S1 Episode16 最終決戦

s1 ep16-1

 中野が住んでいた部屋に居候が棲みついたのは、およそ一年前のことだ。

 名を坂上という。

 下の名前は教えてくれなかったし、そもそも坂上って苗字が紛うことなき完全なる偽名だったけど、名前なんか記号として機能すれば構わないわけだから全く不自由はしてなかった。

 坂上とは、アパートの最寄り駅である中野坂上近くのバーで知り合った。

 仕事帰りに中野が時々顔を出すバーで、いつも常連で溢れてて、だけど一見客でも当人が壁を作りさえしなければアウェイ感に見舞われることもない、絶妙な居心地の店だ。

 その夜、いつのまにか隣の席に滑り込んでいた坂上はそれこそ一見客で、しかも口数も少ないくせに、薄暗くてザワつく店内に妙に馴染んで見えた。特徴のないニュートラルな風情のせいだろうか。個性がないからこそ、どんな環境にも溶け込める。

 とにかくそのとき坂上は言った。

「このへんは初めてで知り合いもいなくて、泊まるところがない」

 それを聞いた中野は、至極当たり前の返事を投げ返した。

「平日だし、新宿のほうに移動すれば空いてるホテル絶対どっか見つかると思うよ?」

 すると彼は目を伏せ、あぁ……と小さく呟いた。それまで起伏のひとつも窺えなかった顔面に一瞬、動揺みたいな色が走った気がした。

 だけど錯覚かもしれない。すぐに目蓋の下から現れた眼差しは相変わらず平坦だったし、言葉少なに応じる声はますます素っ気なくなった。

 勿論、会話なんか弾まない。

 かと言って、気まずい空気ってわけでもなかった。少なくとも中野のほうは。

 隣の客との会話が弾もうが弾むまいが、アルコールを嗜むための場所ではどうだっていいことだ。だから寡黙なお隣さんとは時折言葉を交わすくらいで全然構わなかったし、盛り上がってついつい飲みすぎるなんてこともなく、程良いほろ酔い加減でひとり帰途に就いた。

 はずだった。

 なのに翌朝目覚めたら、昨夜のバーで隣にいた客がアパートの狭い台所でボトルビールを呷ってた。

 まず初めに、誰だっけ? と考えた。

 三秒で思い至ったあと、一緒に帰ってきたっけ? と訝った。

 でもそうじゃないことはすぐに思い出して、何故いるんだろう? と内心首を捻った。

 が、どんな経緯であれソイツが目の前にいる事実は変わらない。

 だから中野は二人分の朝メシを作って珍客にも食わせ、彼を置いたまま出勤した。なくなって困るものなんか、どうせ部屋には何ひとつなかった。

 だけど何故いたのかは、中野も今では承知してる。

 命を奪うつもりでひと晩中枕元から眺め続けた相手が、結局生き伸びて何事もなかったかのごとく動き出した。その光景を目の当たりにした瞬間、何食わぬ面構えの下で坂上は何を思ったんだろう。

 いずれにしても、あの朝が彼にとって決定的なターニングポイントだったことは間違いない。

 だからから帰ってきたら是非、訊いてみたかった。

 台所で目が合ったとき、一体どんな気持ちだった? ──と。



 叩き起こされたのは丑三つ時だった。

 目を開けると新井の顔が目の前にあって、中野は寝惚けた頭で数秒思案してから念のため尋ねた。

「俺たち、何もしてないよね?」

「何言ってんだ? すぐ出かけるから準備をしてくれ」

「アラーム鳴ってないけど、もう朝?」

「いや、二時すぎだ」

「夜中の?」

 訊いてはみたけど午後二時ならとっくに遅刻だし、同僚はどう見ても出勤スタイルじゃない。それでも一応確認したのは、ここが窓のない地下空間だからだ。

 顎のひと振りで返事を寄越した新井は、仄暗い室内に滲むような黒パーカーにブラックスキニーという姿だった。

 彼の就寝時の定番であるそのファッションは、深夜の襲撃に備えてのことらしい。暗がりのドンパチで夜陰や物陰に紛れることができるし、返り血が目立たないという魅力的なメリットもある。更には屋外でのやり取りに縺れ込んだならパーカーのフードを被り、人目の有無によっては黒いマスクまで装着する。

 そうなるともう中野的には厨二病の高校生にしか見えなかったけど、口に出して伝えたことは一度もない。

「出かけるって、どこに?」

 着替えながら尋ねたとき、ふと喉の渇きを覚えた。空調の不具合だろうか、何だか空気が乾燥してる気がする。

「Kのシステム屋のところに行く」

「クリスのところ? 何があったわけ?」

「向こうで何か始まったらしい」

 同僚の答えは何の説明にもなってなかったけど、向こうってのは多分、クリスの居所じゃなくて鬼退治チームがいる現地のことだろう。

 聞けば、どこぞの軍用の衛星動画システムを傍受して坂上たちの動向をチェックしていたクリスが妙な動きをキャッチする一方で、気になる情報を仕入れた冨賀が新井に報せてきたという。

 ていうか──軍用の衛星動画?

