ss1 後
「つーかさ、ストーカーから仲介役のことを聞いたって? 犯人ってのは逮捕されたんじゃなかったのかよ?」
すると予想外の反応があった。
これまで表情ひとつ動かさなかった男が、どこか訝るような色を眉間に刻んだ。
ついさっきまでは生身の人間かどうかも疑わしかったというのに、不思議なことに、たったそれだけで風情が一変して見えた。
「テレビを観たんじゃなかったのか?」
「胸クソ悪ィからニュースやってる途中で出てきたんだよ。ビッチだって聞かされて情報を売った女が三十八箇所も刺されて殺されちまって、実はただのストーカー被害者だったとかいうオチだぜ? のんきにニュースを見物してる気分じゃねぇよ」
言い終わってから気づいた。相変わらずの距離から、さっきまでとは明らかに違う色合いをした目が冨賀をじっと見つめていた。
やがて、押しつけられた銃口の圧力が少しだけ緩んだ。
「いいだろう、お前に選択肢をやる。このまま死ぬか、情報屋として俺のために働くか。ふたつにひとつだ」
「この局面なら誰だって迷わず後者を選ぶと思うぜ?」
「腕が悪けりゃ前者と同じ結果になるけどな」
男は言って、ようやく物騒な武器を引っ込めた。
「ただし、お前にはもっとスキルを上げてもらう必要がある。俺の知ってるシステム屋が役に立つツールを作ってるから、近いうちに連絡させる」
何のシステム屋? 連絡ってどこに? スキルを上げる?
ンな怪しげなお勉強に時間を遣えるほど、俺は暇じゃねぇ──
が、何ひとつ口にする間もなく気づけばカラになっていたナビシートを、冨賀はしばらく身じろぎもせずに眺めた。全身を支配していた緊張がドッと抜け、かわりにやってきたのは狐につままれたような浮遊感と激しい疲労感だった。
今の出来事は現実なのか?
もしかしたら、あのニュースを含めて丸ごと白昼夢なんじゃないのか……
コンコン、とドアガラスを叩かれて飛び上がった。見ると、経理のパートさんが上体をかがめるようにしてこちらを覗き込んでいた。
「そんなとこボケッと座ったまま何してんのぉ若社長、とっくに出かけたと思ってたわよぉ」
開けた窓越しにのんきな声で言われて、冨賀は数秒、寝起きみたいな気分のまま間延びした笑顔を無言で見返した。
長年見慣れた顔面には、朝よりも数段くすんでしまったファンデーションと、輝かんばかりに清々しい仕事終わりの開放感が混在していた。
「いや、えっと……クルマ出そうとしたら電話がきてさ」
「あらまぁ忙しいわねぇ。さて、オバサンは帰りますからね。社長もいい加減仕事を忘れて、ゆっくり遊んできなさいよ。若いんだから」
若さが遊びに直結する理屈はわからないし、大して若くもないと自分では思ってるが、どちらも口には出さなかった。
おつかれさまぁ、と手をひらひらさせながら彼女が年季の入ったママチャリで去ったあと、冨賀はネットニュースをチェックした。夢なんじゃないかと期待したストーカー事件は残念ながらしっかり存在したし、それどころか行方をくらましていた犯人が蜂の巣になって発見されたという続報まで出ていた。
マジかよ──
何もかもうんざりして息を吐いたとき、ホルダに差してあったスマホが震え始めた。画面に表示された番号は登録がない。
ロクでもない予感がしたものの、だからこそ出ないわけにはいかない気がして冨賀は通話をオンにした。
途端に、やたら馴れ馴れしい大声が常軌を逸する勢いで飛び出してきた。
「やぁ! 酒屋のトミガくんだよね? ついさっき紹介されたばっかりのはずだからわかると思うけどシステム屋だよ! よろしくね!!」
近いうちどころか、連絡とやらはものの数分で騒々しく訪れた。
「──ってな。まぁそんなわけだ」
冨賀は肩を竦め、手にしていたボトルビールをひと口呷った。
都内某所の住宅地、四階建てマンションの三階のバルコニー……というよりも、ベランダと表現するべきなのか? 冨賀は未だにベランダとバルコニーの違いがわからない。
目の前には散りぎわの桜並木と神田川。大して広くもないスペースに置かれたラタン調ガーデンチェア二脚のひとつに身体を預けて話を終えると、隣の椅子からコメントが返ってきた。
「つまり、お前にも良識みたいなものが少しぐらいはあるって勘違いしてもらえたおかげで命拾いしたのか。ラッキーなヤツだな」
言ったのは部屋の主で、その手にも同じボトルが収まっていた。
青いラベル、BLUE MOON。今まで持ってきた中ではコイツが一番のお気に入りらしい。
冨賀は小ぶりのテーブルからピーナツを二、三個つまんで隣に投げつけた。
「散らかるだろ」
「拾って食えばいいじゃねぇか、三秒ルールだよ」
「お前が拾えよ」
「良識が少しはあるって勘違いされた?」
「良識みたいなもの、だ。良かったじゃないか、勘違いされる特性のおかげで俺の引き金も引かれずに済んでる」
「あんたが俺を消さなきゃならない理由って何かあったか?」
「さぁな。それより、もう三秒過ぎてるけどいいのか」
