【幕間】s1 ep12' 追憶 Ⅰ

 暑い夏の日だった。

 とは言え、その頃の暑さっていうのは、今とはまるで性質が違ってた気がする。近頃の容赦のなさと比べたら、日差しはもっとずっと穏やかだった。

 五歳の自分は、近所の同じ年頃の子供たちのように、幼稚園や保育園に通ったりはしていなかった。理由は未だに推測の域を出ないものの、当時は不思議に感じることもなかった。が、いずれにしても、あれは多分夏休みの真っ只中だったはずだ。

 唯一の家族である父親は在宅の仕事をしていて、基本的にはいつも家にいた。仕事というのが何だったのかはわからない。だけど時折ひとりで出かけることがあって、そんなとき幼児の自分は、隣家に預けられるのが常だった。

 その日もそうだった。

 隣は逆に母子家庭で、父と同年代くらいの母親と、そろそろ中学校に上がろうかという長男の二人暮らしだった。にも関わらず普段から何かにつけ面倒を見てくれたのは、父子家庭という環境において手が回りかねる父を見かねて──だったのかどうか、今となっては確かめる術がない。

 のちに振り返れば、親の遺産でもない限り母子家庭には少々不釣り合いに感じる庭付きの一軒家で、妙なことに彼女は働いてる様子もなければ、男が出入りしていた気配もなかった。

 だけどそんなことは、子供の身には関係ない。

 綺麗で明るく、芯の強さを感じさせる、隣の家のお母さん。嫌々とか渋々ではなく、他人の子の世話を焼くことすら純粋に楽しんでる様子に見えた。普段は優しい傍ら、必要とあらば本気で叱られもした。

 自分が預けられてるとき彼女の息子は大抵不在だったが、その日は用事で家を空ける母に頼まれたのか、珍しく留守番をしていた。

 だけど子供好きという気配もない思春期目前の一人っ子は、部屋にこもりっきりで幼児の相手をしてくれるでもない。

 することもなく庭に出て、草の陰に潜む虫を見つけては観察して回る途中、片隅で野鳥の死骸に遭遇した。雀のようでもあったけど、雀より大きかった気もする。

 そばにしゃがんで、照りつける太陽の下で膝を抱えて座り込んだまま、どれくらい経っただろうか。ふと落ちかかった影に気づいて顔を上げると、滅多に姿を見かけない少年が立っていた。

 家の中にいないことに気づいて探しにきたようだ。子供に興味はなくとも、任された以上、何かあってはいけないと思ったんだろう。

「何やってんの?」

 おそらく初めて聞く声は、思いのほか優しかった。

 だけど何と答えていいのかがわからない。

 鳥を見てる。死んだ鳥を見てる。死んでるから見てるわけじゃない。

 模様の精密さに、動かない小さなガラス玉みたいな眼球に、ただ目を奪われて、いつからここにいるのか、どこから来たのか、どうして死んでしまったのか、そんなことを考え出したらキリがなくなっただけだ。でもそれをどう説明すればいいのか、上手い言葉が見つからない。

 年の離れた少年は、黙り込んで返事もしない幼児の無反応を気にする素振りもなく、膝を抱え込む手に触れてこう言った。

「お墓を作ってあげようよ」

 そして二人で、庭の片隅に鳥を埋葬した。

 墓穴に土を埋め戻して手のひらで均した彼は、地面を見つめたまま動かない自分を覗き込んで促した。

「日射病になっちゃうから、中に入ろう」

 今では何でもかんでも熱中症という言葉を使うけど、当時はむしろ聞かなかった気がする。小さく首を傾げて促す彼の額にも、汗の粒が無数に光っていた。

 家に入ると、まず洗面所に連れて行かれて手を洗わされた。背丈が足りず、洗面台の前で懸命に手を伸ばす幼児の後ろに立ち、彼は洗うのを手伝ってくれた。

 そのあと、父が預けていった荷物からTシャツを引っぱり出して、汗だくの服を着替えさせられた。

 それからこう訊かれた。

「おなか空いてない? オムライス食べるなら作ったげるよ」

 黙ったまま頷くと、オムライスを作ってくれた。

 形は少し歪ではあったけど、卵の優しい香りとケチャップの酸味を嗅いで初めて、空腹だったことに気づいた。

 彼の母親も、何度かオムライスを作ってくれたことがある。きっと息子も家事を手伝ううちに作り方を覚えたんだろう。

 電源を入れたテレビを子供向けのチャンネルに合わせ、テーブルに頬杖を突いて興味なさげな目を投げていた彼が、ふとこちらを見て頬を緩めた。

「ケチャップ付いてるよ」

 そう言って手を伸ばして、口角の際にくっついていたケチャップを指で拭ってくれた。

「どう? 美味しい?」

 無心にスプーンを口に運ぶさまを正面から眺めていた彼の、窓からの日差しを受けて柔らかな色合いを放つ髪や瞳、肌の白さを今でも思い出せる。

 だけどそのときの眼差しを見て、子供心にも気づいた。否、子供だったから気づいてしまったのか。

 彼の物腰も声も、とても優しい。だけど、それだけだ。

 その目はこちらを見てはいるけど、本当は見ていない。どこか遠くを見てるわけでもなく、多分何ひとつ見てはいない。自分が懸命に見ていた鳥の死骸の精巧な羽模様も、きっと彼の目にはまるで映っていなかったことだろう。

 あの瞳に自分が映る日はくるだろうか。

 いつか、そこに映る自分を見ることはあるだろうか。

 しかし確かめる機会は訪れないまま、あるとき気がついたら隣家はもぬけの殻になっていた。

 六歳の初夏、隣の長男は中学生になってたはずだ。

 結局、その家とどんな関係があったのかなんて当時は考えもしなかった。が、それは幼さゆえというよりも、それどころじゃなかったというほうが大きい。

 何しろ、時を同じくして父が急死した。そして知らない大人がやってきて、何がどうなってるのかもわからないまま、遠いところに連れて行かれた。

 ただし、行き先は知らない場所だったわけじゃない。冬が長く、寒さが厳しい土地。あの家で父と暮らし始める前はそこにいた。だから正確には連れ戻されたと言うべきか。

 表向きは肉親のいない子供たちを保護する施設だった。が、実情は全く別の顔を持っていた。

 そこでは基礎的な一般教育のほか、特殊な仕事に就くための専門教育も受けた。だけど詳細は端折る。冗長になる上、決して愉快な話じゃない。

 ただひとつ言い訳をするなら、そこにいた子供たちの誰にとっても、それが当たり前の世界だった。

 自分が何者なのかなんて考える暇もなく、教えられる全てを骨の髄まで染み込ませることだけが、彼らが生きていくための術だったからだ。

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