第575話


「・・・」


 ヴェーチル・・・、其の名を呟く必要は無いだろう。

 その位、俺達の前に現れた飛龍は神々しく、決して巨体とは言えないが、他のどの飛龍とも存在そのものの違いを理解させた。

 ただ・・・。


(身体付きでいえば、アヴニールの方が立派な体躯と感じるし、何より・・・)


「何があったんだ・・・?」

「・・・」


 答える筈の無いヴェーチル。

 然し、漏れ落ちる疑問を止める事が出来ないのは、ヴェーチルの風態の所為で・・・。


「何があったら、そんな傷だらけに・・・?」


 ヴェーチルの深緑の身体には、無数の斬り傷が刻み込まれていて、赤黒い絵の具を乱雑に塗りたくった様に、全身が血で染まっていた。


(でも、此れは・・・)


 当然、此の戦場の別の場所で戦闘して来た事による傷ならば、これ程の傷を負う戦闘なら音等で気付けるだろうし、そんなものは感じられなかったし・・・。


(血とはいっても、鮮血と呼べるものでは無いし・・・)


 ヴェーチルに刻み込まれ傷は、風化していると表現するのが相応しい程、長い年月の経過を感じさせるものだった。


「此処にもまた愚者が一人か」

「ナヴァルーニイ」


 呆れた者に送る台詞を、面倒臭そうに吐き捨てるナヴァルーニイ。


「非道い、言い様だな?」

「どんな契約かは知らぬが、悠久の刻を劣化品と立てた誓いの為に過ごすなど、愚かと言わずして何と言うのだ?」

「・・・」

「其の身を休めるなり、輪廻転生の輪の流れに乗れば、其の様な無様な姿を晒す必要はなかったのだからな」

「っ⁈」


 ヴェーチルが輪廻転生をしていない事は分かっていた事だが、休息も取っていないとは思っておらず、俺はナヴァルーニイの言葉に驚いた。


「当然であろう。翼を休めるのと、身体を休めるのは別の事。休息の刻を過ごさぬ限りは、傷が塞がる事もないのだから」

「ヴェーチル・・・」

「まぁ、休息なぞすれば、預かりものは我等が掌握していただろうが」

「ナヴァルーニイ・・・、貴様ぁ‼︎」


 此奴からすれば当然なのだろうが、ナヴァルーニイの敬意を欠片程も示さない様子に、俺は苛立ちを感じた。


「愚者同士、傷を舐めてやればどうだ?」

「・・・」

「変わり者だし、案外喜ぶかもしれぬぞ」

「言ってろ・・・」


 此奴の物言いに怒りを示す事になぞ意味は無いのだろう。

 そう思った俺は、九尾達へと構え、向き直る。


「パパ‼︎」

「凪・・・」


 背中に飛んで来た凪の声からは、俺が合流して撤退する事への期待が感じられたが・・・。


「しっかり・・・、な?」

「え・・・?」


 背中を向けたままの俺からの返答に驚きの声を漏らす。


「パパ・・・?」

「此の為に来たんだろ?」

「でも・・・、ねぇ?」


 増援が現れるところを目にした事もあり、これ以上もある可能性にも気付いたのだろう。

 戦場の現実を知った事で、凪の声からはいつもの勝気な色は消えてしまっていた。


「駄目だ」

「え?パパ?」

「試練の準備に入るんだ」

「・・・」


 淡々と告げる俺に、凪は遂に応える事をやめてしまうが・・・。


「よく見てみるんだ、凪」

「・・・っ」


 ミニョンとサンクテュエール軍人達が九尾達と激戦を繰り広げている先を、凪へと指し示した俺は・・・。


「敵も味方も、もう既に多くの者が倒れているんだ」

「じゃあ・・・」

「だからこそだ」

「・・・っ」

「お前が秘術を会得しなければ、倒れていった者達は皆が其の意味を失うんだ」

「パパ・・・」

「ママが世界一だって証明してみせるんだろ?」

「っ‼︎」

「行ってくるんだ。パパは必ず此処で待ってるから」

「・・・うんっ‼︎」


 覚悟を決めた凪に、応える様に周囲の風の強さが増し・・・。


「っ⁈パ・・・」


 凪の途切れた声に背後を確認した俺の眼には、宙の先を貫く様に巻き上がる旋風が映ったのだった。

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