s1 ep12-13

 右から左に流しかけた新井の言葉を、中野は脳内に引き戻した。

「円じゃなくてドル?」

 全員が各々頷く。

 ドルじゃなくて円だとしたって庶民リーマンには大層な額だけど、今どき宝くじでも幸運にさえ恵まれたなら、その数倍にもなり得る。ただしドルとなれば話は別だった。レートにもよるとは言え、単純に1ドル百円と仮定したら計算するまでもない。ゼロを二つ加えるだけのことだ。

 それだってアメリカ辺りの宝くじなら、その数倍になる可能性もあるだろう。だけど家計金融資産の規模が半分以下でしかない日本の、一介のリーマンの懐に転がり込んでくる額としては、非常識に大きすぎる。

 淀んだような静寂の中で中野はしばらく思案した。

「「まぁでも、そんなカネいらないな。相続ってただでさえ面倒なのに、海外資産が絡んだら滅茶苦茶面倒くさいしね」

 咥えた煙草に火を点けようとしてた冨賀がライターを擦る指を滑らせた。

「おい、マジで言ってんのか!?」

「だって、その財産がどんな形でどこにあるのか知らないけど、果てしなく面倒な予感しかしないし。もらわなければやらずに済む煩雑な手続きも、わざわざ好き好んで背負い込みたくないよ」

「中野が心配する必要はない」

 新井が言った。

「ミトロファノフ氏が分散して持ってた偽名のオフショア口座のうち、いくつかを経由させて代理人が──いや、今ここで言うことじゃないな」

 うっかり何かを漏らしかけて踏み留まった同僚に、システム屋たちの脳天気な申し出が続く。

「そんなの必要とあらば僕がどうにでもしてあげるから心配要らないよ、中野くん」

「それより、カネが要らないなら俺がもらってやるから心配するなよ、ノゥリ!」

「ドサクサ紛れに何言ってんの、この死に損ないは?」

 ヒカルがダミアンを蹴飛ばすのを、もはや目に馴染んだ光景の一部として眺めつつ、中野は彼女の先輩である新井に尋ねた。

「そもそも、そのカネを俺がもらう理由って何なわけ?」

「正確なところは明かされてないけど、構ってやれなかった息子へのささやかな償いだとか、そんなニュアンスなんじゃないか?」

「カネ持ちの親にありがちな勘違いだね。けど、だったらもっとささやかな額にしてくれたほうがゴマかしやすいし気楽で有り難いんだけどな」

「金銭感覚の違いだろうな。フォーブスの世界長者番付では五十位にも届かないとは言え、それでも氏の資産からしてみれば、息子への償いとするには妥当な額なのかもしれない。それに公表されてるのはあくまで表向きの数字で、ミトロファノフ氏については黒い噂もいくつか囁かれてて、実際の資産額は四百億ドルを下らないとも言われてる」

「何その、国家予算とかに出てきそうな数字?」

 中野は溜め息を吐いた。

「そんなカネますます欲しくないし、そんなもの継がされるなんて絶、対、お断りだね。けどまぁとにかくさっき言ってた、一年経ったら値上がりするって意味はわかったよ」

 な? と招かれざるダミアンが割り込んでくる。

「Kが組織を裏切って独り占めしようと考えたって不思議はないだろ? こんな欲のねぇヤツに大金が転がり込むとなりゃ、そりゃあ本人に取り入っちまえば賞金より断然デカいに決まってるもんな。けどガードたちの派遣会社は取り分1パーセントなんだから賞金のほうがデカいってのにさ、立場によってベストな選択肢が様々だから全く、困るよなあんたらも」

