【幕間】s1 ep12' 追憶 Ⅱ

 次に日本に戻ったのは、ちょうど十年後のことだ。元々いずれはそうなる予定で、だから日本で生活するにあたって不自由しない教育も受けていた。

 与えられた幾つもの偽の身分を使い分け、東京を拠点に依頼さえあれば世界中のどこへでも赴く。そんな生活が始まった初めの頃、懐かしい場所を訪れたことが一度だけあった。昔、父と二人で暮らしていた土地だ。幼い記憶は曖昧ではあったけど、少しずつ集めた情報を頼りに数年がかりで位置を特定していた。

 果たして、かつての住まいがあったところには、小ぢんまりとしたマンションが建っていた。

 ──が、隣家はなんと、昔のままの姿を留めていた。

 その佇まいを目にした刹那、タイムスリップでもしたような気分に見舞われて、しばし呆然となった。

 幾度となく自分を預かって面倒を見てくれた女性が、今にも玄関から現れそうな既視感。

 初夏の蒸し暑い日差しの下、少し離れた路上に立ち尽くしたまま、何をするでもなくぼんやり眺めていたときだ。

 まるで追想に呼応するかのように視線の先の玄関が開いて心臓が跳ね上がった。

 そして次の瞬間、今度はその心臓が止まるんじゃないかってくらいに驚いた。開いた扉から現れた二人の男のうち、ひとりは紛れもなく見覚えのある顔だったからだ。

 白っぽいTシャツにヴィンテージな風合いのデニム、ネイビーのスニーカー。二十代前半に見えるその姿は、発達途上にあった少年とは違う一方、面影を色濃く残してもいた。

 髪や肌、全体に纏わりつく柔らかな色合い。何気なく巡らせた視線が景色の一部みたいに自分を掠めて逸れていく。その目が相変わらず何も映していないことまでも、あの台所で対峙した日のままだった。

 とうの昔に引き払ったはずの家で何をしていたのか。ひょっとしたら十年の間に戻っていたのかもしれないとも一瞬考えたが、外から見える限り庭木や建屋に生活臭が感じられない。

 足を止めて塀の向こうを振り仰ぐ彼を、連れの男が促した。ポロシャツにジーンズというラフな格好の、親子ほど年の離れたその男が誰なのかは見当もつかなかった。

 声をかけることを考えなかったと言えば嘘になる。

 二人並んで立ち去っていく後ろ姿を見送りながら、今なら追いつけると何度も自分に言い聞かせた。

 生きて動いてる彼が、あそこにいる。手の届くところにいる。行って、あの背中に話しかけよう。まだ間に合う。今ならまだ、走れば──

 が、結局は最初から最後まで一歩も動くことができないまま、遠くの角を曲がって完全に視界から消えるまで、ただ目で追うだけが精一杯だった。

 彼が気づかなかったのは無理もない。そもそも言葉を交わしたのだって一度きりだというのに、その上あの頃の自分は幼児と言ってもいい年齢で、十代の少年が二十歳を超える程度の変化とは比較にならないだろう。

 だけど、それで良かったと思うことにした。

 気づかれなくて良かった。自分はもう姿形のみならず中身まで、あの夏の日、一緒に鳥を埋葬した子供じゃない。そんな事実を知られずに済んだことに安堵すべきだ。そう己に言い訳し、二度と訪れないことを誓ってその場を後にした。

 彼がまだ、あの家と何らかの繋がりがあるのなら、それを手がかりに所在を知る術はいくらでもあった。でも探さなかった。

 知ったところでどうなる?

 昔、隣に住んでた子供だと名乗って、どうする? 嘘の近況でも並べ立てるのか?

 それ以前に隣家の幼児のことなんか、彼が覚えてるかも疑わしい。

 だからそれきり記憶の底に仕舞って蓋をした。

 その先は脇目も振らず仕事さえしていれば、時が経つのはあっという間だった。

 もともと苦手だった感情表現は、幸いにもあまり必要ない仕事だ。

 表に見せないだけじゃなく内側にあるものを殺すことにも慣れ、その特性が有利に働いて着実に経験が積み上がり、比例して偽名も増えた。

 やがてそれらの名前が知れ渡り、ロクでもない生業が臓腑の細胞ひとつひとつにまで沁みついて、もはや自分が誰なのかもわからなくなった頃、その仕事が舞い込んできた。



 あるとき、写真の入手すら間に合わないほど火急の依頼が入った。

 送られてきた情報は対象者ターゲットの氏名と年齢、人種のみ。外観については推定だった。

 それでも当人らしき人物の所在を掴んだという連絡を受けて、一番近くにいた自分が向かうことになった。

 丸ノ内線と大江戸線が交差する中野坂上駅からほど近いバーに到着したとき、入れ違いに店から出ていく観測手スポッターが手の中に紙切れを滑り込ませてきた。

 走り書きの『CR3』──カウンター席の右から三番目。

 後方からの目測では身長180センチ台後半。濃紺のスーツの背中はやや細身ながらも痩身というほどではなく、姿勢がいい。柔らかな髪の色合いは、おそらく照明のせいだけじゃないだろう。データでは、詳細は不明ながらもスラヴ人とアジア人の混血となっていた。