硬い口調のわりに声音は柔らかい。
外観は優しげな草食系にしか見えないこの男もまた、鉄砲を振り回すような素性の人物だった。殺し屋と関わってからというもの、冨賀が知り合うのはこんなヤツばかりだ。
結局、コンクリートに落ちたピーナツは鳩にでもやろうってことになった。
少し霞みのかかった青い空。終わりかけの桜を見物がてら川沿いを散歩する通行人の声が時折上がってくる。東向きのベランダは少し翳ってきてはいるものの、気温は存分に春っぽい。
「そのストーカーの始末は誰が依頼したんだ?」
「被害者の兄貴だよ。正確に言えば最初は殺れって依頼じゃなくて、どうにか排除したいって相談を知り合い経由で受けたらしい。で、会って詳しい話を聞くはずだったのが、直前に事件が起こっちまった」
その時点で依頼内容が掏り替わった。
妹の、そして自分の無念を晴らして欲しい──という依頼に。
「なんで親御さんじゃなくて兄貴だったんだ?」
「親は前の年だかその前の年だかに揃って交通事故で死んじまってた。兄貴はそれも妹のストーカーの仕業なんじゃないかって疑ってたけど、結局は事故ってことで処理されたんだと」
ふぅん……という相槌に、独り言みたいな呟きが続いた。
「何事もタイミングの悪いときってのはあるよな」
南風に煽られた桜の花びらが数枚、ひらひらと舞い込んできた。うちひとつが隣の男の髪に落ちたが、わざわざ教えてやるのも面倒だった。
「でも彼はその頃、組織に属してたんだよな。日本の一般家庭のストーカー事案なんて、そんな小口の依頼まであったのか?」
「あぁ、それな」
あのとき冨賀のこめかみに銃口を捩じ込んだ男は、確かに当時、とある海外の組織に所属していた。
ただし自ら望んでのことじゃなかったし、のちに反旗を翻してフリーランスになった顛末やら、自由を得るまでの大騒動やら……エピソードを並べ上げれば小説か映画の一本でも出来そうなボリュームになるから、それらについての詳細はここでは端折る。
今はただ、休日の昼間っから桜の残滓を眺めて飲むビールの肴に「何故この世界に足を突っ込んだのか?」を問われて、暇潰しに答えていただけだ。
「なんか、たまに人づてで個人的な相談とか依頼があったりしてたらしいぜ」
「副業バイトって感じか」
「組織の仕事と違って、請けるかどうかも自分で選べるしな──で?」
冨賀は身体を起こして、氷水を張ったクーラーボックスからボトルを二本抜き取った。一本を差し出し、一本を開栓する。
「俺がこの世界に足を突っ込んだきっかけはそんな感じだけど、あんたは?」
「俺の話をしたら、せっかくの天気もビールの味も台無しになる」
「何だよそれ」
自分の話も天気やビールを台無しにするには十分だと思ったが、無理に聞き出すことでもなかった。
冨賀だって全てを話したわけじゃない。
何故、この世界に足を突っ込んだのか? その質問に経緯を語りはしても、肝心の何故の芯には触れなかった。
情報屋のオファーを受け入れる以外に選択肢がなかったとか、スキルを上げて能力を示さなきゃ消されてたとか、それらはきっかけであって理由じゃない。
自分を騙して情報を引き出したヤツ、その情報を使って罪もない女を滅多刺しにしたヤツ。
そういうクソどもを片っ端から潰していくためだ……なんて肚の裡を明かさなかったのは、きっと良識みたいなものが少しぐらいはあるように見られるのが性に合わないからだろう。
話さなかったことは他にもある。
罪を拭えるわけでもないのに、彼女の命日には墓前に花を手向け続けていること。
いつしか、訪れるタイミングに合わせて礼を述べるカードが置かれるようになったこと。
姿を見かけたことはない。誰が何の理由で花を供えて行くのかもわかってないはずだ。それでも几帳面な筆跡で書かれた短い文字列を見るたび、罪悪感は薄れるどころか増していくこと──
テーブルに置いてあった二台のスマホが同時に目を覚ました。
片方は受電、片方はメッセージの受信。
画面に浮かんだ差出人はそれぞれ違っていたが、どちらも互いに知ってる名前だった。つまり仕事か、でなきゃ厄介事の発生だ。
やれやれと溜め息を吐いて冨賀がスマホを取ろうとしたとき、横合いから伸びてきた手がテーブルをサッと払って、二台の端末は仲良くクーラーボックスにダイブしていた。
「おい──」
「コイツを飲んでからでもいいだろ」
そりゃ、他に連絡ツールがないわけじゃない。けど冨賀の端末は買い替えてひと月の最新機種だったってのに……
ひとこと言ってやろうと思って上げた目が、スマホをダメにしちまったことなんかどこ吹く風の涼しい横顔にぶつかった。
で、結局は文句を引っ込めて冨賀もガーデンチェアに背中を預けると、開けたばかりのBLUE MOONを傾けた。月夜の時刻じゃないけど見上げた空は
ふわりと、また南風が吹いた。
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