「まだ言ってんのかテメェ、どんだけ殴られりゃ懲りんだよ? Kがらしくもなくさんざんグダグダ悩んで打ち明けられずにいたってのに、アッサリ台無しにしやがってよ!」

「賞金稼ぎの組織じゃないって何度言わせるんだ? 立場なんか関係ない。ここにいる全員、中野を守るっていう以外の選択肢はないんだから何も困らない」

 初っ端の苛立ちが蘇ったらしい窓辺の二人がそれぞれ表情を険しくしたあと、さっき点けそびれた火をようやく煙草の穂先に灯した酒屋が、新井の言葉にますます眉間の不機嫌を深めた。

「俺は好きで守ってねぇけどな」

 低く吐き捨てた声は面倒だから聞こえなかったフリをして、誰にともなく中野はボヤいた。

「だけど理不尽な戦火をくぐり抜けた末の一年目に、ささやかな償いとか言われたってね……そのカネが先にあれば、俺だって自分でどこかの腕利きを雇ったりできるのにさ。実際するかどうかは別としても」

「まぁでもやっぱ、そこまで生き延びられるくらいの強運の持ち主じゃなきゃ、カネをやる価値もないってことなんじゃないのか?」

 軽い口ぶりを挟んできたダミアンが、更に面白半分の調子でこう続けた。

「あとひと月、されどひと月、どうなるか見ものだよな。何だったら運試しを手伝ってやってもいいぜ? 俺の情報ひとつで殺到してくるハンターたちを、ここにいるあんたらが捌けるかどうかの」

 言い終わらないうちに、四つの銃口が一斉に声を寸断した。

 全てがひとりの男にピタリと据えられたそれらは、素早く立ち上がった坂上と新井、ソファから至近距離で狙うアンナとヒカルの鉄砲だった。武力以外を武器とする残りの二人は、どうやら銃刀法には触れていないらしい。

 冗談だよ冗談、とダミアンが寝そべったままホールドアップのポーズを見せてから十五秒後、坂上以外の三人が心底うんざりした表情で銃を収めた。

 が、ひとつだけ残った銃口は微動だにしない。

「マジで悪かったって、なぁK。考えてもみろよ、俺を地獄から救い出してくれたあんたに不都合な真似なんかするわけないだろ?」

「救い出されたことを後悔したくなかったら言葉に気をつけろ、行動にもな」

 抑えた声音で静かに告げる坂上を斜め後方から眺め、中野はそこに遠い記憶の後ろ姿を重ねてみた。

 庭の隅で膝を抱えて鳥の死骸を眺めてた半ズボンの幼児が、こんなことを言うようになっちまうんだもんなぁ──そんな風に考えると、妙に感慨深いものが込み上げてくる。

「始末するのはもう少し先でも遅くないわ、K。こんなボロ雑巾みたいなヤツでも、まだまだ二、三杯は出せるティーバッグよ」

 ボロ雑巾みたいになったのは、ここにいる顔ぶれのせいだよな──? 思ったが口には出さずに見守っていると、坂上がようやく銃口を逸らしてセイフティをオンにした。

 食い入るように成り行きを見つめていたクリスが、大きく息を吐き出した。

 そのオーバーアクションに鬱陶しげな目を走らせたアンナが、ふと何かに気づいたようにシステム屋を二度見した。

「そういやクリス、途中からやけに大人しかったじゃない。何をそんなに一生懸命見てんのよ?」

「いやぁ、さっき彼のマシンのセキュリティを突破できたから、あれこれ覗いてたら没頭しちゃってさぁ。すーっごく面白いものが、いーっぱい入ってるんだよ!」

「ちょ、何見てんだよ!? やめろよ!」

 跳ね起きたダミアンを銃で制して、ヒカルが顔を顰める。

「ボロ雑巾のくせに、ほんっと元気ね。何なのコイツ、やっぱりクスリでもやってんじゃない?」

 女子二人とシステム屋二人のひと悶着を横目に、中野は窓際の二人に顔を向けた。

「他になければ、そろそろ解散しない? 大体もう話はわかったし」

「いいけど、アイツをどっかに移動させなきゃいけないんじゃないのか?」

 新井に言われて、ここに来たそもそもの用事を思い出す。

「あ、忘れてた」

「どこまでも自分本位なヤツだよな」

 呆れ果てた面構えの冨賀が、灰皿に灰を落としながら坂上に尋ねた。

「で? そのクソ野郎をどこに置いとくんだ? ここから近いとこなら関口か大久保か? 大久保のほうが似合いだけどな」

 それらの地名は、匿っておけるような拠点がある場所なんだろう。大久保がどんな風に似合いなのかは知らないが、坂上が答えるより早く、アンナが唐突にこんな提案を持ちかけた。