 その右隣の席から空のグラスを取り上げたバーテンダーが、天板を拭きつつ目を寄越して、こちらへどうぞ、と声をかけてくる。ちょうどクリスマスが近いこともあってか店内はほぼ満席で、カウンターもその一席以外は埋まっていた。

 渡されたおしぼりと引き換えにハイネケンをオーダーして、何気なく左横の客を窺った。

 そのあとの数秒間は、呼吸をするのさえ忘れていた。

 おかげで、視線に感づかれるという失態まで犯した。

 ただ、特段外国人が集うというわけでもないバーで、明らかに混血っぽい客が隣にいたら、二度見するヤツくらいはいるのかもしれない。こちらを見た彼は、不審がる風情もなくこう言った。

「こんばんは」

 たまたま隣り合わせただけに過ぎない客同士の、短い挨拶。

 だけどその声は、間違いなく記憶の奥底に沈んでいたそれと重なった。

 ──何やってんの?

 初めて耳にした言葉が脳味噌の芯にふわりと浮上する。

 初めて耳にした言葉が脳内にふわりと浮き上がる。

 もちろん、声変わり前の少年と全く同じというわけじゃない。それでも忘れようがない穏やかな口ぶりと、一切の気持ちがこもらない優しげなトーン。

 オーダーしたハイネケンが来たことも知らなかった。気づいたときには滑らかな泡の乗ったビアグラスが目の前にあって、お疲れさま、という言葉とともに、中身がほとんど入っていないロックグラスが横合いから差し出されていた。

 ビアグラスを引き寄せて乾杯に応じた指先の震えは、幸い彼の目に止まらなかったようだ。

「仕事帰り?」

「……そんなもの」

「職場がこの辺り? それとも地元がここらへん?」

 首を傾げて問う仕種も、あの日の残像と寸分違わない。

 不覚にも、それだけで眼窩の奥が熱を持つのを感じて、ごまかすように顔を俯けた。おかげで彼の問いへの答えは、自分でも何だかよくわからない返事になってしまった。

「このへんは初めてで知り合いもいなくて、泊まるところがない」

 ボソボソと答える隣で、グレンモーレンジのロックをオーダーする声がする。どうやら無様な発言は聞こえなかったらしい。

 ホッとしたのも束の間、こんな言葉が降ってきた。

「平日だし、新宿のほうに移動すれば空いてるホテル絶対どっか見つかると思うよ?」

「──」

 途端に居心地の悪さが跳ね上がり、早く話の軌道を逸らしたくて、さっきから引っかかっていた疑問を確認することにした。

 それとなく名前を尋ねると、返ってきたのは情報どおりの苗字だった。

「中野。中野区に住んでる中野だよ」

 小さく肩を竦めて笑うのを聞きながら、己への弁解のように考えた。

 ほぼ後ろ姿だったとは言え事前に画像を入手していたにもかかわらず、顔を見るまで思い至りもしなかったのも当然だ。

 何故なら、隣家に住んでいた母子は中野なんて姓じゃなかった。

 幼い頃の記憶は曖昧でも、十六歳のとき目にした表札の字面は忘れない。母親が再婚でもしたのか。ひょっとしたら、あのとき一緒にいた年配の男は義父だったのかもしれない。でなければ誰かの養子となったか、あるいは結婚して婿養子に入ったか。少なくとも指輪は見当たらないけど、そんなものでは判断できない。

「で、あんたは?」

 自分の名前を訊かれてると気づくまで、数秒かかった。

 でも幸か不幸か、尋ねる声音が社交辞令の域を出なかったから、明らかな偽名を名乗る後ろめたさはほとんどなかった。

「坂上」

 実際、そう応じた声にこれといった反応は返らなかった。

 中野坂上にある店で中野という人物の隣で坂上なんて名乗れば、普通は笑うか、呆れるかするだろう。だけど彼は、へぇ、とひとこと漏らしただけだった。

 興味がないのだ。

 あのときと同じく、今こうして横に座っていてさえも。

 そう悟った途端、経験したことのない感情が鳩尾のあたりを締め上げた。

 そのあとはもう、自分が何を喋ったのかも覚えていない。

 ちゃんと思い出せるのは、翌日も仕事だからと帰って行った彼を追って店を出た辺りからだ。

 後を尾けて自宅を確認したあと、ゆっくりと時間をかけて周辺を歩いた。神田川

沿いに出て東側の遊歩道を北上し、西側に渡って南下し、往きとは別のルートを辿ってアパートが見える場所まで戻った。

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