第80話雲間の星ですか?

 ふと、目が覚めた。

 暗闇と沈黙に微かな雨音がさざ波のように聴こえてくる。


 いつの間にか夜になっていたようだ。


 窓から差し込む光はすっかりなくなり、月と宿前の酒場からの明かりがぼんやりと硝子に滲んでいる。


「そっか……。もう、夜なのか。何度目の夜だ……」


 堕落した生活。

 廃人とはこういうことを指すのだ、と何となくわかった気がする。

 街中で生気を失った目を何度も見てきた。きっと、同じ目をしているだろう。光が一切差し込まないように感情を閉ざして、ひたすらに下を見るのだ。


「このままじゃ駄目だ……なんて、俺が一番わかってるっつーの」


 でも――


「どうしても立てないんだよ…………」


 悔しい――そんな感情は湧いてこない。今は、ただひたすらに一人になりたいのだ。


 きっと、いつかは立ち上がれる。


 大丈夫。

 できる。


 だって、今までだってなんだかんだ言って乗り越えてきたじゃないか。


 父親と母親のこと。

 クソみたいな職業のこと。

 トラウマ。

 

 死の恐怖だって、一度は克服したはずだ。

 大丈夫。

 みんなを待たせちゃいけない。

 もう少し。 


 もう少し――


「うわあああああああ!」


 雨音を切り裂くような男性の悲鳴が響いた。


 無意識か否か、ハルトは頭までかぶっていた布団を蹴り飛ばし、窓を勢いよく開けた。

 それとほぼ同時に廊下を駆ける音が聞こえたが、今はそれどころではなかった。


 勢いよく顔を叩きつける雨粒と強風に流れて伝わってくる焦げた臭い。

 悲鳴と絶叫の喧騒の中、確かに耳に伝わった「魔物だー!」という声。

 

 どうやら宿の目の前の酒場も被害にあっているようだ。店の外で木目のテーブルが横倒れになり雨に打たれてこびりついた血を洗い流している。

 肝心の魔物の姿は一切見えないため、脅威度がわからないが、被害が出ていることは事実だ。


 痛いほどに脈を打つ心臓を抑え、部屋の隅っこに立て掛けられた一本の剣を見る。


 見つめられている気がする。

 でも、すぐに目をそらした。

 

 先程までの薄暗闇の面影はなく、部屋は外の火の手が反射するように煌々と揺らめいている。

 ふいに、影に覆われた。


 身体に戦慄が走る。

 

 ――いる。


 確かに今、背後に魔物がいる。少なくとも、窓を覆い隠してハルトを震え上がらせるほどの魔物が……。


 反射的に数歩前に出て、恐る恐る振り向く。


 ――ッ!


 思わず小さな悲鳴が口から漏れる。

 巨大な怪鳥が、黒い鱗のような羽を雨で艶めかせて、そこにいた。

 しかし、ハルトが悲鳴をあげた理由は魔物ではない。

 

 怪鳥の口に咥えられ、四肢をあらぬ方向に曲げて力なく白目を向いている男性。


「し…………で、る」


 様々な光景がフラッシュバックする。巨大な龍。降り注ぐあられ。街の情景。犠牲になった人々。


「あ……う、ぁ……」


 いつの間にか尻餅をついていた。

 怪鳥がじっとハルトを見つめる。しかし、ハルトの視線は吸い込まれるように死体に降り注がれていた。


 刹那、怪鳥が横から殴り飛ばされるように窓から消えた。その黒鎧に剣を突き立てた小柄な少女と共に。


「シェリー……?」


 慌てて窓から身を乗り出し、怪鳥の消え去った方向を見るが、すでにそこに魔物と少女の姿はなかった。


「い、いかないと…………でも、行って、それで、俺は何を――」


 震える両手と剣を交互に見つめる。


 突然、部屋のドアが乱雑に開いて、人が入ってくる。大柄な男性と小柄な男性。その後ろをつくように女性が二人。

 

「えっ……? みんな……?」


 ずかずかと近づいてくるテトラ。

 ハルトの胸ぐらを掴み、強引に引き寄せる。ハルトの足が床から少し浮き上がる。

 そして、テトラは空いた右腕を勢いよく振りかぶった。


 左頬を突き抜ける痛み。ぐわんぐわんと視界が回る。


 テトラと視線が交わる。まっすぐに向けられた視線に、ハルトはこの拳の意味を理解した。

 不意に、涙が滲んだ。


 痛いから、ではない。でも、何で涙が出てきたのかハルトには分からなかった。しかし、涙はハルトの目に光を戻した。夜にしては明るすぎる火の色が、ハルトの目に反射する。


「行くぞ」


 テトラは踵を返し、ロインとシャンディ、アカメに向けて言葉を放った。


「ちょっ、テトラ先輩! まだ、何も!」


「いーから、行くぞロイン!」


「え? ちょっと! あの! ハルト先輩! 負けんじゃねーっすよ!」


 ロインをシャンディが引っ張りようにして部屋から出て行く。

 最後に残ったアカメはハルトの頬に溢れる涙を細い指で拭って、微笑みを残して行った。


「みんな……」


 一人残された部屋で、ハルトは窓の外を見た。

 いまだに雨と風はやまず、街は喧騒が漂っている。


 それでも、遠くの空で雲の切れ目から一点の輝きを放つ星が見えた。

 すっと窓の外に手を伸ばす。


 掴めるはずもない星。

 それでも、星を掴む努力をすると過去に誓ったのだ。


「行かなきゃ……!」


 伸ばした手のひらをぐっと握りしめた。


 濡れた髪を雑に搔きあげる。


 もう、逃げない。


 剣を取り、ハルトは部屋を飛び出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る