・」

「その後はこう続くの。それを我慢するのが強い人って」


 怖いと思うのは用心深いこと。

 それを我慢するのが強い人。


「だから兄様たちは強いのね」

「ルーだって強いよ。あれを見てもまるで動揺していなかったじゃない。僕は昨日は震えが止まらなかったよ」

「・・・った」

「なに ? 」


 膝の上に置かれたルーの手が、ギュッと握りしめられた。

 そして絞り出すような小さな声が続く。


「私だって、怖かった。他の人たちみたいに屋敷に籠っていたかった」

「ルー ? 」


 王都に残った貴族のご婦人方は、それぞれの屋敷の奥に匿われている。

 本来ならルーだってダルヴィマール邸の一番奥にいるべきだ。

 だけど僕たちは前線に立つことを選んだんだ。


「貴族ですもの。力があるんですもの。前に立って戦うの当然だと思っていたの。出来るって、大丈夫だって。でも実際にあの大軍を見たら、もう・・・無理」

「・・・」

「なのに、みんな私ならなんとかできるだろうって目で見るの。魔法師の人もあれだけやっても、もっとあそこにいて欲しいって言ってた。私の役割は解っているの。でも、でも、私だって怖い。あんなのと戦って、平気なわけがない」


『騎士団の女神』『我らの姫』。

 そんなふうに勝手に持ち上げられているうちに、違和感というか温度差を感じてしまったという。

 

「皆の期待に応えなくちゃって、でも怖くて怖くて仕方がないの。いっそ魔物に殺されてルチア姫でなくなったら、ただの冒険者のルーに戻れたら楽になるのに」

「そんなこと言っちゃダメだ ! 」


 僕はギョッとして思わず声を荒げてしまった。


「ギルマスも言ってたじゃないか、死ぬなって。僕たちは生きる義務があるんだよ。たとえ冗談でもそんなこと言っちゃいけない」

「・・・アル」

「ギルマスに怒られた僕が言えることじゃないけれど、それだけはダメだ。お願いだから、そんなことは考えないで」

「でも、怖いの・・・」


 膝の上で握りしめられたルーの手にポトンと雨粒が落ちた。

 それは一つ二つと増えていって、川の流れのように水色のワンピースを濡らしていった。

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