 いくら何でもテレビの観すぎじゃないか? 

 思ったが、重要なのはそんなことよりも彼らが掴んだという情報だ。一体、何が始まったというのか。

 中野はベッドを降りて六分で準備を終えると、新井とともに建物を出た。

 ところが今夜は、屋外への脱出ルートからして少々戸惑った。入居以来愛用してきた二階の玄関ではなく、なんと地下室から直接外に出たのだ。

 まずは射撃訓練部屋の奥の壁が一部、隠し扉になっていた。

 その向こうに現れた人ひとり分の空間で天井からスライド式のハシゴを引き下ろす同僚の背中に、中野は問いを投げてみた。

「こんな便利な出入口があるの、俺が知らなかっただけ?」

「コイツはいざってときのルートらしい」

 質問の答えにはなってないけどイエスってことなんだろう。

「今まで常にいざってときじゃなかった?」

「そうだけど、そうじゃない。ここを使うのは、もう戻らない可能性もあるってときだ。それに毎日こんなところから出勤して帰宅するわけにいかないだろ?」

 まぁ、それはそうだ。

 潜水艦かと思うような頑丈なハッチから顔を出すと、そこは裏手に隣接する民家の塀との狭間だった。毎朝晩こんな場所から出入りしていたら、遅からず目撃されて通報されちまうに違いない。

 それにしても……と、新井について歩きながら中野は思った。

 戻らない可能性もある、か。

 半年暮らしただけの大袈裟な玩具箱は、しかしこれまで体験したどの棲処より──子供時代を過ごした家を除けば──最も身体に馴染んだヤドカリの殻だった。だから地面に根の生えた箱には興味がない中野であっても、正直言うと少し惜しい。

「戻らないかもって先に聞いてたら、必要なものを持って出たのにな」

「必要なものって?」

「明日着るスーツとか、仕事用の荷物とか」

「あのな中野」

「うん?」

「戻れないような事態っていうのはイコール、明日は出勤できない可能性が高いってことだ」

「あぁ、そうなんだ」

 建物の隙間を縫って路地を抜けた先には黒いワンボックスが佇んでいた。

 どこかで見たようなボディだと気づくそばから、躊躇いもせず近寄った同僚が横っ腹のスライドドアを無造作に開けた。

 闇に蹲っていた黒いクルマの暗い車内では、浅黒い肌の肉食獣みたいな男が待機していた。情報屋だ。そう、コイツはダミアンの一件のとき酒屋からホテルまでの足に使ったワンボックスだった。

「早いな」

 新井の声に、この時間だからなと冨賀が答えてエンジンに点火する。

 黒い業務用ワンボックス──ただし、そこらの無精な家庭の滅多に洗車しないファミリーカーよりも余程ピカピカに磨き上げられてる──は、目立たないよう何食わぬスピードで滑り出した。

 スタートして間もなく、新井がコンソールボックスを跨いで後部座席から助手席へと移っていった。詳細を聞くついでに、どうやら辺りに目を配る見張り台的なポジションも兼ねるようだ。

 ボソボソと交わす二人の声は、リアシートまでは届いてこない。中野に聞かせても構わない内容かどうか、ガードを担う新井の判断が必要なのかもしれない。

 蚊帳の外には慣れっこだから聞き耳を立てる努力は放棄して、中野は前に並ぶ草食系の同僚と肉食系の酒屋を見るともなく眺めた。

 しなやかな野生の獣を思わせる浅黒い冨賀と、男臭さを感じさせない柔和な外観の新井。その実、彼らの中身はどちらも等しくオスだってところが面白い。否、むしろ戦闘能力まで含めれば新井のほうが一段上なんじゃないだろうか?

 が、別に、だから何だってわけじゃなかった。気を紛らわせるためだけの無意味な思考に過ぎない。

 後部座席のパッセンジャーが愚にもつかないことを考えている間に、ワンボックスは目的地に到着していた。

 控えめな速度で走っても、せいぜい出発から十五分足らずだったと思う。

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