「そうだ、K。何だったらコイツ、私に預けてみない? 一週間もあれば二度と馬鹿は言わない完璧な忠犬に仕立ててあげるわよ」

 え? と素早く反応したのは隣に座るヒカルだった。

「コイツを預かる? 本気で言ってんの?」

「えぇ、ヒカルも一緒にどう? 楽しいわよ、男を教育するのって……それも、形のいいものほどズタズタに引き裂いてから成形し直す楽しみが大きいのよねぇ。今回は特別やり甲斐がありそうだわぁ」

「何言ってんの? 冗談じゃないわよ」

「あ、俺は大歓迎だよ、二人組で躾けてくれるなんて期待で胸が震えるね」

 今は腫れて血だらけで見る影もないとは言え、モデル並みの容姿を持つエキゾチックなシステム屋は、さすが殺し屋に飼い殺されてたドMらしい発言で場の空気をドン引きさせた。が、ともあれ最終的にはアンナの申し出通り、彼女に託すことになった。

 その決定に目を三角にしたのはヒカルだ。

「ごはんの続きはどうすんのよ? 足りてないから後で仕切り直すって言ってたじゃない」

「心配しないで、約束は守るわよ。パスタはもう食べたからイタリアンじゃなくても構わないでしょ? コイツを地下のお仕置き部屋に放り込んだら、とっておきのフレンチに案内してあげる」

 なんと地下には射撃場だけじゃなく、お仕置き部屋まであるらしい。なかなか興味深い話ではあるけど、下手に話が長引いてしまうと帰るのが遅くなるからコメントは控えることにした。

 撤収するにあたっては、この部屋をどうするかで少々意見が分かれた。

 支払いさえすれば誰も泊まらなくたって構わないとはいえ、女子二人とダミアン含むシステム屋二名は「もったいない」「せっかくなんだから」と言い張り、中野と坂上が泊まればいいんじゃないかと口を揃えた。

 新井はノーコメント、冨賀は咥え煙草の煙に目を眇めながらこう言った。

「冷蔵庫の中身はどうすんだよ?」

 酒屋に預けてあるスーパーの荷物のことだ。

「うん、俺は帰って家でごはん作りたいかなぁ」

 あんたはどう? と同居人を覗き込むと小さな頷きが返ってきた。どうとでも取れるジェスチャだけど「家でごはんを食べる」ことへの賛同だと解釈しておいた。

 で、最後には女子二人がお泊まり会をするという結論に至った。

「なんで私があんたと泊まんなきゃなんないのよ?」

「いいじゃないヒカル。絶品フレンチを堪能したあと、こんな素敵な部屋でひと晩中二人っきりのお泊まりデートだなんて最高だわ」

「勘違いしないでよね、デートじゃないんだから!」

 こんな具合に、だ。

「けど地下牢に閉じ込めるからって、ソイツを初日からひと晩留守にしても大丈夫なのかよ?」

「嫌ぁね。牢屋じゃないわよ、お仕置き部屋だってば。今夜は信用できる協力者に任せるから大丈夫」

「協力者?」

「えぇ、とっくに調教済みの忠犬よ。まずは彼にたっぷり可愛がらせることにするわ」

 情報屋と武器商人の会話に、調教前の犬が戸惑いを割り込ませた。

「え、彼……? 待った、俺そっちの趣味は……」

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